第5話 生者は放棄する
住良木真は悪夢にうなされながら目覚めた。
親友に殺される夢だ。
「ああぁぁぁっ!!」
叫びながら跳び起きると自分が酷く汗をかいていることが分かった。
背中を触っても穴は開いていない。血も出ていない。
有り得ない悪夢だ。
そう思った瞬間、安堵のため息が自然と出る。
すでに日は登り切っているようだった。今日から夏休みが始まる。
「……そもそも、一にそんな度胸がある訳が無いだろ」
あいつは子犬にすら怯えて逃げ出す奴だ。きっと蚊を殺すことさえ躊躇するだろう。
俺はそうして記憶の裏側から漏れる音に蓋をしようとした。
だが。
[夢じゃないよ。紛れもない現実]
「っ!?」
慌てて辺りを見渡し、声の主を探す。だが、姿は見えない。
いつの間にか止めていたらしい呼吸をゆっくりと再開すると俺は頭を回す。
ヴィジョンを確認したが、通話は行われていない。
この時点で俺は天使の声だと直感した。何故だ?
しかし、なんの証拠もない憶測は、気味が悪いほどの確信で固まっていた。
何はともあれ、ようやく接触できた。
俺は天使を探すために生きてきた。
[住良木真は1000回、上代一に殺された。最後は背後からの銃撃で殺されている]
「……動機はなんだ」
[へぇ]
急に天使の声質が変わった。人間らしさが柔らかい人肌を鋭利に突き破り、剥き出しになったような声。
俺はその声に心底嫌悪の感情を抱いた。それに加えて風景に違和感を感じる。
カーテンだ。
カーテンの向こう側に霧がかかった深い暗闇が広がっている。そこに天使が居た。
「お前は……何者だ?」
俺が知る限りだが、天使はこんな好奇心で汚れた表情をすることはできないはずだ。
つり上がった両頬は子供らしい無邪気な笑顔のはずなのに、目だけは虚無と狂気を煮詰めたような色を湛えていた。
[私は天使と呼ばれている。あとの認識は住良木真の主観に任せよう。それよりもだ]
天使らしきものはカーテンの向こう側から滑るようにこちら側へ出てきた。
それから180度回転して天井に立つ。逆さまに見上げながら、それは俺の観測を継続する。
[どうして住良木真は上代一の罪を否定しようとする? 住良木真を構成している結ばれた弦子には間違いなく死の瞬間が巻き込まれているはずだ]
そいつは俺の背後を覗き込むように一瞬眼球を動かした。
……確かに、俺は一に殺された瞬間の風景と感情を記憶している。こいつが出てこなければ記憶違いだと思い込んで忘れようとしたはずだ。
そうでもしないと、一に報復をしたいという衝動に身を任せて外に飛び出し、首を絞めていたのかも知れない。
でも、今はその感情と共に疑問もあった。
「なにも一を許そうとした訳じゃない。ただ、俺を殺した一は後悔していた。それは何度見ても変わらなかった。あいつは余程の理由が無い限り人殺しなんてできない。その理由を知りたいだけだ」
そもそも、拒死による記憶消去が無ければ何度も殺すことなんてできなかっただろう。
対岸でしかないこちらまで苦しみに溺れ、沈んでいくような姿だった。
[なるほど。弦子が結ばれる瞬間に住良木真の弦子が上代一の弦子に少し共振したせいだね]
天使はそう結論づけたようで、いつの間にか蝋で固めたような表情になっていた。その表情からは何も感じることが出来ず、白い均一な壁を眺めているようだった。
この感覚は天使に関する記述に一致していて、俺は初めて目の前の存在が天使であると感じた。
どうやら、天使の笑っている姿を見たのは俺が初めてらしい。あるいは、今までの観測者たちはあの悍ましい笑顔を記録に残したくなかったのか。
笑っていてもそうでなくても、天使は俺たち人間とはかけ離れている。
[ああ、そうだった。上代一の動機が知りたかったんだよね。教える。上代一は自身の孤独を解消する為、自身と同等の存在である拒死を作ったんだ。その為に、住良木真と水上碧の
「……そうか」
俺は全てにおいて腑に落ちた。
俺は一の過去を詳しく知らなかった。だが、一が常人と違う視点を持っていることは明らかだった。
それは長く生きる過程で孤独に蝕まれた結果によるものだったんだ。
「俺は拒死になったんだな。しかし、俺の生きる理由はお前に会った時点で無くなったんだ。一の気持ちも理解できないが知ることが出来た。未練はない」
[ああ、なんだ。住良木真は死を選ぶんだね]
俺は非常に晴れやかな気持ちになっていた。これで両親を馬鹿にしてきた奴らに愚か者のレッテルを堂々と貼り付けて逝ける。
それに、未だに燻る一に対する感情に折り合いを付けながら笑っていられる自信も無い。
「なぁ。お前は拒死を取り消せるんだろ?」
[そう。住良木真がそう望めば]
「きっとゴーストだった俺が拒死で無くなれば死ぬんだろうな」
俺は夏休みが始まる2日前に、展望台から落ちて死んだ。それで良いんだ。
俺は天使の存在を確認するという夢を叶えたんだから。
「そうだ。一に伝言頼んで良いか?」
[わかった]
「お前は生きろ。そう伝えてくれ」
そう言い切ると、俺は急に眠くなってベッドに倒れ込む。力が入らない腕を天井に伸ばしたが、既に天使は居なかった。
何度も死んで慣れたせいか、恐怖は無かった。
俺の意識は無へと沈んでいく――――――。
入れ替わるように上代一は目を覚ました。
[おはよう、上代一。住良木真は拒死を放棄した]
「どうしてだ……? どうしてなんだよ……」
僕はやり遂げたはずだ。真と碧に拒死を与えることが出来たはずなんだ。
僕は僕自身が失った概念によって二人に干渉した。それがどんな行為だったのか、今では思い出すことが出来ない。
……もしかして、それが原因なのか?
