第15話「思いのほか刺激的でした」

 ――あ、意外に辛くない。


 それよりも旨みの濃厚さが際立っている。それにどこか和風を感じさせる香りもある。かつおの出汁だろうか。


「こ゛れ゛お゛い゛し゛――」


 辛さが急に喉にきて声が潰れた。羽菜さんが怪訝な顔をする。


「……いまなんて?」


 いまちょっとしゃべれない。でも水を飲むと負けのような気がするので、俺はじゃがいもを咀嚼して口のなかにいきわたらせて辛みを拭った。


 俺はせき払いをひとつする。


「おいしいです」


 むせないよう、そのたった六文字を慎重に慎重に発音した。


「辛くない?」

「全然」


 鼻の下にぷつぷつと汗が浮かんでくる。俺はナプキンで口を拭くふりをして、一緒に汗も拭いた。


 辛い。とても辛い。でも、食べられないほどの辛さじゃない、と思う。一口目は油断して勢いよく口に入れてしまったから喉の奥へ届いてしまっただけで、気をつけて食べれば大丈夫そうだ。


 二口目はゆっくりと、舌の上に乗せるようにしてみた。噛みしめるように噛み、気道に入らないよう用心深く飲みこむ。


「あー、あー」


 ――大丈夫、ちゃんと声も出る。


 食べることができそうだ。


 羽菜さんが急に吹きだした。


「なんで発声練習?」

「え? いや、ほら、スープカレーって薬膳がベースだって話じゃないですか。だからなのか、ちょっといい声になった気がしません?」

「そういう薬効があったとしても、そんなすぐに効くわけないでしょ」


 澄んだ声でころころと笑う。彼女にはそんな薬効は必要なさそうだ。


「でも、たしかに二段階目でもかなりマイルドだね。もっと上でもよかったかも」


 羽菜さんはスープをすくって、俺のほうへ差しだした。


「ほら」


 ――……『ほら』?


 いや、え? それに口をつけろと? 羽菜さんが、もう何度もその口内へお入れあそばしたスプーンに?


 もはやそれは間接ディープキスである。ふつうのキスですら未経験の俺が、間接的とはいえいきなりそんなラテン系のキスを経験したら性癖が歪むかもしれない。


「どうしたの?」


 なんて小首を傾げる羽菜さんの、鼻の下がちょっと笑っている。


 確信犯だ。間接キスで俺を照れさせたいのだ。


 ためらえばためらうほど羽菜さんの術中だ。俺は覚悟を決めて、スプーンの先にくちびるをつけた。


 と同時に、羽菜さんは俺の口をこじ開けるようにスプーンをねじこみ、スープを流しこんできた。


 ――!??!?


 俺のくちびるが、口内が、凌辱された。


 衝撃的な出来事に、店内がちかちかと明滅したような気がした。しかしここで慌ててはそれこそ彼女の術中におちいる。スプーンが抜かれるのを待ってから、俺はスープを飲みくだした。


「どう?」

「思いのほか刺激的でした」


『間接キス』という単語から想起されるは、二重の意味で皆無だった。


 羽菜さんは悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「顔、赤いけど?」

「す、スパイスで血行がよくなったんですよ」

「ふふふっ」


 またあのきれいな声でころころ笑う。


 手玉にとられてしまったことに悔しさはあまりなかった。恥ずかしさと、包まれるような幸福感を覚える。やはり俺には被虐的な素養があるらしい。すでに性癖は歪んでいたようだった。


 とはいえ、このまま引っこんでは男がすたる。なにかお返しをしなければ。


 スープカレーの器を見る。一口だけ口をつけた骨付き鶏もも肉が目に入った。


 俺は骨をつまんで持ちあげ、羽菜さんのほうへ差しだした。もちろん俺が口をつけたところが正面になるように。


「肉がほろほろでめちゃくちゃ柔らかいですよ。どうぞ」


 羽菜さんは大人だ。俺みたいに大慌てしたりどぎまぎしたりはしまい。でもちょっとくらい照れた顔が見れたら嬉しい。


 そんな俺の思いははかなく散った。


「ほんと? じゃあ、ちょっとだけ」


 羽菜さんは中腰になり、身を乗りだしてきた。左手をテーブルについて身体を支え、垂れた髪を右手で耳にかける。


 ――っ!?


 前屈みになったせいで胸元が大きく開き、白い谷間とブラのレースが覗く。


 ふだんであれば俺の目はそちらに釘付けになったことだろう。しかし今回はそれよりも目が離せないものが手前にあった。


 羽菜さんは小首を傾げるようにして、薄いピンクのくちびるを開き、鶏もも肉に口をつけた。かじりつく、というより、ついばむという表現がしっくりくる上品な仕草だ。


 しかし、彼女のたおやかなくちびるが、むくつけき鶏もも肉に、まるでキスをするように吸いつくその様は、上品とは真逆のエロティシズムを感じさせた。


 彼女のあごの筋肉が動く。鶏もも肉に歯を立てたようだ。


 ――あ……。


 ライオンのように、首を振って肉を引きちぎる。


 ――ああ……。


 もぐもぐと咀嚼し、ごくりと嚥下えんかする。


 ――あああ……。


 羽菜さんは顔をぱっと明るくした。


「うん、ほんとにほろほろ! どうやってこんなに柔らかくしてるんだろ。――って、駿太くん、どうしたの?」


 俺はもう羽菜さんの顔をまっすぐ見られなくなっていた。優しくて朗らかな彼女が垣間見せた野性に、すっかり打ちのめされていたのである。


 べつの性癖が開花しそうだ。


「え、なんでさっきより顔、真っ赤なの?」


 きょとんとしている。つまり、いまの一連の動作は計算ではなく素だということだ。


「いや、うん、はい……」


 しかし「羽菜さんは素のほうが妙なエロさが出ますよね」なんて言えるはずもなく、俺は曖昧な返事しかできなかった。


 そのあとはもう、羽菜さんがスプーンを口に運ぶたびに先ほどの映像がフラッシュバックし、頭がぼうっとしてしまった。しかしおかげで味覚が鈍くなり、完食することができた。怪我の功名である。


「は~、もう食べられない。ごちそうさまです」


 ご飯が三分の一ほど残っている。ふつう盛りでもまるで大盛りみたいな量だったから、たしかに女性には少しきついかもしれない。


「でもすごくおいしかった。今度は辛さ三か四でもいいかも」

「そうですね、今度は――」


 メニューに目をやる。


『ソーセージ』という単語が目に入った。


『羽菜さんにソーセージを食べてもらったら……』


 俺は妄想を打ちきるために自分を殴った。


「俺を殺してください」

「急にどうしたの!? しかもなんで次回!?」


 その理由もまた、彼女に言えるわけがなかった。





 帰りの地下鉄で俺はうとうととしていた。お腹がいっぱいになったのと、スパイスで身体がぽかぽかしているのと、そして羽菜さんとのデートで心がぽかぽかしているのとで。


『あんな年上のひとと高校生が付きあうわけないし』


 とうとつにそんな声が聞こえた気がして、俺は目を見開いた。


 ――知ってる。


 これはシミュレーションで、羽菜さんは恋人じゃなくて『恋人』で。


 この『恋』はゲームと同じフィクションで、エンディングを迎えればそこで終わり。


 大丈夫、勘違いはしていない。


 ただ少しばかり、彼女と過ごす時間が心地よすぎて、エンディングを迎えたくないとは思っている。


 大好きなゲームが終盤を迎えると、終わるのが寂しくてプレイを止めたくなってしまうのと同じことだ。


 俺は自分にそう言い聞かせて再び目をつむった。

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