桜の木の下
取調室の前にはちょっとした人だかりができていた。
「おい、君たちは何をしているんだ」
一際ガタイのいいグレースーツの男性が、若い男性を一人引き連れてやってくると、取調室の前にたむろしていた制服姿の人々は静まり返り、次いでその扉の前を開けるのであった。
「桜木花梨、この辺じゃあ有名な子らしいッスよ」
「それは調書で見たっつうの」
それぞれの持ち場へと戻っていく制服姿の人々。ガタイのいい男性はため息を一つついて、扉を開けた。
「だから俺らみたいな外の人間が話を聞かなきゃならねえんだからよ」
一冊の分厚いバインダーを抱えた若い男性は、開いた片方の手で慎重に扉を閉めた。錆びついた蝶番は重く、ギイと不気味な音が鳴る。
スチール製のシンプルなデスク。嵌め殺しの窓。もうすぐ迎える春を思わせる陽気が、窓の外から入ってくる。
逆光に照らされる少女が一人。いや、少女というにはわずかに色気づいている。表情は分からないが、そのたおやかなシルエットと、調書についていた写真でおおよその見当はついていた。
「あら、この町では見ない刑事さんですね」
「アンタがあんまりにも人気者だからな、俺らみてえな外様が呼ばれたんだよ」
「それはそれは、ご足労いただいてありがとうございます」
艶やかな声色。
若い男性が小さなデスクライトを置くと、逆光に隠されていた少女の……いや、女の顔が見てとれた。
整った、美しい顔だった。
「それじゃあ、取り調べをはじめるぞ」
「よろしくお願いします」
桜木花梨は微笑んだ。
彼女こそ、桜の木の下に三〇人もの人間を埋めた、史上稀に見る凶悪犯罪の犯人であった。
私が彼女に出会ったのは、去年の四月半ばの頃でした。
大学に進学して初めての帰郷、久々に帰ってきた私の気持ちは浮かれた気持ちというよりも、どこか暗澹とした気持ちだったのです。
なぜって?
この村で育った私は、外の世界というものに過度な期待をしていたのでしょうね。インターネットで見る外の世界は刺激に溢れ、私の気持ちを昂らせるものばかりだと信じて疑いませんでしたから。
しかし実際に東京の大学に合格して、その華やかな世界というものを目の当たりにしたときに、私はそのあまりに色褪せた世界に悲しみを覚えたのです。
色褪せた、というのは少し語弊があるかもしれません。普通の人には分からない感覚らしいのですが、私は何というか……美しさというものに他の人よりもずっと敏感らしいのです。
もちろん、美しさにも様々な尺度がありましょう。
しかし私の求める美しさというのは、少なくとも東京という大都会にはありませんでした。街を歩く人々も、仮面ばかりを被って、この村で生きているおじいやおばあほどの美しさもありませんもの。
ですから私は、久々に戻ってきたこの村の様子を見て、自分の中の暗澹を慰めようとしたのです。
そんな時に、私は彼女に出会いました。
山間の小さな診療所に、一人の少女が療養に来ているという話を聞いた私は、ほんのきまぐれにその少女に出会ってみようと思ったのです。
村の外からやってきた人に、この村がどう見えるのか。村の中にいた私が、東京という大都会に失望したように、その少女もまたこの村に失望するのだろうか。そんなことを考えていたと思います。
ええ、そんな考えなど、もはやどうでもよかったのです。
私はその少女の姿を一目見て、一瞬で恋に落ちたのですから。
「……あんた、同性愛者だったのか?」
「そんなことは関係ありません。私にとっては彼女の美しさが全てで、その美しさを前に私はただ感情の迸りに身を委ねるしか無かったのですから」
……車椅子に乗ったその少女は、ジッと山斜面を眺めていました。
色鮮やかな緑の眩しい斜面を見るその姿に、私は人ならざる美しさを感じ取ったのです。
天使だと思いました。天使が車椅子に乗るんですね。
私の視線に気づいたのでしょう、少女はこちらをふいと見て、朗らかに微笑みました。よく見れば、彼女の頬は痩せこけ、その目の下は化粧でも隠し切れないほどに落ち窪んだクマがありました。
「美しいって、何なんスかね?」
「いいからお前は黙ってメモしておけ」
いえ、そちらの方の言う通りです。その少女は、傍目にはお世辞にも美しいとは言えなかったでしょうから。
ですが、先ほども言った通り、私には私の美しさの基準というものがあるのです。そして少女はその基準の中でこの世ならざる美しさを持っていたのです。
