第16話「喜んでるんですよ、俺のDNAが」

 羽菜さんは麦わら帽子の下で、まるで少女のように微笑んだ。


 モエル沼公園。著名な彫刻家でインテリアデザイナーでもあるオサム・ヒグチが『台地を彫刻する』という壮大なコンセプトで造りあげた、某ドーム球場四十個分の広さを誇る総合公園である。


 北の大地にもいよいよ夏の足音が聞こえてくるこの時期は、ようやく平均気温が二十℃を超えるため、アウトドアレジャーを楽しむひとが多くなる。


 俺たちの目的もピクニックだった。


「晴れてよかったね」


 と、羽菜さんは青空を見あげて目を細めた。


 そのときとうとつに風が吹いて、羽菜さんは麦わら帽子を押さえた。プリーツのロングスカートがふわふわと揺れる。


 ――……いい。


 夏、麦わら帽子、風になびくスカート。これのなにが『いい』のかうまく説明できない。でもとにかく『いい』のだ。おそらく日本男児のDNAに刻みこまれた価値観なのだろう。


 ――白のワンピースだったらもっとやばかったな。


 DNAがゴーサインを出してしまう。なにをゴーするのかはわからないが。


 羽菜さんはトートバッグを肩に提げている。そこには彼女が用意した食事が入っているはずだ。かさばるレジャーシートや重量のある飲料は俺のリュックに入っている。


 ――羽菜さんの手料理……、いい……。


「なににやついてるの?」


 羽菜さんが不思議そうな顔をしていた。『いい』が渋滞して表情に出てしまっていたらしい。


「喜んでるんですよ、俺のDNAが」

「ピクニックで遺伝子が……?」


 俺の答えは彼女の疑問を余計に深めてしまったようだった。


 駐車場でレンタサイクルを借り、ひとまずサイクリングに出発する。日差しが強く、実際の気温よりも体感温度は少々高い。しかし空気はからっとしていて、これくらいの軽い運動にはちょうどよい日和だ。


 木々にはさまれた道をまっすぐ進むと、右手前方にこの公園の象徴でもある『ガラスの神殿』が顔を覗かせた。全面ガラス張りの巨大な建造物。陽光を照りかえしてきらきらと輝く神々しさは、まさに神殿という名にふさわしい。


 もうしばらく行くと公園の中央に位置する噴水広場が見えてくる。噴水は一日に数回だけ運転され、間欠泉のような巨大な水柱が噴きあがったり、夜にはライトアップされて、とてもインスタ映えするスポットらしい。


 いまは運転していないらしく、水面はおだやかなものだった。


「残念ですね。噴水を見ながらお弁当というのもいいかなって思ってたんですが」


 と、斜め後ろを走っている羽菜さんに声をかける。


 しかし、返事がない。


 不審に思い、ちらっと斜め後ろに目をやるが、そこには誰にもいない。俺はブレーキをかけ、首を後ろに振り向けた。


 はるか遠く離れたところに豆粒みたいな羽菜さんの姿が見えた。


 ――小っさ……!?


 つらそうに身体を揺らして自転車を漕いでいる。俺は慌ててUターンし、彼女のもとへ自転車を走らせた。


「す、すいません、気がつかなくて」


 羽菜さんはハンドルにひじをかけて、ぐったりと頭を落としていた。ぜいぜいと苦しそうに呼吸をしている。


 俺はリュックから水筒をとりだし、お茶を差しだした。彼女はそれを一気に飲み干すと、やっと言葉を口にした。


「一年分自転車漕いだ……」

「そんなに!?」


 せいぜい数百メートルで? ふだんどれだけ運動してないんだろう。シナリオライターってみんなこうなんだろうか。


 でもたしかに、レンタサイクルは小ぶりで脚への負担が大きそうだし、ずっとゆるい坂道だったから、まったく運動をしていないひとにはきついかもしれない。


「駿太くん、元気だね……」

「まあ高校生なので。――はっ!?」


 俺は自分の口をふさいだ――が、手遅れだった。


 羽菜さんの表情が死んだ。


「うん、そうだよね……、もう三十代に片足つっこんでるわたしとは違うよね……」


 羽菜さんはハンドルに寄りかかった。グロッキー寸前のボクサーみたいんだ。


 正直なところ『二十代後半だとしてもその体力はどうなんですか』と思わなくもないが、それを口にするとKOしてしまいそうなので黙っておいた。


「自転車を返して徒歩にしましょうか?」

「ごめん……」


 幸い帰りは下り坂なので、楽に駐車場にもどることができた。自転車を返却し、再び園内を歩きはじめる。


 俺は羽菜さんの肩からひょいとトートバッグを奪いとった。


「あ、大丈夫だよ、そんなに重くないし」

「最近、男でもトートバッグを持ってるひと多いじゃないですか? どうです? 似合います?」

「え? 似合うけど……」

「ほんとですか? じゃあちょっと持たせてもらってもいいですか?」

「……ありがとう」


 羽菜さんは申し訳なさそうな顔をする。


 ――ああ、下手だな、俺……。


 こういうとき、どうやったら女性に気を遣わせないで済むんだろう。今度、飛鳥馬にでも訊いてみようか。あいつこういうの上手そうだし。


 結局、俺たちは噴水広場近くの草原で食事をすることにした。レジャーシートを敷いて、羽菜さん手製のお弁当を広げる。


 そのメニューは。


「コッペパン、ですか」

「そう、コッペパンサンド」


 しかしバスケットに入っているコッペパンには、切れ目はあるもののなにもはさまってはいない。


「『なんにもはさまってないやんけ! しばくぞアホボケカス!』って思ったでしょ?」

「そこまでは思ってませんけど」

「ふふ~ん」


 羽菜さんは不敵な表情で鼻を鳴らし、トートバッグからあるものをとりだした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る