殺伐百合
雷藤和太郎
笑顔の価値
葉子はとにかくよく笑う。
彼女の人生は常に笑顔と共にあって、大きな悩みなどまるで一つもないかのように笑う。きっと周りの人が思っている以上に彼女は幸せなんじゃないかと思うくらいにはよく笑う。
そんなに笑う彼女だから、周囲にはプラスのエネルギーのようなもの、善や喜といったようなエネルギーが常にあって、それが幸恵にとってはとても煩わしいもののように見える時がある。
幸恵はあまり笑わない。いや、人並みに笑ってはいる。しかしその名前ほどに幸福を感じて笑うことは少ない。少なくとも幸恵自身はそう思っている。
何せ葉子と幸恵は幼なじみで、幼稚園からの付き合いだ。小学校の時からクラスは全部同じだったし、幸恵が自分の名前の意味を知ったときも、葉子は同じクラスだった。
そう、だから幸恵は、自分がそれほど幸せではないように思っている。
思っていた。
同じ中学校に入学して、同じ高校に入学して、同じようにそれぞれ異性を好きになり、同じように告白して、葉子は付き合うことになった。幸恵はフラれてしまった。
「葉子の笑顔は、幸運を引き寄せるのね」
「エヘヘ……やっぱりそう思う?」
いつか、街中でデートをしていた葉子を見つけて、軽い挨拶の後に幸恵は葉子の脇腹を小突きながら言った。
葉子の彼氏は、人好きのする感じの男の子だった。雨の日に傘を忘れた人にそっと自分の傘を渡して、一方自分は折り畳み傘で帰りそうな男の子だった。
「幸恵も、笑顔でいればいいことあるよ」
チクッと幸恵の心に棘が刺さった。
私には笑顔が足りないから幸運が来ないとでも言うのだろうか。葉子は笑顔が足りてるから幸運が来るとでも言いたいのだろうか。
葉子はニッコリ笑いながら、じゃあねと言って彼氏と腕組みデートに戻っていった。その時の屈辱は、幸恵にとって味わったことの無い苦々しさがあった。
「……チッ」
雑踏に二人の後ろ姿が消えた後、幸恵は眉間にしわを寄せて舌打ちをした。
とても笑顔でいられる訳がない。そう思った。
葉子はそれからしばらくその彼氏と付き合っていたが、数か月もすると別れてしまった。とは言え代わりの彼氏はすぐに出来るし、彼女自身、別れたことも笑顔で話すものだから、幸恵は特別気にも留めなかった。
「今度は大丈夫?」
「アハハ、大丈夫大丈夫。アタシ、またすぐに彼氏つくるからさ」
「……確かにね。これでもう何度目だっけ?」
「んー?何回目だっけ?」
「三回目だよ」
「アッハ、三回目かあ」
こういう会話を、葉子は屈託のない笑顔で話す。
一方で、幸恵は別の人に三度告白し、三度ともフラれていた。
背が高いからイヤ、オタク趣味だからイヤ、名前が古風だからイヤ。最後なんてもうほとんど当てこすりのような断わり方をされるものだから、男というものにほとほと嫌気がさすのだった。
「アンタは良いわね、すぐに彼氏ができて」
「葉子」
「何よ」
「……笑顔笑顔。口角を上げておけば幸せになれるわよ」
そう言って、葉子は両方の人差し指で自分の口角を押し上げる。ほんのりチークののった赤い頬が、ふっくらと潰れる。ぱっちりした目が細められて、まつ毛の長い二重まぶたが笑顔を形作る。
葉子が励ますときの癖のようなものだった。
「えーがおッ」
自分の口角から指を離して、向かい合う幸恵の口角をチョンと触れる。
幸恵はその励ましをされるたびに、少しドキッとしながら、同時に心の深いところで、熾火のように何かが燻るのを感じるのだった。
そういう時幸恵は、葉子に倣って同じように笑顔をしてみせることにしている。テーブルの上のコールドブリューコーヒーを一緒に飲み干して、次の日には葉子の隣には新しい彼氏がいるのだ。
それは分かっている。
幸恵には、もう慣れたものだった。
しかしその日の寝入りばなに、昼間一緒に飲んだアイスコーヒーのカフェインが嫌ッてほどに効いてきて、心の奥に沈んでいた熾火をジクジクと温めていく。その胃もたれを起こす嫌悪感だけは、ふかふかのお布団でも拭い去れないのだった。
異変に気付いたのは、二人が高校二年生になった時のことだった。
葉子について、何か変な噂が立っていると、幸恵は友人から聞いたのだ。
「変な噂?」
「そうなのよ」