私は、車椅子の少女の前に膝を折って座り、その名前を問いました。
「木下あざみ」
あざみは、言葉少なに答えて、それからいくつか小さな咳をしました。咳を受け止める手のひらに、赤い火花が浮いているのを、私は確かに見たのです。
「すいません」
「いえ、こちらこそ突然話しかけてしまったりして」
「調子がいい日は、喀血なんてしないんですけどね。今日は、あの桜の木を見ていたら、何か調子が悪くなってきてしまいまして」
「桜の木を?」
あざみは朗らかな笑みを消さずに言います。
「見えますか?あの木も、あの木も。みんな苦しんでいます」
不思議なことを言う子だと思いました。診療所から山斜面までは、少なくとも2キロメートルは離れているのです。かろうじて山肌を染める緑色が桜の木だと分かるほどの距離で、あざみはその木々の苦しみに共感しているというのです。
「その葉を虫に食い破かれて、互いに地中の栄養を奪い合い、天から降り注ぐ光を奪い合い、我先にと成長しようとしています。その競争の中で、苦しい、辛いともがいているのです」
あざみは、胸をおさえます。
体調が悪化したのかと、医者を呼ぼうとしました。しかし彼女はそうではないと言うのです。
「私は、桜の木がうらやましい。そうして、誰かを蹴落として生きようとしているそのエネルギーが」
そう言って、少女はピンポン玉ほどの血の塊を吐きました。
私は急いで診療医を呼びました。村医者はその人一人でしたが、非常に優秀な人らしく、またあざみの患う難病に対して研究をしている日本で数少ない名医の一人でもあるらしいのでした。
口元を自分の血で真っ赤に染め上げたあざみに、衝動的な好意を覚えた私は、それから彼女が外国の病院に手術を受けに行くという一週間後のその時まで、その診療所に通い詰めることにしました。
「シマさん……俺」
「いいから聞いていろ、タコ助」
一週間という時間は、あまりに短い期間でした。
私は、大学なら一週間くらい休んでも大丈夫と父母を説得し、診療所で療養するあざみの下に通い詰めました。
確かに彼女は、調子のよい時は喀血もなく、また多少とも血色の良い表情をしていました。とはいえそれは一日の数時間にも満たない程度であり、また彼女が起きていられる時間も、常人の3分の1ほどだったのです。
あざみの両親は、彼女の手術費用やその他の費用を払うために身を粉にして働いているのだそうです。私にはそれが本末転倒に感じられましたが、あざみがそれをありがたがっているようなので、それ以上何も言いませんでした。
あざみは、起きている間中、ずっと山向こうの桜の木が生えた斜面を見つめていました。時には憎悪をもって睨みつけているようにさえ見えました。
「ねえ」
「なあに、花梨さん」
「何でそんなにあの桜の木に固執するのかしら?そんなに睨むほどなら、見なくたっていいじゃない」
そして、私を見て。
そんな大それた欲望を口にすることはできませんでしたが、とはいえ私の天使が憎しみをもって睨みつけるその行為は、彼女の短く儚い人生にあって、とても無駄に感じられるのでした。
「憎らしいから、心が痛むから見続けるの」
「憎らしいから?」
「そうよ。だって、あの桜の木はもう何十年と生きてきて、未だなお生きたいと願って葉を茂らせている。互いに互いを出し抜こうとしている。まるで人間みたい」
ああ、この子は生きたいと願っているんだ。
私は思いました。
例え他人を蹴落としても、周囲を犠牲にしても、自分は生き延びたい。そんな生に対する苦しいほどの渇望が、桜の木への強い憧れとなって桜の木を睨み続けている。
「ねえ、あざみ」
「なあに?」
「あなた本当は、桜の木が好きなのね」
「……好きかどうかは、分からないわ」
「あなたは、どうしてあれが桜の木だって分かったの?」
山向こうの、木の形がギリギリ分かるほどに離れた場所で、彼女はそれが桜の木であることを知っていた。桜の木からテレパシーを感じているでもなければ、彼女の記憶の中には、それが桜の木だと分かる何かがあるのだと思ったのです。
「この診療所には、何度か来たことがあるんですよ」
「へえ?」
村のことは何でも知っていると思っていた私にとって、それは寝耳に水でした。小さな村ですから、外から人がやってくれば、それはすぐに分かるはずです。そしてもし私があざみと過去に出会っていたというなら、こんなにも美しい天使のことを忘れるはずがないのです。
「その時は、満開の桜が咲いていました」
