第4話 生死は選択する
世界は夕焼けで満たされていた。
拒死の僕にとって世界とは、この目が届く範囲でしかない。
普段は舗装された地面か平坦な床板が半分、もう半分を退屈な風景で埋められている視界。
今はそれら全てが紅い夕焼け色に塗られていた。
彼女は放物線上の頂点を早々と通り過ぎ、下に落ち始めようとしている。
僕は展望台の茶色いベンチに座り、すぐ先の錆びて壊れた手摺から落ちてゆく彼女の行く先へと視線を向ける。
途端に開けた視界にはピントが合わないほど遠い地面が見えた。
想像を超えた高さに体中の力が抜けるような感覚がする。
――高校に上がってから最初の夏休み。その2日前のことだ。
――彼女は学校から帰る途中、制服のままの宙に放り出されていた。
生温い空気を掻き分けながら、重力を置き去りにするような錯覚が僕を満たす。
彼女の視界は一点を捉え続けていた。
彼女の瞳に見えたのは夕焼け色の展望台、そして僕。それもすぐに暗い海の青とぐるぐる混ざるのだろう。
体が後転をしながら落ちているんだ、と他人事のように思った。
999回の繰り返しの中で失った記憶。その分だけ空っぽな頭の中を、バケツ一杯のペンキを溢したように色が広がる。
よくある既視感だ。
そんな中、僕はただ一つの事実だけを頭の中で呟いた。
大丈夫。彼女は死んでいない。
僕は殺していない。
この瞬間にも地面に激突しそうなのに、時間は引き延ばされ終わりが無い。
――早く終わってくれ。
頭はいつもよりも冴えている。それなのに思考は空回りを続けた。
――僕は悪くない。その筈なんだ。
その筈なのに、考えてしまう。これが悪夢というものなのだろう。
そうして僕の意識は過去へと遡る。
//「なぜ殺した?」
//「友達だと思ってたのに……」
//「お前は人間じゃない!」
//「どうして……」
――――それは少し肌寒い朝。
彼女が展望台から落ちる14時間前。
僕は聞き慣れた電子音で目が覚めた。
「……」
意識がぼんやりと覚醒していくと無機質なアラームが鳴っていることに気が付いた。もう起きなければいけない時間だ。
薄く目を開けると視力に合わせて
「住良木が来る……」
今回は覚えていた。
繰り返しが起こるのはその日の午前零時。
目覚めたタイミングで記憶が残っていれば、もはや成功していると言っても過言ではない。
600回を超えた辺りから今まで、記憶は指の間から零れ落ちる砂のように次々に失われた。
繰り返しの影響で体が重い。天使が言うには、僕の絡まった弦子を利用して時間を戻しているらしい。
気を抜くとベッドに沈み込んで再び寝てしまいそうな強い眠気に襲われる。
どうにか上半身を起こすと冷たい風が何処からか吹き込んで身震いをする。風の出所は半開きになった窓からだった。
窓から外を横目で見ると薄明かりの空に青白い月が浮かんでいる。夜明け直前だ。
それから、まだ薄暗い自室を見渡した。
自分が寝ていたありきたりなベッド。彼岸花が2輪挿してある花瓶が載った木製のテーブル。それにアンティークの物理ディスプレイと繋げっぱなしのレトロなゲーム専用装置がぽつんと置いてある部屋だ。
代り映えしない景色も今日で見納めだろう。
僕はタオルケットを脇に置くと立ち上がった。
7月19日。
終業式。
つまり、明日から夏休みだ。
落ち着け、いつも通りにやればいい。
……いや、既に僕は落ち着いているんだ。今からゴーストを処理することに何の感情も抱いていない。
リビングに降りると、テーブルの裏に貼り付けてあった銃を剥がし取る。
それから、窓を開けて裏から回り込んだ。
玄関前には青く燐光するゴーストが一人立っていた。
――――――――――――――。
――――。
――――――――――――――――――。
嗅ぎ慣れた硝煙を鼻の奥に感じたとき、目の前には処理されたゴーストが転がっていた。
それは真を模したものだった。
[殺した瞬間のストレスで記憶が消え、記憶が消えることで殺すことに慣れない。やはり、拒死は平和にふさわしい]
天使は幾度となく繰り返した台詞を壊れたように発する。
「殺しに対して何ら嫌悪感を抱かない人間が出たらどうするんだ」
[全員が拒死を獲得していれば問題ないんだよ。殺人が無意味な世界って平和そのものじゃないか。上代一もそう思わないか]
天使は平和に固執していた。
元は人間だったらしいが、今はその片鱗も消えかかっているようだった。
今は人類を平和にするためのシステムでしかない。
「さあ……。俺には分からない」
僕は平和に興味はない。そもそも、人は平和であることの方が不自然だとすら思う。