葉子と付き合った元カレが、登校拒否ないし退学しているというのだ。
「……たまたまじゃなくって?」
「いやあ、よく分かんないんだけどさ。でも、実際に彼女と付き合った男の子は皆学校に来なくなってきてるのよね」
その事実は、幸恵でも簡単に調べられた。
確かに、葉子と別れた元カレたちは、葉子と別れた次の週か、あるいはその月のうちに登校拒否ないし自主退学していたのだ。
「なあ、幸恵」
職員室でその話を担任から聞いたとき、担任は彼女を別室に呼び出して、教頭とともに幸恵に尋問を始めた。
「お前、葉子について何か知らないか?」
「もう知っていることとは思うが、葉子くんが……あー、学校に来なくなった学生たちと付き合っていたって話なんだろう?」
幸恵は二人の男性教師と向かい合って座ると、どうにも居心地が悪かった。
「ええ、まあ、確かにそういう話は彼女としてましたけど」
「葉子の交友関係とか、詳しいことを教えてくれないか?もちろん、幸恵が知ってる範囲内で構わないし、言えないようなことは言わなくても良い」
「外野上先生。……おっほん、隠し事はしない方が身のためだよ。学校としても、もし問題のある生徒だった場合には然るべき処置をしなければならん。然るべき処置、というのは決して彼女自身のことだけとは限らない。……この意味は分かるね?」
教頭の、眼鏡の奥に沈んだ瞳が一層黒く沈んだように光った。
子供騙しの脅迫に、幸恵は思わず口元が緩むのを感じた。ああ、笑うってこういうことを言うんだなと、そんなことを思ってしまう。
「残念ですけど、私は彼女の交友関係とかは知りませんよ」
「知らない?」
「ええ」
幸恵は、自分の口角が上がっているのを感じる。
「というよりも、葉子は見た目通りの子ですよ。いっつも笑顔で、周りを明るく照らすような、そんな子ですよ」
「それじゃあ、葉子の家のことも知らないのか?」
「家のこと?」
「外野上先生」
教頭が睨みをきかせて、担任がしまったという顔をしてしまう。
「葉子の家が何かあるんですか?」
「君は知らなくていいことだよ、葉子くん。さて、何も知らないのならこの話はもう終わりだ。帰りたまえ」
全てを打ち切って教頭が幸恵を職員室からはじき出す。
薄暗い廊下に一人取り残されて、笑顔の貼りついた顔がスッと冷えていくのを感じて、幸恵は思わず口角を自分の両の人差し指で押し上げた。
「そう言えば、あの子の家って……どんな家なのかしら」
幼稚園の頃からの付き合いなのに、幸恵は葉子の家のことを何一つ知らなかった。
「それだけじゃないわ……」
思えば、葉子はその笑顔の裏に色んなものを隠している。
一番の友だちだと信じていた葉子のことが、先生との尋問めいた会話のせいで一気に揺らいでいくのを幸恵は感じた。
「私は、葉子の何を知っているの」
いつも笑顔をふりまいて、自分が一番幸せだとでも言わんばかりで、その周囲はエネルギーに溢れていて、幸恵以外にも友人が多い。
しかしその友人たちと幸恵は全くと言っていいほど接点がなかった。性格もおよそ似ているような部分は一切なかった。ネアカで、世界全てが自分の味方をしているみたいな性格の子たちばかりが、葉子の周りに集まっていた。
それなのに、葉子はそんな友人達とはほとんど真逆のような性格の幸恵ともよく付き合ってくれた。
「分からない……」
幼なじみの笑顔は、いったいいつからあるのか。少なくとも、幸恵の記憶の一番古いものを思い起こしてみても、そこには葉子の明るい笑顔があった。
放課後の廊下をぼんやりと歩いて、ロータリーのある正面玄関から学校を出ようとするその時、一本の街灯の下に見慣れた少女の影があった。
「葉子……」
誰そ彼時に、葉子はその姿を真上から照らされてスマホの画面を眺めていたが、幸恵を見とめるとわずかにホッとした様子で口角を上げる。
「幸恵」
その笑顔の中に猫なで声を感じて、幸恵は肩にかけた学校指定の手提げバッグの紐を揺らして直した。
「幸恵」
葉子はその場を動かず、幸恵の名前を呼ぶだけだ。笑顔が招き猫のように幸恵を手招いている。
いつもならその人好きのする笑顔に誘蛾灯のように誘われる幸恵だったが、今日ばかりは教頭との話が頭をよぎってしまう。夏のキャンプ場で見つけた蜘蛛の巣のような、生きるための罠……。