「そうなんだ」
山斜面の桜は、村の人にとっては何てことの無い春の風景の一つでした。それでも、彼女にとっては、数少ない思い出のうちの一つなのでしょう。ましてやそれがいじらしくも生命の満喫を象徴するものであれば、なおさら彼女にとって輝いて見えたのだと思います。
あざみの憧憬は、桜の木々が独占しているのでした。
「ねえ、花梨さん」
「なにかしら?」
「桜って、満開に咲いた花をあっという間に散らしてしまうのよね」
その時の彼女の瞳に咲いた劫火の輝きを、私は生涯忘れることは無いでしょう。
彼女は鈴の音のような涼やかな音色の中に、あらゆる生き物を燃やし尽くしてしまうかのような、怨恨の炎を宿していたのです。
彼女の美しさは、完成されていたものだと思っていました。ですが、その瞳に見つめられた時、私は己の浅はかさを知ったのです。
「……あざみ。あなたは本当に、美しいわ」
「なに?……散らしてしまうのよね?」
「いえ、そうね……散らしてしまうわ。散らして、それから葉を茂らせて、それもまた散らせてしまう。そういう植物ですもの」
さらに燃え上がる、あざみの真っ黒な瞳。
美しい。
「シマさん、俺この子が何を言ってるのか分からないんですけど」
「何度も言わすな。お前はメモだけとっときゃいいんだよ」
「……はい」
私は、その美しいあざみの瞳を自分だけのものにしたかったのです。
そのためにはどうすればいいのだろう?と悩んだ結果、一つの結論を閃きました。
「あざみ」
「何?」
「もう一度、来年の春、この村においでなさいな」
「どうして?」
あざみの問いには二つの意味があったのだと思います。一つは、何でそんなことをさせようとしているのかということ。もう一つは、成功の見込みがない手術を受けるのに、そんな遠い未来の約束をなぜさせるのかということ。
「あなたに、満開の桜を見せてあげるから」
すでに葉桜になった木々の時間を戻すことはできませんから、せめて来年、彼女に最高に美しい桜を見せてあげたい。それが私の願いでした。
あざみは、瞳に宿った劫火も鎮火して、困ったように笑います。
困った笑みを見せたのは、それが初めてでした。
「……本当に見せてくれるの?」
「わたしはね、これでも結構できる子なんだ。私が『できる』と言ってできなかったことなんて、一度もないのよ。村の人にきいてごらん。みんな、私のことを知っているから」
「そうじゃなくって」
「ん?」
胸を張って主張する私に、あざみは嘲るような笑みで言うのです。
「あなたは私を生かせないのに、どうしてそんな簡単に約束が『できる』の?」
その言葉が、私の胸に突き刺さります。
でも、それは私が望んだことでもあったのです。
桜の木に向けられていた、生命への執着。それが今、私に向けられている。彼女の、あざみのトゲのような執着心が、私の心を傷つける。
あざみは、弱い。弱いから、攻撃性だけは異様に強い。
そんな生命への執着が、これ以上なく美しい。
「それじゃあ、約束をしましょう」
「また?」
「私は、あざみを満開の桜とともに迎える。だから、あざみ。あなたは来年、生きて帰ってくるのよ」
「そんなの、約束になってない」
私は、彼女を車椅子から持ち上げて、ギュッと抱きしめました。
骨と脂肪だけの彼女の身体は、巨大なぬいぐるみのようにふわふわとしています。
「大丈夫。あなたは私との約束を守ってくれる。だから、私もあなたとの約束を守るわ」
「この話のどこからあんな凶悪な犯行に繋がるんスかね」
「……」
「無視スか、シマさん」
そちらの刑事さんの言う通りです。
この時の私はまだ、あんなことをしようだなんて思っていませんでしたから。
ですが、この時から私は狂ってしまっていたのでしょう。あるいは、彼女の燃やし尽くすような生命への憧憬の眼差しが、私自身をも燃やしてしまったのでしょう。
翌週、あざみはドイツのとある病院へと旅立ちました。私も大学に通うために東京に戻ります。
葉桜が、赤く色づき、落葉していきます。
私は、あざみに目を焼かれてしまいました。いえ、ものの例えというものです。彼女のあまりの美しさに、私の感情は奪われ、彼女以上に美しい存在が現れないと理解したとき、この世界があまりにも味気のないものだと感じられたのです。
刑事さん。
あなたには人生にどんな楽しみがありますか?
その楽しみを全て奪われて、刑事さんはまだ生きていられると思いますか?
