第24話「どきどき、してくれるんだね」

「またわたしの料理を食べてもらいたいんだけど……、どうかな?」


 ガトーパレスを出て駅へ向かう途中、羽菜さんはおずおずとそう申し出た。


 時刻は午後六時ごろ。羽菜さんの家に移動して料理を作り終えるころにはちょうど夕飯時だ。


「もちろんです」


 羽菜さんにこんなことを言われたら、青年男子は「イエス」と答えるしかなくなってしまう。


 これが最後の手料理だ、なんて言いつつ、今日で三回目。このまま四回目、五回目もあるんじゃないか、などと楽観的な気分になる。


 駅近のスーパーで食材などを買う。先を歩く羽菜さんのあとを、俺がカートを押してついていく。


 ――なんかいいな、これ……。


 新婚夫婦みたいで。


 ――なんてな!


「どうしたの? にやにやして」


 羽菜さんが怪訝な顔でこちらを見ていた。


「い、いえ、料理が楽しみで」

「嬉しいな。でも、今日は簡単なもので済まそうと思ってたんだけど」

「いえ! 簡単なものでもおいしいです!」

「もう食べたみたいに」


 羽菜さんはくすくすと笑いながら、カゴにレトルトのご飯を入れた。


「それ、買うんですか?」

「うん。どうして?」

「白米にこだわりがあると思ったので、意外だなと」

「駿太くん」


 羽菜さんは俺に向き直った。


「日本においしくないお米はないの」

「日本農業への信頼感がすごい」


 農家の人たちに羽菜さんのことを教えてあげたらモチベーションが上がるんじゃないだろうか。


 羽菜さんはぽんぽんとカゴに食材を放りこんでいく。頭のなかにはすでに献立ができあがっているらしく、迷いがない。


「こんなものかな」


 と、彼女はカートを引きとり、レジへ向かう。


「あの、俺も半分、お金を……」

「いいの。駿太くんにご飯を食べてもらいたいのはわたしなんだから」

「すいません……」

「なんもなんも」


 羽菜さんは思い出したように言う。


「そうだ。これ、いらなくなったんだけど、棚にもどしてきてもらえる?」


 と、ツナ缶を俺に手渡した。


「あ、はい」

「よろしくね~」


 羽菜さんは笑顔で手を振った。


 ――いつの間に入れたんだ、これ。


 まったく気がつかなかった。だから売り場がどこかわからず、けっこう手間取ってしまった。


 ようやくツナ缶を棚にもどしてレジへともどる。羽菜さんはすでに買った食材をマイバッグに詰め終わっていた。


「ごめんなさい、なかなか見つからなくて」

「なんもだよ。行こ」

「あ、俺が荷物を――」

「いいのいいの! わたしが持つから」

「でも」

「いいから。疲れてるでしょ?」


 羽菜さんはマイバッグを持ってさっさと出口へ歩いていってしまった。


 疲れているのは羽菜さんも一緒だし、なんだかちょっと頑なな感じだ。


 ――いや……。


 年下の俺に気を遣ってくれただけだろう。ともすれば顔を出したがるネガティブな考えを俺は押しこめた。


 駅に到着し、羽菜さんは券売機の上の路線図を見た。


「何番ホームかな? 教えてくれる?」

「え? ええと……、一番ホームじゃないですか?」

「それじゃあわたしの家に着いちゃうよ」

「はい、羽菜さんの家に着きますけど……?」

「そうじゃなくて、駿太くんの家に行くには何番ホームかなって」


 ――……ん?


 俺の家?


 羽菜さんは「ふふっ」と笑った。


「どうしたの? ぽかんとして」

「あ、いえ……。それだと地下鉄ですけど……」

「そ。じゃあこっちだね」


 と、エスカレーターのほうへ歩いていく。


 ――え?


 まじで?