肩にかけたバッグの紐を握る手に、わずかに汗がにじむ。
「幸恵」
「葉子……あのさ」
「ねえ、幸恵はあんな頭の固そうなオッサンの言葉よりも、アタシの方を信用してくれるよね」
これだけ距離があるにも関わらず、耳元で囁かれているよう。
「葉子はさ……何でこんな暑い日でも長袖を着ているの?」
「もう、知ってるでしょう?アタシが冷え性なのは昔からじゃない」
「そう……よね、昔から葉子は冷え性だったものね」
彼氏と腕組みデートをしていたあの日も、残暑の厳しい秋の入口ころのことで、その日もやっぱり葉子は長袖だった。
「ねえ、その長袖をめくってみせてよ」
「どうして?」
葉子が水泳の授業に出ていたところを、幸恵は見たことが無かった。
しびれを切らした葉子は、スマホをバッグにしまい込んで、ゆっくりと幸恵に向かって歩き出す。
「……葉子のことが、心配なのよ」
「心配?……何が?」
幸恵には、今の葉子の笑顔が本物のように見えなかった。まるで誰かが葉子の後ろで無理やり口角に人指し指を押し当てて笑わせているかのように感じられた。
その人指し指は、一体誰のものなのか。
「私ね、全然知らなかった。葉子のこと、一つも」
「アタシのこと?」
うつむく幸恵の視線が、葉子の笑顔を捉える。葉子は幸恵よりもずっと背が低い。そのまま抱きつこうとすれば、葉子の頭は幸恵の胸にすっぽりと収まってしまうほどに。
まるで大人と子どもだ。
「アタシはアタシだよ。昔から知ってるでしょ?」
「……昔から知ってるから、ずっと知ったつもりだったの」
幸恵は、葉子の二の腕を掴んで強引に持ち上げた。
その身長差に比例するかのように二人の腕力の差も歴然で、どれだけ抵抗しようとも、幸恵の掴む手を葉子は解くことができなかった。
制服をめくり上げる。
「……ッ」
そこには、この世の悪を凝縮したような姿が広がっていた。
刺青、青痣、リスカの跡、リスカとは別の引き攣れ、火傷、ケロイド。
もっとめくり上げる。肘の内側に、何本もの注射針をさしこんだような跡……。
「何で……」
「あーあ、バレちゃった」
貼りついた笑顔。
「あ、でもねでもね。クスリはやってないの。それだけは信じて。あとは全部、ホンモノなんだけどさ」
「ホンモノって……何さ」
「とりあえず場所を移そっか。向こうで、デバガメのオッサンたちが見てる」
その笑顔のまま、葉子は幸恵に職員室の窓を見るように促した。
窓の向こうで、眼鏡をかけた教頭がこちらを睨んでいるのが見える。
「分かった」
幸恵が腕を離すと、葉子はめくられた袖を元に戻した。
「いつものコーヒーショップでいいよね」
「良いわ、全部話してあげる。と言っても、別に何かあるわけじゃないんだけどね」
その腕で何もないわけないじゃない。
言葉を飲み込んで、幸恵は葉子の隣に介添えるように立って校門を後にした。
いつものコーヒーショップの、いつもの二階席。
たくさんの女子高生がたむろするフロアの一番奥のボックス席は、カップル専用という女子高生内の暗黙のルールがあった。そこに男を引き連れて一緒にお茶するというのは彼女らにとって一つのステータスで、また同時にそのカップルがさまざま批評される品評会の会場でもあった。
そんなボックス席に、幸恵と葉子は何の衒いもなく座る。
周囲の女子高生たちからざわめきが起こり、それからフロアは静寂が訪れた。店内に響く有線の音楽の向こうで、女子高生たちが妖精のように囁き合っている。
しかし幸恵たちが座るボックス席の声は、そちらへは届かない。
そういうところも、このボックス席がカップル専用になっている理由の一つであった。
「……ということなの」
両腕をめくってテーブルの上に投げ出した葉子は、幸恵に全てを説明した。
その話の内容よりも、その内容を何事もないかのように説明する葉子の方に、幸恵は戦慄を覚えずにはいられなかった。
腕に刻まれた悪意の跡は、腕だけにあるのではないのだという。顔と手首から先以外の全身、隅々に至るまで、彼女の身体は生涯治ることの無い跡が残っているのだという。
その壮絶な話を、葉子は他人事のように、笑顔で話す。