私は、私の退屈と化した人生に耐えられなくなったのです。
それだけではありません。
私の人生を退屈にさせる全てのつまらない生き物たちに、猛然と、怒りが湧き上がってきたのです。
それは、あざみが燃え上がらせた嫉妬と憧憬の入り混じる劫火の感情でした。
「ずいぶんと主観でモノを語るんスね」
「おい、タコ助。勝手にコイツの分析をするな」
「でもッスよ?相手の感情を勝手に分かったつもりになって、その分かったつもりで自分自身を言いくるめるって、やっぱり狂人って」
「タコ助、黙ってろ」
いいんですよ。価値観は人それぞれですから。
私は、あざみの見ている世界がどんなものか、その時に何となく分かったのです。色のない、味気ない世界。自分だけがおいてけぼりにされて、薄い膜一枚向こうで、生き物が生命を満喫している。
ズルくないですか?
あざみは、難病と生き続けるしかない。こんなにも生きたいと願っている人がいる一方で、日々を適当に生きている健康な人がいる。
刑事さん、あなたは「人生なんてそんなもん」って思っていますね。そうです、そんなもんなんです。でも私は許せなかった!
「だから、殺したのか」
いえ、違うんですよ。
殺したかったのは確かにそうですけれど、だからと言ってそんな理由だけで人を殺していたら、今頃世界の人口はもっと減っていると思いますよ。
私はその時、一片の小説を思い出したのです。
あら、ご存知ですか。さすがは私の取り調べを任される刑事さんですね。え?この取り調べのために読んだ?勤勉なんですねえ。
そうです、『桜の樹の下には』です。
生命を謳歌する者が、同じく生命を謳歌する者の肥料となって、その生命を美しく透明に滴らせて、満開の桜となる。
私は思ったのです。
そうだ、人間の死体を肥料にすれば、間違いなくあざみの望む、満開の桜が見られるはずだ、と。
死体から栄養を吸い取り、普段よりもいっそう美しく、いっそう華やかに、いっそう散ることの無い満開の桜が咲くに違いない、と。
そうすれば、きっとあざみはあの診療所へと戻ってきてくれる、と。
「幼稚ッスね」
「黙ってろ」
幼稚?確かにそうかも知れませんね。
ですが、これはあざみの望みでもありましたし、同時に私の祈りでもありました。もし、そうして咲いた満開の桜が、私の魂を揺さぶる美しさをもっているとすれば、私はようやく彼女の瞳に宿った劫火から抜け出して、普通に生きていけるだろうと信じたからです。
私は、私の近くに生きる人々の中の、特にくだらない者を選んでは、殺して桜の木の下に埋めていきました。
そうして数か月が経つうちに、だんだんと、その桜たちが美しく感じられてきたのです。
あざみの望みも、私の祈りも、叶いそうでした。
来年の春に満開の花を咲かせるために、生命力を高めているその桜の木々の様子が、私に殺人への勇気を与えてくれました。
「何スか、殺人への勇気って」
「口じゃなくって手を動かせ」
秋ごろ、診療所に一通の手紙が送られてきたという連絡がありました。
あざみの手術は成功したらしく、春ごろには一度帰ってくると言う手紙でした。
『花梨との約束、忘れてないからね。元気になって、満開の桜を見に行くからね』
その一行だけで、私の心は真冬の空のように澄み渡り、晴れ晴れとした気持ちになりました。
同時に、絶対にあざみに満開の桜を見せようという決意を新たにしたのです。
「殺人がエスカレートした時期と合っているな」
「ここら辺から、本当に見境なしになってまスもんね」
「とは言っても、だ。こんな田舎に何度も死体を運んで……だけじゃない、村からも被害者を出しておいて、どうしてこの村はこんなにも彼女に対する信頼が厚いんだ……?」
「それこそ考えるだけ損ってもんスよ」
「どういうことだ?」
「この子は根っからシリアルキラーってことッス。あざみって子のせいにしてるッスけど、結局のところこの幼稚な殺人鬼は、自分の美しさって尺度からはみ出す一切に憎悪の感情を向けているだけッスから」
満開の桜を夢見る桜たちは、私が殺した人々の栄養を吸い取って、グングンと生気を増します。
そして四月の上旬。
新年度を迎えた私は、再び村に戻ってきていました。
カリキュラムに関しては、作成したものを友人に頼んで履修状態にしてもらいました。そうして万難を排して、私はあざみと再会したのです。
あざみは、やっぱり美しかった。
車椅子に乗った天使は、私が来たことを察すると、満面の笑みで迎えてくれたのです。その理由はもちろん、山向こうの斜面に咲いた満開の桜にありました。
