第26話「じ、じゃあ、脱がします……」

 エントランスホールのインターホンに羽菜さんの部屋の番号を打ちこみ、呼びだす。


 緊張はしたが、臆して引き返すという選択肢は浮かんでこなかった。


 とにかく、会う。会って、話をする。


 インターホンのスピーカーがぷつっと音をたてた。つながったらしい。


「羽菜さん、あの――」


 言いかけたそのとき、自動ドアが開いた。スピーカーがまたぷつっと音をたてた。接続が切れたらしい。


 ――……え?


 拒絶とも受けとれる無言。しかしドアが開いたということは受けいれられたともいえる。


 矛盾した行動。奇異なもの感じたが、立ち止まることはしない。


 俺はドアが閉まる直前に身体を滑りこませる。


 階段を上り、羽菜さんの部屋の前へやってきた。俺は余計な考えが浮かんでくる前に呼び鈴を押した。いまの俺を動かしているのは好きという衝動だけだ。


 ――……?


 ボタンを押して一分ほどたったが、反応がない。やはり俺に会いたくないのだろうか。しかしエントランスのドアは開けてくれたし……。


 もう一度、呼び鈴を押す。しかし、やっぱり反応はない。


 メッセージを送ってみようかと鞄からスマホをとりだした――そのとき。


 かちゃ、と音がした。そしてことさらのようにゆっくりとドアが開かれていく。


「……」


 ようやく羽菜さんが出てきた。にもかかわらず俺はなにも言えずに彼女を見つめることしかできなかった。


 えんじ色のジャージに、赤いフレームのメガネ。きつく縛った髪、濃いクマ、そしてマスク。


 忘れていた。ここしばらく『恋人』としてしか会っていなかったから、オフのときの彼女の姿を。


 どろりとした目つきで羽菜さんが俺を見た。


「……なんだ、夢か」


 と、ドアを閉めようとする。


「ちょちょちょ!」


 俺はドアの隙間に手を差しこんだ。


「リアルですよ!」

「リアルな夢……?」

「まごうことなき現実です!」


 羽菜さんの様子が明らかにおかしい。言動もそうだが、声に張りがなく、動きものろのろしている。


 ――マスクしてるし、まさか風邪?


「夢じゃないの……?」


 羽菜さんはへなへなと三和土たたきに座りこんでしまった。


「羽菜さん!?」


 肩をつかんで、倒れこみそうになる身体を支える。


「駿太くん……」


 ささやくような小さな声で言う。


「助けて……」


 彼女のおでこに手を当てる。


「あっつ……!」


 使い捨てカイロみたいに熱い。完全に風邪だ。


 ひとまずベッドまで連れていかねばなるまい。肩を貸し、羽菜さんの身体を支え、部屋にあがりこむ。


 一緒に夕食を食べたリビング。その隣の部屋が多分、寝室だろう。


 引き戸を開ける。


「うお……!」


 ベッドはあった。しかし、そこはまちがっても寝室と呼べるような空間ではなかった。


 本があちこちに積まれている。いや、部屋が本に占拠されていると形容したほうがわかりやすいだろう。積み本のタワーが机の上や床をほぼ埋め尽くしている。


 一歩、踏みだす。つま先が積み本タワーのひとつに当たって崩れる。崩れた本が隣のタワーに当たって崩れ、崩れた本がまた隣のタワーを崩し――と連鎖して、ばさばさばさばさとまるで渡り鳥がいっせいに飛びたつような音を立てて本の雪崩が発生した。


「ひ、ひぃ……!」


 作りかけのドミノを崩してしまったような罪悪感。


 しかし羽菜さんは無言。ぐったりとして動かない。朦朧としているらしい。


 俺は足で本をかき分けて道を作りながら、ベッドへ彼女を運び、横たえた。


 メガネをはずしてやると、潤みがちな目が俺をとらえた。


「駿太くん……」

「なんですか?」

「わたし……死ぬの……?」


 ――めちゃくちゃわかりやすく弱ってる……!