「そんなの、もう警察沙汰じゃん」
「違うよ。ウチの事情」
「ドメスティックバイオレンスだよ!」
「違うよ。ウチの事情」
「なんで……」
話の途中で、幸恵が何度それを遮ろうとしたか分からなかった。遮らなかったのは、それを笑顔で語る葉子が実際に受けてきたさまざまな仕打ちを自分が聞かずして何が友だちかという、幸恵自身の義憤のためである。
「それにね」
アイスコーヒーに溶けるホワイトの渦を睨みつけていた幸恵が視線を上げると、テーブルの上に両腕を置いていた葉子が、笑顔で言うのだった。
「アタシは、望んでそうなったんだよ」
「……望んで?」
「うん」
どういうことなのだろうか。
一体何を望んで、こんなひどい仕打ちをする家に残ったというのだろうか。
「男なんて、皆、身体目当て。どんなに人好きのする男でも、結局のところ、付き合う目的なんてソコなの」
葉子は、ブラウスの首元を緩めた。
「アタシは色んな男と付き合ったけれど、アタシの身体を見て引かなかった男はいなかった。パパだって、アタシをこんな風にしておきながら、だんだん飽きて、終いにはアタシをゴミでも見るかのような目で見る」
ボタンを二つ外して、ピアスのついた鎖骨をはだけさせる。青痣と火傷で彩られた彼女の柔肌を見て、幸恵は思わず目を背けたくなった。
「顔をヤらなかったのは、パパの保身。飽きて利用価値のなくなったアタシに、別の価値を見出したのはパパの機転」
「それってつまり……」
「登校拒否も自主退学も、つまりはそういうこと」
葉子を餌に男をおびき寄せて何らかの脅迫をした。それは幸恵にも何となく想像がついた。
ただ、想像できなかったことが一つ。
「そうまでして、どうして葉子はそのお父さんから逃げないの?」
「え?だって、家族じゃん」
「……え?」
「家族って、そういうものでしょ?」
笑顔。
ああ、どうして私はこんなになるまで彼女のことを分からなかったのだろう。
幸恵は、自分の頬に涙の伝うのにも気づかず、ただその口角が上がっていくのを感じていた。
葉子は、もう、壊れているんだ。
「アタシはね、パパが好き。ママが好き。まあもうママは死んじゃって久しいんだけど、でもママは優しかった。傷だらけでね、その傷がキレイで、キレイな傷を見せながら笑うんだ。その笑顔が好き。ママの笑顔を見て、パパも笑顔になるの」
「葉子」
幸恵はテーブルに身を乗り出して、葉子の頭を抱き寄せた。
「私の家に来よう!引っ越して、戸籍も変更して、とにかくそのパパの元から離れないと葉子はもっと壊れちゃう!」
抱きしめる幸恵の腕から逃げるようにする葉子のせいでバランスを崩し、テーブルがひっくり返る。
アイスコーヒーの入ったグラスが割れて、真っ黒な液体が、リノリウムの床に広がる。店内の視線が一斉に集まって、やがて異音を聞きつけた店員もやってくるだろう。
「……行こう」
幸恵はその場をそのまま放り投げて、葉子の返事も聞かずに二人分の荷物を持ってその場を立ち去った。
「幸恵」
幸恵に手をひかれて足早にその場を逃げ去る葉子の顔に、誰にも見せたことの無い笑顔が宿る。
邪悪というのも憚られるような、悪意に満ちた笑顔をそっとうつむいてひた隠し、葉子は幸恵に手を引かれていく。
「ごめんね」
その日、葉子は初めて親に無断で外泊をした。
手続きは何の問題もなく行われ、葉子の父親に悟られぬまま、葉子は幸恵の家に戸籍を移された。
葉子の父親は逮捕され、さまざまな余罪が暴かれた。ワイドショーはその凶悪な犯行の数々を一週間ほどかけて報道したが、すぐに飽きて、別の悪意に目をつける。
葉子は、幸恵と一緒の部屋で寝た。
葉子の父親が逮捕されたとき、幸恵は我が事のように喜んだ。幸恵の父母もまた同じように喜んだ。
「良かったねえ」
目尻に涙を浮かべて微笑む幸恵を見て、葉子も笑顔になった。
「ありがとう」
しかし葉子は、その一か月後に失踪した。
銀行員として働き始めた幸恵は、今もまだ葉子のことをどこか探していた。
あの時、自分は葉子の人生を救ったような気がして、その時彼女が見せた笑顔は、全てから解放された、本当の笑顔のように幸恵には感じられた。葉子の見せる笑顔は以前よりもどこか優しいものがあったし、満ち足りたがゆえの笑顔だと、その時の幸恵は信じて疑わなかった。
