第19話「わたしがいるからね……」

「おかえりなさい」


 玄関のドアが開かれるなり、羽菜さんはそう言って俺に笑いかけた。


 エプロン姿。髪は俺がプレゼントしたシュシュでポニーテールにくくっている。


 破壊力抜群の先制攻撃。俺の心臓はさっそく爆発しそうになる。


 約束の日。日中は二十七℃まで気温が上がったが、十八時を過ぎてようやく風にひんやりとした空気が混じりはじめ、過ごしやすくなってきた。


 約束の十九時に遅れないように早めに部屋を出て、電車に揺られること十五分少々、駅から出てスマホのマップアプリを見ながら歩き、無事に羽菜さんのアパートへ到着した。


 オートロックを開けてもらい、緊張しながら玄関チャイムのボタンを押して、ドアが開く。そしてあの第一声というわけである。


「あ、あの……」


 返事にまごつく俺に、羽菜さんは軽く叱るみたいに言う。


「そこは『ただいま』でしょ?」

「た、ただいま……」

「よろしい」


 にっと歯を見せて笑う。


 ――ああ、いいなあ……。


 一人暮らしをするようになって、家で誰かが待ってくれていることのありがたみを感じることが多くなった。だからか、いまのやりとりはやけに胸にしみた。


「学校お疲れさま。さ、あがって」

「お邪魔します」

「もう! 台なしっ」

「あ」


 今日は『同棲している恋人同士』のシミュレーションなんだろうか。


 ――無理ぃ……。


 恋人ってなにをすればいいのかわからない、いやそもそも恋がなんなのかすらわからない俺に同棲カップルを演じろなんて完全に役者不足である。


「羽菜さんも、お仕事お疲れさま」


 無難な言葉を返した、つもりだったのだが――。


「……ありがとう」


 羽菜さんは微笑む。しかし眉に一瞬だけつらそうな表情が浮かんだのを俺は見逃さなかった。


 ――……?


 仕事がうまくいっていないのだろうか。最近デートの回数が多いのも、それだけインスピレーションを必要としているということなのだろう。


 役者不足とか言ってられない。なんとか彼女の役に立たなくては。


 部屋にあがる。炊いたお米の匂いと、醤油や生姜の香りが漂っている。


 ぐう、と俺のお腹が鳴った。悩んでいても身体は正直だ。


 羽菜さんはくすくすと笑う。


「座って待ってて、すぐに用意するから」


 と、キッチンへ向かった。


 ダイニングテーブルから、キッチンで作業する羽菜さんの後ろ姿を見ることができる。


 ――うわあ……。


 なんだろう。すごく、すごく、いい。ふりふり揺れるポニーテール、ときおり覗く真剣な横顔、エプロンの腰紐できゅっとしぼられたくびれ、そのせいで強調された豊かなヒップ。


 ずっと見ていられる。


「できた」


 そう言って羽菜さんはエプロンをとってしまった。


 ――嗚呼ああ……。


 まだ配膳すらされていないのに、すでにおかわりしたい気持ちでいっぱいだ。もちろん羽菜さんのエプロン姿を、だ。


「駿太くん、手伝ってくれる?」

「おかわり」

「なにを!?」


 俺ははっと息を飲んだ。心の声がそのまま出てしまっていた。


「い、いえ、匂いがすでにおいしそうだったので、おかわりするだろうなあと」

「もう、嬉しいこと言っちゃって。でも、そういうこともあろうかと――」


 ぱかっと炊飯器のふたを開ける。もわっと白い湯気が立ちのぼった。


「三合炊いておきました!」

「多くないですか!?」


 一合がだいたい茶碗二杯分だ。ということは三合は六杯分。それをふたりで?


 羽菜さんはぽっと顔を赤くした。


「駿太くんに言ってなかったことがあって……」

「なんですか?」

「わたしね――好きなの」

「……え?」


 真剣な目が俺をとらえる。


「お米、好きなの!」

「知ってますけど」

「知ってたの!?」

「だってLINEのアイコン、漫画みたいな山盛りの白米だったし」

「あ、自分のアイコンなんて見ないからすっかり忘れてた……」


 羽菜さんの顔はさっきよりも赤くなった。


「今日はお米に合うおかずにしたの。ぜひ駿太くんも引きずりこも――おいしい白米を堪能してほしくて」

「いまなんかいいかけましたよね?」

「たくさん食べてね、わたしより」


 その言葉の裏には、


『でないと、わたしがたくさん食べられないでしょ』


 というニュアンスが多分に含まれていた。


 ――どんだけ白米ラブなんだ……。


 自分で言うのもなんだが育ち盛りの高校生だ、三杯くらいならなんとか食べられると思う。


 羽菜さんが皿によそった料理を、俺がダイニングテーブルに運ぶ。


 献立はカレイの煮つけ、シジミの味噌汁、山椒の実の佃煮。そしてもちろん大盛りの白米。


 ――食べる前からつばが止まらん……!