 それはどうなんだろう。いや、俺も一回、羽菜さんの家にお邪魔しているわけだし、逆のパターンがあってもおかしいとまでは言えない。


 でも、羽菜さんの家は羽菜さんにとってスポーツでいうところの『ホーム』だが、俺の家は『アウェイ』だ。本物の恋人相手ならともかく、そんな場所に乗りこむのは女性として怖くないのだろうか。


「いや」


 俺は首を振った。


 ――多分、男として見られてないんだな。弟的存在、みたいな。


 もう深刻に考えることはやめたんだ。


 ――大丈夫、大丈夫。


 俺は小走りで羽菜さんのあとを追った。





「おお……」


 思わず歓声を漏らしてしまう。


 羽菜さんが手早く作ったのは豚丼。ごま油とニンニクの香りが湯気と一緒に立ちのぼってくる。山盛りの肉の頭頂部に乗っかった卵黄が嬉しい。


 いつもは一人前の料理しか乗ることのなかった小さなちゃぶ台に、俺の分と羽菜さんの分が配膳されている。そして当然、正面には羽菜さん。


 羽菜さんが俺の部屋にいるというだけで、なんだか室内がカラフルになったような気になってくる。 


「駿太くんの丼にはニンニクたくさん入れたからね」


 ぐう、と俺の腹が鳴った。羽菜さんがぷっと吹きだす。


「お腹で返事……!」

「し、しかたないですよ。こんなの出されたら」


 卵黄を崩して米に混ぜ、しかるのち肉と一緒に口へかきこむ。甘辛なタレの味とニンニクの刺激、それが卵黄でマイルドになってちょうどいい。


 この味を表現するにはたった二文字でよい。


 最高。


「これ、あとでレシピ教えてください」

「喜んで」


 俺は豚丼を噛みしめるように食べた。





 食後、俺が食器を洗っていると、羽菜さんが、


「ちょっと洗面台借りるね」


 と断り、バッグを持って風呂場に入っていった。


 歯でも磨くんだろう。それかメイクを直すとか。なんにしろあまり見せたくない部分だろうと思い、俺は食器洗いを手早く済ませ、リビングのほうへ移動した。


 十分くらいして羽菜さんがリビングにもどってきた。とくに変わった様子はないが、ちょっと目がとろんとしている。疲れが出てきたのだろうか。


「食器、洗ってもらってありがとうね」


 鼻にかかったような声で言う。


「ごちそうになったので、これくらいは」


 ――……。


 妙な沈黙。ふだんは気にならない空調の音がやけにうるさく感じる。


 そわそわとして落ち着かず、俺は顔を掻いたりスマホをいじったりする。一方、羽菜さんは横座りをして、じっと床を見つめている。


「あの……」


 そろそろ送りましょうか、と申し出ようとした瞬間、羽菜さんが口を開いた。


「ちょっと寒くなってきちゃった」

「え、あ、すいません。クーラーの温度、上げますね」


 と、リモコンを手にとろうとしたが、羽菜さんが制止した。


「ううん、風が直接当たって身体が冷えただけ。だから――」


 じっと俺を見る。


「そっちに……行っていい?」

「……え?」


 と、聞きかえしたが、羽菜さんの声が聞こえなかったわけではないし、こういう展開をまったく予想していなかったわけでもない。


 聞こえなかったふりをすることで、彼女がいまの発言を撤回してくれないかと期待したのだ。


 しかし。


「そっちに行っていい?」


 さっきよりもはっきりと口にした。


「いや、あの……」


 本当にただ風を避けたいだけなんじゃないか、と思いこみたかった。でも今日の羽菜さんはファッションからしていつもの彼女からは考えられないくらい大胆だし、水着もすごく面積が小さかったし、ウォータースライダーのときは俺から離れようとしなかったし、俺の家に来たがって、実際にやってきた。それらを合わせて考えると、『ただ風を避けたいだけ』なんて考えは現実逃避に思えた。


