第18話「痛いところはありませんか」
「マッサージ、なんですけど」
飛鳥馬の居残り練習に付きあったとき、暇を持て余してスポーツマッサージについて勉強したことがあった。テニスは脚を酷使するスポーツらしいので、彼が怪我でもしたら役立つのではないか、と。
それがこんな形で日の目を見ることになろうとは。
「うん、お願いします」
「……いいんですか?」
「? 迷惑じゃなければ」
羽菜さんは小首を傾げた。
繰りかえすが、やましいことはなにもない。しかし、若い男に身体を揉まれたりまさぐられたりすることに抵抗はないのだろうか。
スニーカーと靴下を脱がす。
「……触ります」
一応、前置きしてから、羽菜さんの形のいい足に触れた。親指のつけ根とかかとを重点的に指圧する。このあたりにツボがあり、血行がよくなって疲労が抜けやすくなる。
「ふぅっ……くっ……!」
羽菜さんの口から吐息が漏れる。
「す、すいません、痛かったですか?」
「い、
――……どっち?
このままでいいのか弱くしたほうがいいのか。
ひとまず同じ強さで指圧する。とくに文句は言われなかったので継続した。
そしてふくらはぎに移行する。スカートの上から、ふくらはぎとアキレス腱のあいだにあるヒラメ筋を揉みほぐす。この部位に疲れが溜まりやすい。
――ふにゃふにゃだ……。
パン生地を練っているような気分になってくる。
「うぅ……ふぅ……」
目をつむり、くちびるを細くして呼吸している。少々の痛みはあるようだが、弱すぎても効果が薄いから、このままの強さでつづける。
そして一番、疲労の度合いが強いであろうふとももへ。ふともものマッサージは、左右から手ではさむようにつかんで、揺するように動かしながら足先のほうへとほぐしていく。
の、だが、この『左右からはさむようにつかむ』ことがスカートの上からだとできない。かといって、
『スカートめくっていいですか?』
なんてお願いできるわけもなく、俺が手をこまねいていると羽菜さんは、
「あ、スカート邪魔だよね」
と言って、自らスカートをめくりあげて股にはさんだ。
――!?
羽菜さんの
まるで石膏像のような白さとなまめかしいカーブに目を奪われる。
「ふ、太いでしょ。あんまり見ないで……」
と、恥ずかしそうにうつむく。
太くはない。でも細くもない。ほどよく肉のついた、とても扇情的な造形美だ。危うく俺のDNAがゴーサインを出すところだった。
俺は一度、大きく深呼吸をし、おもむろに羽菜さんのふとももをつかんだ。
あまりの柔らかさに指が沈みこむ。
――筋肉、本当にないな……。
さするように動かすと、ふにふにと形を変える。まるでつきたてのお餅をこねているような気分になる。
「は……あっ」
羽菜さんは麦わら帽子で口元を隠すが、切なげな吐息は素通しだった。
最後に、内ももの
「っ――!」
声にならない声をあげ、羽菜さんは背筋を仰け反らせる。
俺はぱっと手を離した。
「終わりました」
そう声をかけても羽菜さんはぐったりとして動かない。目はうつろ、顔は真っ赤、うっすらと汗ばみ、ほつれた毛が頬にくっついて、妙に色っぽい。
「は、羽菜さん……?」
「あ、うん、ごめん」
と、体勢をもとにもどそうとしたところ、彼女は目を丸くした。
脚を折り曲げたり伸ばしたりしている。
「軽くなった……」
俺はほっとした。マッサージは独学で、実際にやった経験はなかったから、本当に効果が出るかどうかはわからなかったのだ。
「すごいっ、動くよ! ほら、ほら!」
水泳みたいに脚をばたばたさせる。
「あ、あんまり急に動かしたらダメですよ!」
「ご、ごめんなさい」
羽菜さんは首をすぼめた。
「じゃあ、もう片方もやりますね」
逆の脚にもマッサージを施すと、羽菜さんは問題なく立ちあがることができるようになった。
駐車場までゆっくり並んで歩く。
「いざというとき頼りになる――。やっぱり駿太くんは『主人公』って感じだね」
「羽菜さんは『ヒロイン』って感じですよね」
「ほ、ほんと? そんなのはじめて言われた」