その時ほど、幸恵は自分の名前を誇りに思ったことは無い。
しかし葉子は幸恵の前から消えた。
理由は分からなかった。書き置き一つ残さず彼女は失踪し、あらゆる痕跡を消して煙のように消えてしまった。
これから、本当に幸せな人生が待っているはずだったのに。
葉子は都内の小さなレストランで待ち合わせた彼氏と食事をしながら、それでも葉子のことを考えていた。
「考えごと?」
ダークグレーのスーツを着こなした彼氏が、羊肉をフォークで持ち上げながら言った。
「……うん」
「それって、前に話してくれた女の子のこと?」
「……うん」
肯ってみると、どうしても悲しくなってきて、眉間に皺が寄ってしまう。
「葉子さん、だっけ?よく笑顔だったっていう」
「そう」
「幸恵さんが気に止む必要はないんじゃないかな。事実その葉子さんは幸恵さんのおかげで罪を犯していた親から解放された訳だし、きっと幸恵さんの側を離れたのも、何か理由があってのことなんだと思うよ」
「その理由が分からなくて……」
幸恵はそう言って、羊肉の上のタイムを齧る。
「もうずっと……彼女がいなくなってからずっと、その理由を探しているんだけれど、結局分からないのよ」
「分からないことは、分からないままでも良いじゃないか」
店員がコースの次の料理を運んでくる。ダークグレーのスーツを着こなした彼氏は、カフスボタンのついたシャツ袖を見せるようにして店員に羊肉の骨が残った皿を手渡した。
「それとも、それが分からないと君は幸せになれないかい?」
「……その言い方は卑怯よ」
幸恵は彼氏の顔を見て、困ったように笑った。
「でもそうね……。分からなくったって、幸せにはなれる……と思う」
「どうやって?」
発泡水の入ったグラスを傾けながら、彼氏がゆったりとした笑みを向ける。その笑みを見て、幸恵は今の彼氏の優しさに改めて気づくのだ。
フォークとナイフを置いて、両手の人差し指を口角にあてて、
「こうやって、よ」
押し上げる。笑顔を作ってみせる。
「笑顔でいれば、良いことがあるんだって、あの子はそれを教えてくれたわ」
「そうよ、幸恵。その笑顔よ」
聞き覚えのある声。
振り向いたそこには、その小さなレストランにはそぐわない迷彩柄のパーカーを目深に被った、子どものような背丈の人影が立っていた。
フードを上げたそこには、刺青と火傷に彩られた、可愛らしい女性の顔。
「久しぶり」
「……葉子」
「君が葉子さん?」
二人の会話に割って入ろうとするダークグレーのスーツの人間を、葉子は携えた拳銃を発砲して黙らせた。
悲鳴。
逃げ惑う人々。
幸恵の彼氏はテーブルに置かれたサラダをドス黒い血で染め上げてその上に倒れた。
「それが笑顔よ」
貼りついた笑顔の幸恵は、振り向いた格好のまま、その後ろで起こった惨劇を見ることが出来なかった。
「アタシにとって、笑顔の価値はそれなの。世の中にある不幸から逃げるための逃避行動。それなのに、幸恵、アンタはアタシからそれを奪った」
銃声、再び。
ダークグレーのスーツを着た肉塊に、トドメとばかりの鉛弾が差し込まれる。
葉子の右腕がだらりと垂れさがり、握っていた拳銃はその場に落ちた。二発の発砲によって、葉子の肩は脱臼したのだ。
「ああ、これが笑顔よ」
額に脂汗を浮かべながら、葉子は口角を上げた。
痛みに必死に耐えている。その痛みから逃げるために、彼女は笑顔を絶やさない。
「アタシ、昔アンタに言ったわよね。『笑顔でいればいいことあるよ』って。アタシはね、本当だと思うの。笑顔でいられなければ、良いことなんて何一つない」
葉子は屈み、椅子に磔にされて体を捩じれさせたままの幸恵の口角に、人差し指を置いた。
「笑顔、よ、幸恵。笑顔だけが幸運を運んでくるの」
遠くから、パトカーのサイレンが聞こえる。
サイレンが鳴り終わるよりも先に、私の命は尽きるだろう。幸恵には確信にも似た思いを抱いて、目の前で邪悪に微笑む葉子と、己自身の人生を狂わせたものが何なのか考えずにはいられなかった。
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