 具合の悪い彼女には申し訳ないが、ちょっと笑いそうになってしまった。なんだか、とてもかわいい。


 ――さて……。


 俺が風邪をひいたとき、母さんがなにをしてくれたか思いだす。必要なのは風邪薬と熱冷ましのシート、水分、消化にいい栄養価の高い食べ物、栄養ドリンクとかもあったほうがいいだろう。


 なんにしろ買い物に出かけなければならない。


「羽菜さん、俺ちょっとドラッグストアに行ってきます。鍵の場所だけ教えてもらえますか」

「鍵……」


 考えを巡らせるように、ぼうっと天井に視線を漂わす。


「リビングの……小物ケース……」


 俺はほっとした。この仕事部屋にあるなどと言われても探しだす自信はない。


「じゃあ、ちょっと行ってきます。大人しく寝ててくださいね」

「待って……!」


 制服の袖をつままれた。


 必死の形相だ。ひとりにされるのが不安なのだろうか。


 羽菜さんは搾りだすように言った。


「領収書……もらってきて……!」

「そこはしっかりしてるんですね」


 さすが大人だ。


 羽菜さんの肩をぽんぽんと叩いてから俺は部屋を出た。





 ドラッグストアで買い物を済ませ、羽菜さんの部屋へもどる。財布に入れておいた五千円が吹っ飛んでしまったが、緊急事態だ、いたしかたない。


「さて……」


 キッチンを借りて、俺はあるものを作った。幸いキッチンと冷蔵庫はよく片付けられていたから、滞りなく調理することができた。


 羽菜さんの身体を起こし、それをレンゲですくって口元に運ぶ。


「味噌汁……?」

「風邪をひいたときの我が家の定番です。ネギとショウガの味噌汁」


 身体が温まるし、塩分やアミノ酸も効率よく補給することができる。


「細かく切ってますけど、しっかり噛んでくださいね」

「うん……」


 羽菜さんの口に味噌汁を流しこむ。言いつけどおり、もぐもぐとしつこいくらいに咀嚼してから飲みこんだ。


 そのとたん。


「う、うう……!」


 ぼろぼろと涙をこぼす羽菜さん。


「ええ!? あ、熱かったですか?」


 彼女は首を振った。


「味噌汁史上一番おいしい」

「規模でかすぎませんか」


 悪い気はしないが荷が重すぎる。


 どうやら食欲はあるようで、羽菜さんは俺の味噌汁をぺろっと完食した。ミネラルウォーターで水分を補給し、風邪薬と栄養ドリンクを飲んでもらう。


 ネギとショウガの効果が出てきたのか、彼女の顔には汗が浮かんでいる。俺は濡れタオルで丁寧に拭った。


 ――さて、あとは……。


 ゆっくりと眠ってもらうのだが、その前にひとつ、やらねばならないことがある。


 俺は羽菜さんのジャージを見た。多分、あの下――シャツは汗でびちょびちょになっている。このまま床についたら身体が冷えて、治るものも治らない。


 ――身体を拭いて、シャツを替えないと……。


 タンスの引き出しを引くと畳まれた色とりどりのブラジャーが目に飛びこんできた。慌てて閉めて、一段下の引き出しを開ける。


 小さく丸められた色とりどりのパンティが目に飛びこんできた。


 ――いまはいいよ、そういうラッキースケベ的なのは!


 こういう状況でなければじっくり物色したのに、という意味ではない。とっととシャツを見つけないと羽菜さんの身体を冷えきってしまう。


 幸い、もう一つ下の段にシャツは入っていた。


「羽菜さん、あの……。シャツ、替えないといけないんですけど……」


 つらそうに目をつむっている羽菜さんは、注視していなければわからないほど小さく頷いた。


「じ、じゃあ、脱がします……」


 俺はファスナーの引き手をつまんだ。

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