 羽菜さんは俺の返事を待たず、まるで猫のように四つん這いでにじり寄ってくる。


 拒絶しろと頭は指令を出すものの、身体がそれを拒否する。艶やかな表情と仕草で近寄ってくる彼女を本能は受け入れたがっている。


 彼女は俺の隣に座った。ひじに押しつけられる柔らかな感触。温かな体温。甘い匂い。


 俺の肩に頭を乗せてくる。


 どくどくと心臓が踊りくるう。息が荒いのを悟られないように、鼻でゆっくりと呼吸する。


 羽菜さんの手が俺の胸に触れた。


「どきどき、してくれるんだね」


 そう言って俺を見る。ほとんど泣いているみたいに目が潤み、頬は朱に染まっている。その魅惑的な表情に思わず見入る。


 羽菜さんはあごを上げた。くちびるが近づいてくる。


 あのときの衝動が蘇る。


『このまま羽菜さんを自分だけのものにしてしまいたい』


 彼女が求めているんだ。もう我慢する必要はないんじゃないか? そうだよ、ここで断ったら、かえって恥をかかせてしまうし……。


 ――いいよな……。


 いよいよくちびるが触れあう――その直前。


 ふっと、アルコールの匂いがした。


 俺は羽菜さんの肩をつかんで引きはがした。


「なんで……?」


 彼女の表情が泣き笑いみたいに歪む。


「飲んでますよね」

「……飲んでないよ」


 俺は羽菜さんのバッグに目をやる。すると彼女は気まずそうに顔を伏せた。


 見るまでもない。バッグに証拠が入っているのだ。


 ――そうか。


「スーパーで俺にツナ缶をもどさせたあのとき、お酒を買ったんですね」

「……」


 身を固くする羽菜さん。図星らしい。


 風呂場に入ったとき羽菜さんはバッグを持っていた。飲んだのは多分あのときだ。


「酔った勢いでこんな……。ダメですよ」


 すると羽菜さんは訴えるような目で俺を見た。


「でも! 言ったよね、『二日間、たっぷり楽しもうね』って」

「……?」


 ――……あ。


 それって、つまり……、はじめから泊まるつもりだったってこと……?


 楽観することなく考えつづければ気づけたろうか。それとも、俺がもう少し大人だったら。


「とにかく、やめましょう。これはなんですから」

「っ」


 羽菜さんは息を飲んだ。そして――。


「な、なんてね! 本気にした?」


 ぱっと身体を離して、おどけたように笑う。


「え? あ……」

「嘘嘘。つぎのお仕事でこういう場面があったから、そのシミュレーション。ちょっと演技が真に迫りすぎたかな? ごめんね?」

「……」

「すごく参考になったよ。さすが駿太くん、紳士だね! 合格合格! ふふっ」


 なにも訊いていないのに、ひとりでしゃべる羽菜さん。その笑顔を見ていると、なぜだろう、すごく胸が痛い。


「じゃあ、そろそろお暇しようかな。夜も更けてきたしね」

「じゃ、じゃあ、俺、送ります」

「いいのいいの! ひとりで帰れるから。わたし大人だし」


 バッグを引っつかんで、玄関のほうへ歩いていく。


 サンダルに足を通し、ドアを開けた。


「それじゃ」


 うさん臭いくらいの満面の笑みを浮かべ、俺に手を振る。


 出ていこうとする彼女を呼びとめる。


「あの! 送りま――」

「来ないで」


 拒絶の言葉。羽菜さんにここまではっきりと拒まれたのははじめてのことかもしれない。俺はなにも言えなくなる。


 羽菜さんは振りかえった。笑顔だ。


「さよなら」


 そう言い残し、ドアはぱたんと閉められた。


 俺は彼女がいなくなってからも、しばらく、呆然とドアを見つめて立ち尽くすことしかできなかった。





 翌日の朝、雨音に気がついて身体を起こした。


 カーテンを開ける。昨日はあんなに快晴だったのに、今日はどんよりとした灰色の雲が垂れこめている。


 ほとんど眠れなかった。


 別れ際の羽菜さんの表情が気になって、あのあとすぐにメッセージを送った。


『さっきはびっくりしました! やっぱり演技の経験があるんじゃないですか? 俺のリアクションは役に立ちましたか? 次はいつにしましょうか?』


 テンションの高い質問攻め。冗談めかした調子で、あの出来事も冗談にしてしまいたかった。


 しかし、返信はたった一言。


『ごめんなさい』


 それ以降、なにを送っても返事は梨のつぶてだった。


 一夜明ければ状況は変わるかもしれない。そう思い、おはようの挨拶を送ってみる。しかしこれにも返事はない。それどころか既読すらつかなくなってしまった。


 ――バッドエンドって、こんなに呆気ないのか……。


 ギャルゲのバッドエンドなら、どのステータスが低かったとか、あのときの選択肢の選択が悪かったとか、反省することができる。


 でも、それはやりなおせるからだ。現実では、反省ではなく後悔することしかできない。


「はあ……」


 俺は深くため息をつき、冷蔵庫のほうへ向かった。なにか腹に入れなければ、気持ちだけでなく身体まで参ってしまう。


 冷蔵庫の扉を開ける。昨夜、豚丼に使った卵のパックが目に飛びこんできて、俺は思わず扉を閉めた。


 俺は床に座りこみ、もう一度、大きなため息をついた。

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