拒死を放棄するということは、自分が死んだ過去に還るということだ。
つまり、真は自殺をしたのだ。
僕は何を犠牲に拒死を与えた?
「俺は一体何を忘れたんだ……」
[上代一が失ったのは殺害の概念です。概念の喪失は拒死が記憶に干渉することが判明した時点で予想されていた]
天使がどんな音を発したのかは分かる。しかし、意味は推測すら不能だった。
拒死になってから概念の喪失は初めての経験だった。
[殺害という行為は人間社会において、その構造の崩壊に直結するほど強力な要因です。だから殺害に対する罰則が存在し、タブーであると教育される]
[本来であれば殺害の概念を喪失した人間はそれを殺害と気付かずに実行してしまう危険性が生まれます。しかし、拒死のメソッドは確立され、間もなく実行される]
[拒死によって殺害の影響が無くなることで、上代一は人間社会の脅威とならない]
天使が言っていることの大半が理解できなかった。虫食いの文章にランダムな単語を当てはめているようだった。
ただ、虫食いになった言葉以外は分かる。慣れてくると、天使が何を言いたいのか分かるようになってきた。
天使は急に屈んで床を指でなぞり始めた。なぞった後はゴーストに似た燐光を放ちながら文字とも図形とも区別がつかない曲線を浮かび上がらせる。
[天使が再現した拒死には上代一が経験した殺害に対する嫌悪感が組み込まれているんだ。よって、殺害及びそれに類する行為を実行する人間も同時に淘汰される。暴力と死のない世界が作れるんだ]
「俺は他の人間と違う拒死なのか?」
[拒死によって殺害自体に意味が無い以上、数世紀経過すればだれもが殺害について頓着しなくなる。拒死は生命の変化を止めるが、思考そのものの変化は止めない。今は違うと回答するが、未来ではその差異は認められないだろう]
[世界が拒死で満たされ拒死が当然になれば、殺害そのものの重みは消えてなくなる]
「俺は……それまで一人なのか?」
[そんなことはないよ。君には住良木真がいなくなったけど、水上碧がいる]
その言葉に僕は安堵した。
真と同じ結果になったんじゃないかと考えると怖くて、碧のことを天使に聞く踏ん切りがつかなかったのだ。
[水上碧は展望台で待っている。それと最後に一つ。住良木真からの伝言だ]
[お前は生きろ]
僕は天使の言葉を。真の言葉を噛み締めながら暫く目を瞑った。
真はもう居ない。それを受け入れなければ前には進めない。
真も『生きろ』なんて難しいことを言うものだ。
僕は、外に出るためにベッドから立ち上がった。
――さて、ここからは唯のあとがきである。
僕は此処で一つ告白をする。
僕は外に一歩踏み出した時点で真のことを忘れてしまったのだ。
親友を失った痛みの記憶は拒死によって失われていたのだ。
しかし、拒死による記憶の喪失は取り戻せる。痛みは時間と共に風化し、劣化する。
だからこそだろう。僕は真のことを遠い未来で思い出すことが出来た。
殺害の概念と共に思い出した住良木真との断片的な会話。そして彼の遺言。
真は『生きろ』と言った。それはきっと、『生きて罪を忘れるな』という意味だったのだろう。
これは推測だが、僕は過去にも親しい人を失う度、記憶からその人達を消していたのではないだろうか?
だとしたら思い出さなければならない。僕は自身の罪を背負いながら生きていかなければならない。それが真の最後の言葉なのだから。
僕は今度こそ忘れないように、記録する。
今の時代に文章として情報を残すことに意味があるのか分からない。しかし、無意味に意味を見出す営みは実に人間らしいと僕は思う。
拒死を持つ人類が人間として定義される、争いと死が失われ停止した平和な世界で僕は生きている。
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