「さ、食べよ」


 羽菜さんは俺の正面ではなく斜め前に座った。


「はい、手を合わせて」


 言われるがままに手を合わせる。


「いただきます」

「いただきます」


 箸をつかみ、湯気のたつ料理を改めて見つめる。


 ピクニックのとき食べたコッペパンサンドはおいしかった。でも、今日の料理はとても家庭的な感じがして、ほかほかしていて、じんわりと胸のなかまで暖かくなる感じがする。


「あ、意外と甘えん坊なんだね」

「え?」


 しょうがないなあ、なんて言いたげな表情で、羽菜さんはカレイの煮つけの皿を引き寄せて、身をほぐしはじめた。魚の食べ方がわからず呆然としていると思われたようだ。


「いや、あの――」


 否定しようと言いかけた言葉が止まる。


 頭から尻尾にかけて一直線に線を入れると、上と下のエンガワを切りはずした。エラの下あたりに切れ目を入れて、表面の身をとりはずし、中骨をとって、裏面の身をほぐす。


 よどみのない箸使いだった。どこか熟練外科医の手術を思わせる。


 羽菜さんは身をつまみあげ、下に手を添えて俺の眼前へ運んできた。


「はい、あ~ん」

「へぁ?」


 彼女の所作にすっかり見とれていた俺は、不意をつかれて間抜けな声を出した。


 ――もしかして、これがあの『あ~ん』?


 恋人同士でもとくにラブラブなカップルしかやらない、あの?


 前にスープカレー店でも、羽菜さんからスプーンを差しだされて口をつけたことはあった。しかしあのときは味見目的だったし、『間接キス』の印象が強烈すぎて、食べさせてもらったという認識ではなかった。


 これが正真正銘、はじめての『あ~ん』。


 そう思い至ったとたん、俺の顔が爆発したみたいに熱くなった。


「ふふっ。かわいいところあるんだね」


 かわいいなんて言われたのは小学生のとき以来だ。そのときだって「男の俺に対してかわいいとは何事だ」と感じて全然嬉しくなかったのだが、羽菜さんに言われると嫌な気持ちはまったくしない。照れくさくて、むずがゆくて、浮き立つような気分になる。


 俺は照れ隠しに、勢いよくカレイの身に食らいついた。


 柔らかくて、ほろりと崩れる身。甘辛な醤油の味、鼻を抜ける生姜の香り。


 俺は白飯しろめしをかきこんだ。


 羽菜さんはしてやったりの顔になる。


「合うでしょ!」


 俺はこくこくと頷く。


「少し濃いめにしてるの。生姜もたっぷりめにして。すべてはお米のために」


 羽菜さんは米に尽くすタイプのようだった。


「日本酒も入れてるし」

「日本酒好きって言ってましたもんね」

「違うよ!? 魚の臭みを消すためだよ」

「でも、この煮つけで日本酒をきゅっと飲みたいでしょ?」


 羽菜さんは恥じらう乙女みたいな顔で頷いた。


「さすがに未成年との席で晩酌はしないけど」

「なんでそんなに日本酒が好きなんですか?」


 すると彼女は凄絶な笑みを浮かべて言った。


「日本酒は酔える米だから」


 とんでもないパワーワードが飛びだした。なんなんだこの米への想いの強さは。前世で離ればなれになった恋人かなにかか。


「それより、煮つけ以外も食べて。どれもご飯に合うから」


 羽菜さんの言うとおり、残りの二品もとんでもなくご飯が進む。味、旨み、香り、風味、どれもが白米にマッチしていた。


 羽菜さんもご飯を頬ばる。目を細めて、幸せそうな表情。そんな顔を見ているだけで、俺も幸せな気分になる。


 でもなぜか急に彼女の表情が曇った。俺の顔を怪訝そうに見ている。


「どうしたの?」

「なにがですか?」

「なんで泣いてるの?」


 ――……え?


 茶碗と箸を置いて、目元に触れてみる。指先がしっとりと濡れた。


「あ、あれ? なんでだろう……」


 涙がはらりと落ちて頬を伝う。俺は慌てて拭った。


「は、ははっ。生姜が鼻にきたんですかね。ははは……」


 このままじゃ完全に情緒不安定のおかしな奴だ。


 俺はごまかすように笑った。しかし羽菜さんは笑わない。真剣な表情で俺をじっと見ている。


 彼女は立ちあがり、俺のかたわらに歩み寄った。


「え、な、なん――」


 その問いには答えず、彼女は俺の頭を抱いた。


 柔らかい胸に顔を埋める。しかし不思議といやらしい気持ちは湧いてこなかった。


 安心感。いま湧いてくる感情はそれだけだった。


 しなやかな手が俺の髪を撫でる。


「そっか、そうだよね。寂しいよね」


 羽菜さんはつぶやくように言う。


「まだ高校一年生だもんね。ひとりじゃつらいよね」


 ――俺、寂しいのか……?


 たしかに、こちらに引っ越してきてからずっと人恋しさは感じていた。でもべつに泣くほどではない。友人もできたし、人混みにまぎれれば忘れるていどのものだった。


 でも、羽菜さんと出会って、一緒の時間をすごすようになって、いままでにない満たされた気持ちになった。だから、彼女のいない時間がすごく物足りなくなってしまって。


 そして今日、まるで家族にでもなったみたいなシミュレーションをして、こんな幸せな時間がフィクションで、終わりを迎えることが避けられなくて、それがとても――。


 ――寂しい。


 俺は寂しいんだ。


 涙が羽菜さんの胸元を濡らす。


「す、すいません、すいません……」

「いいんだよ、『恋人』なんだから」


 ぎゅっと抱きしめられる。


「わたしがいるからね……」


 俺は恋人がなんなのかわからない。恋人がなにをするものなのかも。


 でも今日、恋がなんなのかはわかった。


 離れることが怖くなるこの痛みが、多分、恋だ。


 俺のなかで、人恋しさが、羽菜さんを恋しいと想う気持ちに変わっていたんだ。


 俺は羽菜さんの腕をつかんだ。


 俺は羽菜さんが好きだ。どうしようもなく、好きなんだ。

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