「ふふ」と笑い、スカートの端をつまんでポーズをとる。
羽菜さんがあまりに嬉しそうだったので、
『ギャグ漫画の』
と付け足そうとしていたことは黙っておいた。
駐車場に到着し、タクシーを呼んだ。脚に負担をかけないよう、大事をとってのことである。
羽菜さんがタクシーに乗りこむ。
「本当にいいの? 一緒に乗っていかなくて」
「大丈夫です。寄るところがあるし」
嘘だ。背中や手にまだ羽菜さんの感触が残っていて、そのうえせまい空間に押しこまれたら変な気分になってしまいそうだからだ。
「じゃあ。今日は本当にありがとう」
ドアが閉まり、タクシーが走りだす。羽菜さんはカーブを曲がるまで、何度も何度も振りかえって俺に手を振っていた。
帰りの地下鉄のホームに立っていると、たくさんの人たちが俺の前を通りすぎていった。
以前なら人混みのなかにいるだけで人恋しさはまぎれたが、いまはまぎれるどころか寂しさがどんどんふくらんでいく。
羽菜さんと出会い、『恋人』になって、多くの時間を一緒に過ごしてきた。そんな俺の身体は、大勢のなかのひとりでいることの安心感では満足できなくなってしまったらしい。
そのときスマホが震えた。いつものように羽菜さんからメッセージが送られてきたのだろうと思ったが、震動はなかなか止まらない。
奇妙に思ってスマホを見ると、メッセージではなく電話がかかってきていた。もちろん、相手は羽菜さんだ。
俺は慌てた。通話ははじめてのことだった。
ちょっと緊張しながら電話をとる。
「は、はい、しゃ――佐々原です」
電話の向こうで盛大に吹きだす声が聞こえた。
「しゃしゃはらさんですか? はにゃです」
「勘弁してください……」
「さっきはありがとうね」
「いえ。痛いところはありませんか」
「おかげさまで。あ、でも、少しだけ――」
「え、大丈夫ですか? 病院に――」
「タクシー代が痛かった」
今度は俺が吹きだした。
俺が心配しているだろうとわざわざ電話をしてくれて、しかもジョークで和ませてくれる。
――やっぱり素敵なひとだな……。
こんなひとと『恋人』になれたなんて、いまが俺の人生のピークかもしれない。
しかし本当のピークはこのあとだった。
「それでね、あの……」
朗らかに話していた羽菜さんが急にもごもごと口ごもる。
「よかったら、なんだけど」
「はい」
「お礼とお詫びに、わたしの家で食事でもどうかな、って……」
「……」
「あ、あれ!? いつもみたいに即答してくれないの……?」
心のなかでは即答していた。行きたい、と。
でも『家に招待される』なんて大きなイベントは、いよいよエンディングが近いとことを感じさせて、返事が喉の奥で引っかかってしまった。
――セーブしたい。セーブして、このまま電源を落としたい。
そうすれば、羽菜さんとの甘い経験は現在進行形のまま閉じこめることができる。
でも現実にセーブポイントなんてなくて。
「行きます」
俺はシミュレーションをつづけることしかできない。
「よかったあ……」
安堵のため息が聞こえた。
来週の金曜日に約束をして通話を終える。ほどなくして自宅の住所が送られてきた。
なんだかんだ言って家に招待されるのは嬉しいものだ。気分が高揚する。でも少しだけ羽菜さんのことが心配になった。
俺たちは『恋人』であって恋人ではない。住所という個人情報をつまびらかにするのは、少々無防備のような気がする。
もちろん悪用なんてするつもりはない。信じてくれているんだろうとも思う。
でもなんだかちょっと違和感がある。ギャルゲにたとえるなら展開が早すぎるというか、焦っているような……。
――考えすぎかな。
スマホをポケットにしまう。さっきまで感じていた孤独感は、羽菜さんとの通話ですっかり消え失せていた。
しかし満たされれば満たされるほど、それを失うことが怖くなっていく。
俺はその相反する気持ちの重みに耐えきれなくなり、倒れこむようにベンチに身を預けた。
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