人間である以上、自分をより良いものにするために。人は平気で他人を陥れる。
僕がいい例だ。
僕は僕の為に、二人もの人間を拒死にする。
「一君、おはよう。なんだかぼーっとしてるけど大丈夫?」
「大丈夫だよ委員長。おはよう」
「だれが委員長だ」
軽く頭を小突かれた。
どうやら教室についてから気が抜けたのか放心していたらしい。
気が付くといつも通りに、メガネで気の強そうな少女が僕の前の席に座っていた。
「本当に大丈夫?」
「……大丈夫だよ」
「隠さなくてもいいのになー」
呆れた顔をされた。やはり委員長は鋭い。
だが、いくら心配された所で拒死について話すわけにはいかない。
彼女と会話する時間もあと少しで終わる。そう考えるとなんだか寂しい気持ちもある。
彼女の純粋に他人を思い遣る姿勢に僕は救われていたのかもしれない。
彼女のような人間であれば、僕と違う結論を出したのかもしれない。
「委員長って俺のこと知ってる?」
「俺って、上代君のこと? 変なこと聞くなぁ」
委員長は腰に手を当て、人差し指を僕に突き付けて言い放った。
「人嫌いな癖に寂しがりやな可愛い奴。それが上代君。知ってて当たり前でしょ」
「……そうなんだ」
初めて言われた。
いや、そもそも僕は僕の事について聞いたことが無かったんだ。
[定期バイタルチェックの時間です]
RATの音声通知が入った。これはエーテルが提供する医療サービスを装った感覚調整だ。
人間の意識に流れる時間とそれ以外に流れる時間は違うものだ。体内時計のズレがその証拠の内の一つだ。
弦子を利用した時間の繰り返しは人間の感覚に対しては作用しない。天使はそれを強引に合わせるためにRATを介して辻褄合わせをしている。
この時間は日付が変わるタイミングで実行される本調整に問題が無かったのかチェックをするためのものだ。
「…………うん。今日も健康っと。そっちはどうだった?」
「特に何もでなかった」
「それは何よりだね」
――校内放送です。校舎屋上のゴーストは無事に削除されました。繰り返します。校舎屋上の――
「……」
「どうしたの? そろそろ体育館に行かないと終業式始まっちゃうよ」
委員長と一緒に廊下を歩いて行くと窓から屋上が見えた。
屋上に居たゴーストは試作の生き残りだろう。ゴーストに生き残りという言葉が適切かは分からないが。
試作品のゴーストは生前の記憶を繰り返し続ける。同じ場所、同じ時間、同じ行動、同じ思想に囚われ続ける。
それは幸せなのだろうか、不幸なのだろうか。
しかし、幸か不幸かなんて推論はどれだけ重ねた所で客観を超えることは無い。自分で考え、決めるべきことだ。
体育館の入り口をくぐると集まった生徒達が視界一杯に広がった。
彼らも委員長と同様に記憶が毎日リセットされていた。同じ日を繰り返していたこれまでの彼らとゴーストに違いはあったのだろうか。
「えー、本日は悲しいお知らせがあります。本校としても発表すべきか十分検討し、この場を借りることが決定しました。皆さん、動揺せずにお聞きください」
校長は沈痛な面持ちで次の言葉を紡いだ。僕はこの言葉を無意識の内に聞き流してしまう。それは何度繰り返しても同じだった。
信じたくない話だったからだろう。
でも、話の内容だけは僕の記憶の端に焼き付いて消えない。ずっと忘れ続けられたらどれほど良いのだろう。
「先日、本校の生徒である住良木真君と水上碧さんの二名が不慮の事故によって亡くなりました」
僕は二人が転落する姿を見たそうだ。記憶は当然消えていたから、天使からの伝聞でしかない。
しかし、夢みたいな話でも周囲は現実を突きつける。おおよそ天使の言い分が嘘であるというには無理があった。
校長の長い話を聞き流しているとスケジュール通知のアイコンがヴィジョンにポップアップした。
周りにバレないように視線操作に切り替える。
[19:00 待ち合わせ 展望台 必ず一人で]
ただ、それだけが書かれていた。
その時間、その場所に碧は現れる。僕は彼女を処理しなければならない。
「昨今の痛ましい事件の数々を受け、本校はより一層の安全を保障するために校則の強化と教師による巡回を努めて――」
「――ッ!?」
眩しい斜陽に目を刺されて目が覚めた。
どうやら居眠りをしていたらしい。長い時間眠ることが出来なくなったせいだろう。
ゴーストを繰り返し処理したせいなのか、長く眠ると悪夢を見てしまうようになっていた。
僕はその度に碧と真に怨嗟の言葉をぶつけられる。
拒死によって記憶は消されているはずだ。だとすれば、これは自分が作り出した幻なのだろう。
茜色と群青色のグラデーションに彩られた空。浅黄色の蝶たちが入り混じり、楽し気に踊りながら飛んでいく。
