世界一凶悪な生物
生物兵器『レイドワン』は人間の女性であれば誰にでも化けられる能力を持つ。
故に、自分を作った施設を脱走するのは容易かった。
実際はわざと逃がされたのだ、ということに気付くのは三年後になってからだったが、ひとまずレイドワンはこのときの達成感を一生忘れたりはしないだろう。
初めての空は真っ黒だった。娯楽として研究員が差し入れてきた絵本に描かれていた青空というものを見たかったのだが、タイミングが悪かったらしい。
夜というのはいつ終わるのだろう。一度として外に出たことがないからわからない。
さて、外に出た後でレイドワンがするのは再度誰かに化けることだ。
施設の人間が誰か追ってこないとは限らない。というより確実に追ってくるだろう。
どうせ化けるなら美しい方がいい。しばらくふらふらと当ても無く歩き、何人か適当な人間に化けて周囲の反応を探ってみる。
美醜の判断は他人に任せる。周囲の通行人A、B、Cに自分の化けた姿を適当に見せて――やがて百人中百人が反応を示すような美少女の姿をトレースした。
美少女の名前は
変身を解除したときに吉高神灯の姿になるようにした。
「お仕事探さないと……」
お金がないと人間の社会では何もできないことは知っている。
優れた容姿は手に入ったので、後はどうするか、と考えたときだった。
殺し屋に襲撃されたのは。
ところで、生物兵器なので膂力は人の十倍程度はあるし、骨の成分もカルシウムと共に各種金属類も大量に配合され強靭さは脊椎動物のそれを遥かに上回っている。
不意打ちを受けたところでそうそう死にはしない。戦車の砲撃を真正面から食らわない限りは命を落とさないのだ。
しかし、ナイフで背中を一突きにされれば痛いことこの上ない。ムカついたので肉塊寸前になるまでタコ殴りにしていたら――
「キミ、そこの役立たずの代わりに殺し屋にならない? 超才能あるよ!」
見るからに社長、みたいな格好の女に笑顔でスカウトされた。
就職はあっと言う間に済んだのだった。
◆◆◆◆
吉高神灯は所謂読者モデルである。本業は大学生だが、バイトとして始めたモデル業で大成功してしまい、今はテレビ出演もできるまでになっていた。
学業、就業、共に順風満帆。まさにそんな言葉がぴったりの人生だった。
だから想像もしていなかった。
自分に殺人の容疑がかかるだなどと、まるでドラマのワンシーンにでも叩き込まれた気分だった。
何でも現場に残っている指紋、被害者との揉み合いの結果残った血痕、その他僅かな目撃証言からほぼ容疑は確定しているらしい。
それでも、確実に最後には容疑は晴れるから、大して気にも留めなかった。
それもそうだ。事実、吉高神は人を殺したことなんて一度もない。
更に殺人が起こった時間には決まったように完璧なアリバイがあった。
前述のモデル業や、果てはテレビの生放送などだ。
東京の有名テレビ番組の収録をしている最中に、青森の大富豪何某が殺害される。
場合によっては、警察で事情聴取を受けている間に誰かが死ぬこともあった。これはもう正真正銘の不可能犯罪だろう。もっとも、密室に閉じ込められているのは決まって吉高神の方だったが。
指紋、血痕、目撃証言のすべてが確定しているにも関わらず時間と場所の辻褄が絶対に合わない。
いや、そもそもDNA鑑定も指紋も厳密には完璧に個人を特定することはできないのだ。
精度が上がったとは言え、理論上DNA鑑定は何百億分の一の確率で別人のDNAと一致することもあるし、更に問題なのは指紋だ。
こちらに関しては『おそらく同じ指紋を持つ者はいないだろう』という膨大な経験則から来るものでしかない。かつて数学を得意とする教授が『指紋を証拠として扱うことに微妙に引っかかりを覚えるんだよなぁ』と零していたのを吉高神は覚えていた。
「……あ」
バイトが終わり、家に帰ってきた吉高神はテーブルの上にいつものアレが乗っかっているのを見つけた。
毎度のことながら、どうやって家に侵入しているのだろうか。一人暮らしなので、留守にしていれば何とでもなりそうではあるのだが。
いつものアレを愛おし気に眺める。分厚い札束と、適当に選んで買ってきたと言わんばかりの、ただただ豪勢なだけの花束。そして簡潔な書置き。
内容はいつものだろう。要約すれば『あなたの予定を一ヶ月分教えて欲しい』というような。
筆跡は相変わらずの下手で幼稚な物だった。
「ふふ」
吉高神灯は人との繋がりに飢えている。
それは子供の頃からずっとだ。両親は悪人ではなかったが、いまいち温もりが感じられない人たちだった。
撫でられた記憶も数度しかないし、怒られた記憶に限っては一度もない。
ただただ退屈で灰色の人生。
そんな日常に、色彩が灯るのはこの瞬間だけだ。
自分と同じ顔の謎の暗殺者。容姿以外は、どんな人なのだろうか。
優しい人なのか。殺し屋らしく冷たい人なのか。
どちらにせよ、どうでもいい。お金も必要がないくらい、今の吉高神は満たされている。
共犯という甘美な関係を終わらせるつもりは、今の吉高神には全く無かった。
「会いたいって書いたら、会ってくれないかな」
白馬の王子様を夢見るような声色で、吉高神灯は呟く。
今となっては、吉高神灯は二人で一人の完全な暗殺者。
法によって支配されない、世界一凶悪な生物だ。
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