「約束、守ってくれたんだね」
「お互いにね」
私たちは再び抱き合いました。
そして、喀血のなくなったあざみの口から、いろんなことを聞いたのでした。
母親が過労で亡くなったこと。父親がドイツから帰って来られなかったこと。それでも私との約束を覚えていてくれて、こうして会いに戻ってきてくれたこと。
「でもね、またドイツに戻らなきゃいけないの」
「そうなの?」
「うん。私の病気は、まだ治っていないんだって」
「お金は大丈夫なの?」
もし足りなかったら、私のわずかばかりの貯金を全てはたいてもいいと思っていました。
ですが、彼女はやんわりとそれを拒否します。
「いいの。花梨さんには、生きる希望をもらったから」
天使の笑顔。
私はそのとき、確かに性的絶頂を迎えていました。
あざみに認めてもらえたことが、何よりも嬉しかった。今までの苦労が報われた、そんな気持ちになったのです。
「苦労って……人殺しッスよ」
「分かり切ったことを言うんじゃねえよ」
「俺、ちょっと気持ち悪くなってきたッス」
刑事さん。
私のことを気持ち悪いと思っても構いませんよ。だって私は、そんな些細なことを気にすることもないほど、彼女のことを好いているのですから。
そしてまた、あざみも私のことを思ってくれているのです。
満開の桜を見て生きる希望を得た彼女は、再び来年まで生きることでしょう。私には、彼女が生きていてくれることが希望なんです。
「おい、ヤス!」
「はい!」
走らせていたペンを置いて、ヤスと呼ばれた若い刑事が花梨を押さえようとした。
が、遅かった。
花梨は事前に遅効性の毒を飲んでおり、死ぬのは時間の問題だったのだ。
簡素なスチールデスクに顔から倒れ込む花梨を見て、してやられたという表情をするシマとヤス。
「刑事さん。私の死体は、桜の木の下に埋めないでくださいね」
「何でだ」
せめて遺言だけでも聞こうと、シマが問う。
「私の身体は、毒で汚れますから。満開の桜は……毒のある身体で穢されてはならないです、から」
桜木花梨は、こうして取調室の中で亡くなった。
訃報が海を渡り、ドイツの木下あざみの耳に届くまで、それから三か月を有した。
「アンタが、木下あざみさん……だね?」
ガタイの良い、グレースーツの男が、村の小さな診療所に現れた車椅子の少女に語りかけた。
こんな、フグのような少女が木下あざみなのか。
シマは眉間にしわを寄せる。
「そうですが……あなたは?」
「オレかい?……桜木花梨の最期を見た者、とでも覚えてくれりゃあいい」
「ッ!?」
車椅子が、ガタンと鳴る。
ブヨブヨと太った少女は、憎悪の目でシマを睨みつけた。
こんな悪意の塊のような少女を、あのシリアルキラーは美しいと言ったのか。
「なあ、アンタ……。桜木花梨に天使だって言われてたんだってな」
「知りません」
「オレにはアンタが死神に見えるんだが、違うか?」
「……知りません」
「アンタは、周りの者を不幸にする天才だ。いや、アンタ自身はそう思っちゃいないかも知れんがね。……母親も、アンタが殺したんだろ?」
「……知りません!」
「難病だか何だか知らねえが、俺は刑事だからかな、人間の真の難病ってのは心に巣食うモンなんじゃねえかって思ってる。そン中でも、アンタのはとびきりだ」
「知り……ません」
「生きるためなら、使えるもんは何でも使う。親でも使う。そりゃあ当たり前だよな。生きるためだもんな。それの極めつけが、桜木花梨だ」
「一体何が言いたいんですか?私が花梨さんに殺人を依頼したとでも?」
「そうじゃないさ。アンタは生きることに憧れた。それだけだ」
「そうです。私はただ、生きるために今を生きているだけですよ」
「……桜木花梨は死んだよ」
「知っていますよ。あそこにあった桜の木も、掘り起こされて、もう裸になってしまって……」
「あそこによ、桜木花梨の墓があるって知ってるか?」
「……」
「アンタがもし、少しでも桜木花梨のことを思っていたのなら、墓参りに行ってやったらどうだ?……もっとも、オレはアンタが墓参りに行くとは思えないがな」
「刑事さんには関係ない話です」
「……アイツは笑って死んでいったよ。アンタは、まだそうやって、意地汚く生きていくんだな」
「刑事さんには関係ない話です!」
「アンタの手術が成功するように祈ってるよ」
「勝手に人の命を祈るんじゃねえよ!」
ゲホッ。
咳をした少女の喉からは、一滴の喀血もないのであった。
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