時間まであと少し。
進入禁止を示す黄色テープで彩られた手摺に近づく。手摺は潮風に晒され錆びたうえに壊れている。
その隣のベンチに座って下を覗くと砂浜が見えた。
それから落ち行く彼女を目撃する。今回は定刻通りだった。
長い時間息を止めて見ていた気がする。
一人の少女が砂浜に倒れていた。
砂浜には一人、少女が倒れていた。
砂浜に少女が独り、倒れていた。
それは僕の学校の制服を着た、見覚えのある少女だった。
僕は展望台から飛び降りる。彼女を追って飛び降りる。何度だって飛び降りた。
そして、彼女の隣に着地した。体中から屠譜が溢れ出て、骨折や内臓破裂が無かったことになる。
碧は僕が近づくと目を覚ました。
「私は一のことを全部は知らない。でも信じているから、どんなことでも受け入れるよ」
「……ははっ。碧みたいに見透かしたようなことを言うなぁ。でも、お前はゴーストなんだ。俺はお前を処理しなければならない。……殺さなければならないんだ」
「……それが君の為になるのなら良いよ。それじゃあ、また。生まれ変わった私によろしくね」
僕は彼女の胸に銃を押し当てる。彼女は僕の手をそっと包むように握った。
手が震えているのを感じる。彼女の手が震えているのだろうか? それとも僕の手が震えているのだろうか?
僕は心を殺して勢いよく引き金を引いた。僕は自分を殺して勢いよく引き金を引いた。僕は彼女を殺すために勢いよく引き金を引いた。
そうして最後の死が訪れた。
僕は彼女の心臓に銃弾を撃ち込んだ。僕の手と彼女の手は温かい返り血に汚れてしまった。
本当に……。
本当にこれで良かったのだろうか?
目の前の彼女は間違いなく
しかし、今となっては限りなく彼女と近しい状態となったゴーストは、今まで通りゴーストと言えるのだろうか?
僕の目の前にある存在は一体何なのだろうか?
だめだ。考えてはダメだ。
それでも僕は考えることを止めることが出来なかった。
何かがおかしい。
拒死による記憶の忘却が起きない。
「――――――――――!」
僕は壊れそうな思考の奔流に蝕まれる。これまで蓋をしていた感情が堰を切って溢れ出る。
僕は碧と真を何度も殺した。
例え僅かであっても、あのゴースト達は僕の大切な存在だったのに。
それを何度も何度も何度も!
その行為は決して許されることは無い。
僕はどんな顔をして二人に会えばいいんだ。
きっと彼らの顔を見るたびに、僕はあの視線を思い出す。
死に際の人間が殺人者に向ける視線を。人から外れたものを見る目を。
『痛い――死にたくない――どうして――許さない……』
二人の最後の言葉が次々に蘇り、僕の頭蓋を内側から壊さんばかりに叩く。
僕はその場で頭を抱え、蹲り、意味を成さない声を上げることしかできなかった。
[蓄積された感情は拒死による支配を僅かではあるが、押し返すほどに強くなるものなのか。予想はしていたけど興味深いね]
遠くから天使の声が聞こえる。天使の声に感情なんてないはずなのに、どこか嘲るように聞こえた。
[おめでとう。住良木真、水上碧の両名は拒死を獲得した。さて、ここで上代一に質問だ。君の選択は?]
選択。
天使はいつでも僕を拒死から解放できると言っていた。
これを見越していたのか。
拒死を手放さず、失った二人を拒死にしてまで生きるか。
それとも、拒死を手放してこの苦しみから解放されるか。
「僕……は――――――」
どんな罪を犯した人間でも、死んでしまえばその罪を問えなくなる。
逆を言えば、死なない人間は罪を背負い続ける事になる。
その人間に良心というものが存在するならば、それは自死を選択するほどに耐え難い罰になるだろう。
思考は散り散りになり、思わず拒死を手放して殺して欲しいと懇願しそうになった。
それでも僕は踏みとどまる。
救われたかったのだ。
永遠と続く孤独は僕の人間性を容赦なく壊し続ける。自分がどのような人間だったのか分からなくなる。
もう独りは嫌だ。
誰かに僕という存在を認知し続けて欲しい。
それが叶わず死ぬなんて、僕は何のために死ねなかったのか分からなくなってしまう。
だから、僕は自分が望んだ選択を最後まで続けよう。
それが他の誰かに非難されるような結末を迎えようとも。
「俺は生き続けてやる……」
その言葉をきっかけに苦痛が溶けるように消えていく。僕を苦しめた拒死によって苦しみから解放されていく。
そして、僕は碧と真を――した事実を忘れる。
これで良かったんだ――――――――。
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