第4話「ちょっと照れるね」

 日曜日の午後二時、駅南口エントランスホール、丸い穴の空いた大理石のオブジェ前。


 宇佐美さんの指定した場所に俺は突っ立っていた。休日とあってエントランスホールは多くの人びとが行き交っている。


 オブジェはどうやら定番の待ち合わせスポットのようで、俺以外にもゆるふわカールのかわいらしい女性が立っていた。彼女はスマホのフロントカメラで自分を映し、彼氏と会う前の最終チェックをしている。


 ふと上げた彼女の顔がぱあっと明るくなる。彼氏がやって来たようだ。


 彼女の視線の先には、Tシャツに薄手のカーディガンを羽織り、スキニーデニムを穿いたスリムな男性が微笑みながら歩み寄ってくる姿があった。ツーブロックのヘアスタイルも決まっている。


 ――おっしゃれ~……。


 彼は女性と二、三言、言葉を交わすと、手をつないで隣接した百貨店へと入っていった。


 俺はそれを穴が空くほどじいっと観察した。


 昨晩、恋愛シミュレーションのシミュレーションを幾度となく試みてはみたものの、実体験が皆無のため想像すら広がらず、得るものはなにもなかった。


 だから悪あがきをしているというわけである。お洒落でスマートな男性の真似をすれば、宇佐美さんの期待に応えられるのではないか、と。


「お待たせ」


 背後から声がかかり、びくりとして振り向いた。


 女性が立っていた。つやつやとしたロングの黒髪、優しげな目元、通った鼻筋とぷっくりしたくちびる。ゆったりしたストライプのブラウスにベージュのロングテールスカートを合わせ、ベージュとホワイト、ツートンのショルダーバッグを提げている。


 街で見かけたら思わず二度見してしまうそうなほど美しいひとだった。実際、通りすぎていく男性が数人、二度見していった。


 女性は小首を傾げた。


「どうしたの? ぽかんとして」

「……宇佐美さん?」

「そうだけど……」


 にわかには信じられない。髪を雑に結い、ぶっといフレームのメガネをかけ、伸びたジャージを着ていたあのひとと同一人物だなんて。


 俺は彼女の顔から視線を少し下げた。余裕のあるブラウスの上からでもわかる、豊かなふくらみ。


「ほんとだ、宇佐美さんだ」

「どこを見て判断したかわからないけど、信じてくれてよかった」

「前と印象が全然違ったので……」


 彼女はスカートをつまみ、


「君と会うから頑張っちゃった。――どう、かな?」


 と、照れくさそうに微笑んだ。

 

 その可憐な仕草にドキッと心臓が跳ねる。


 ――え、待って、もうシミュレーションはじまってるのこれ!?


 だとしたらどういうリアクションをとればいいんだ? なんて、シミュレーションのシミュレーションすらできない俺が考えるだけ無駄だ。思ったままのことを言うしかない。


「めちゃくちゃ似合います」


 ――ダサっ。


 褒め言葉がダサすぎる。しかし彼女はさらに恥ずかしそうにはにかんで、


「ありがとう……」


 なんてつぶやくように言う。


 その表情にまたドキッとしてしまう。デートが開始されて間もないというのにこの調子では、一時間後には心臓がぶっ壊れているかもしれない。 


 俺は深呼吸をして気持ちを落ち着けたあと、改めて彼女を見た。


 大人カジュアル、と形容すればいいだろうか。落ち着いた色合いに、でもどこかかわいらしさもあって、とてもお洒落だ。少なくともゲーム売り場で感極まってむせび泣いていたガチオタの面影はどこにもない。


「この服ね――」

「はい」

「コスプレなんだ」

「はい。――はい?」


 ――コスプレ?


「『フィナンシェ』の蓮花れんかさんの! 洋菓子店『パティスリー・クロンヌ』のマネージャーでね、頼りになる姉御キャラなんだけど、普段着は意外とフェミニンなの。でもこの服装の立ち絵はゲーム中三回しか使われてないんだよ」


 彼女は俺になにか求めるような表情を向けた。


「あ、え~と……、三回しか出てこないのにそれを拾いあげるだなんて、本当にそのゲームが好きなんですね」

「そうなのっ」


 彼女は本日一番の笑顔を見せた。


 ――あ、やっぱガチオタです、このひと。


 むしろジャージのときより戦闘力が上がってます。


 宇佐美さんはなにかを思いだしたような顔になった。


「そうだ、これから恋愛シミュレーションをするわけだし、お互いのことは下の名前で呼びあわない?」

「下の名前で――って、え?」


 ちょっと待って、じゃあまだシミュレーションははじまってなかったのか? じゃあ、あの仕草や表情は、素?


「おおお……」


 見通しが甘かった。俺の心臓は一時間どころか三十分ともたないかもしれない。


 うめく俺を見た宇佐美さんは悪戯っぽい表情になった。


「あれ? もしかして……」


 まずい。本気でときめきそうになったことを悟られてはいけない。


「え、いや、違いま……!」

「下の名前で呼ぶのが恥ずかしいのかな?」


 本当に違った。


「ふふ、意外と初心うぶなん――」

「あ、それは大丈夫です。羽菜さんでいいですか? それとも恋人っぽく羽菜って呼び捨てにします? それか羽菜ちゃんとか」

「……」


 彼女の目がうろうろとした。


「あ、羽菜さんでお願いします……」

「わかりました、じゃあ行きましょうか、羽菜さん」

「あの……。照れとかはいっさいない感じ?」

「俺、地元がド田舎なんで大家族が多いんですよ。だから『鈴木さん』って呼んでもどの鈴木さんかわからないんで、自然と下の名前で呼ぶ習慣が身についてて」

「そ、そう……、想定外――」


 羽菜さんは急に真剣な表情になると、ショルダーバッグからスマホをとりだし、一心不乱になにか入力しはじめた。


「下の名前で呼ぶイベント……、返り討ち……」


 難しい顔でぶつぶつとつぶやいている。


「羽菜さん?」


 呼びかけてみたが、俺の声は彼女に届いてはいないようだった。


 ――そうか、これが『スイッチ』。


『インスピレーションを得るとスイッチが入ってしまい、我を忘れてしまいます』


 まさにこれがその状態らしい。


 俺は黙って羽菜さんを見守った。


 メモし終わった彼女は「ふう……」と放心したようにため息をついたあと、はっと息を飲んだ。


「ご、ごめんなさい! いま、わたし――」

「入ってましたね、スイッチ」

「ほんとごめん……」

「気にしないでください。それが本来の目的なんですから。なにか思いついたら俺のことは無視して全然構わないんで」

「うん……」


 申し訳なさそうな表情でこくりと頷く。本来の羽菜さんはやはり真面目で、そしてずいぶんとひとに気を遣うタイプのようだ。


 俺は明るい調子で言った。


「それより、俺のことは下の名前で呼んでくれないんですか?」

「え!? き、君を? ――うう……」


 羽菜さんの顔がぽっと赤くなる。


「しゅっ……しゅ、しゅ~、しゅ~……」

「掃除してない加湿器の物真似ですか?」

「駿、太くん」

「はい」


 羽菜さんはほっとと息をついて、


「ちょっと照れるね」


 と、苦笑いした。


 俺はまたドキッとする。


 ――まじで心臓がもたない……。


 はじまったばかりの恋愛シミュレーションは前途多難だった。

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