過去⑥ 人間の少女十五歳

 少女は浮かない顔で石床の上を歩いていた。

 ボスに呼び出されるときの用事はいくつかパターンがあるが、最も多いのは叱られるときだった。言伝をしてくれた狼人ライカン曰く、何やら神妙な雰囲気だったとのことなので、蓄えの木の実をこっそりつまみ食いしたことがバレたのだろうか、と思い至った。


 ボスはあまり怖くないが説教が長かった。知性の高い魔物は人語を話すが、その中でも特によく喋る方だった。言語の扱いが得意らしく、少女に言葉を教えたのもボスだった。

 憂鬱な気持ちでボスの部屋に入った。石柱のみが並ぶ物寂しい広間に、白い体毛で覆われた巨体がぼつん、と立っていた。


「来たよ、ボス。私に何か用?」


 あくまで何も心当たりがないような口ぶりで少女が言う。


「小娘、お前に大事な話がある」


 ボスは大きな口をゆっくりと動かして、低い声で言った。いつにない重い空気に少女の危機察知能力が働いた。これは正直に自分から白状した方が相手の心証を良くするだろう、ととっさに判断する。


「ごめんね、ボス。確かに蓄えの木の実を食べたのは私だよ。ちょっとお腹が空いちゃって、思わず……。食べた分は今度自分で採りに行くから」

「そのことではない。あと、お前があまりにもつまみ食いをするので本当の蓄えは別の場所に隠してある。お前が食べたのはお前のつまみ食い用に置いてあった分だ」

「なんと」


 だったら遠慮せずにもっとたくさん食べておけばよかった、と後悔する。一瞬前に見せていた反省の色はあっという間に消え失せていた。


「でも、いいの? そんなこと私に教えちゃったら、次からは本当の貯蔵庫を探すかもしれないよ?」

「いいや、その心配はもうしなくていいのだ」


 翡翠色の瞳が少女を見下ろす。


「小娘、お前はここを出て行かなければならない」

「出て行く……ってことは、人里に潜入するってこと? 結局、具体的に何をするのか全然決まってなかったと思うんだけど」


 ボスは質問に答えず黙した。訝しんだ少女が「ねぇ」とボスの腹を軽く叩いた。ローブの下の体毛に、少女の小さな手が跳ね返された。


「今、ダンジョン内に侵入者が来ている」

「また冒険者? 最近ちょっと多いね」

「元々増加傾向にはあったが、ここ数年で特に増えた」


 ボスが深い溜息を吐く。口元の白い毛が揺れた。


「この北の山は魔王城と人里を遮る、言わば砦の一つ。故に高階位の魔族が配置されている地帯だ。拠点であるこのダンジョンまで辿り着ける人間が増えたということは、それだけ奴らの戦闘技術が進歩してきているということだ」

「あ、分かった! 人里に潜入して、あいつらの技術を盗んで来いってことでしょ」


 得意げに手を上げた少女が口を挟む。しかしボスは小さく首を振り否定した。


「いいや、違う。潜入するのではなく、人里に戻るのだ。魔族としてではなく、人間として」

「……どういうこと?」


 言葉の意図が理解できず、少女が眉をひそめる。


「人間共の戦闘技術の進歩は著しい。特に、三百年ほど前に魔法を会得してからは恐ろしい速さで進歩した。所詮は魔族の力を仮初で使っている“もどき”だと思っていたが、最早そのように一蹴できる範囲を脱した」

「たしかに、最近の冒険者は強いって皆言ってるけど……」


 少女が部屋の扉に目を向ける。部屋の外のどこかでは、侵入者とダンジョン内の魔物が戦っている最中であろうことを思った。


「もしかして、今日の冒険者は強いの?」

「……魔王様直属の四天王を下した奴らだ。他の魔族たちは元より、私も負けるだろう」


 ボスの言葉に少女が青ざめる。ローブにしがみつき、ボスの巨躯を精一杯揺らした。


「早く、逃げないと!」

「私はこのダンジョンの長だ。逃げるわけにはいかん。それに、奴らは他の冒険者と比にならん程ダンジョンの攻略が早いと聞いた。じきにここへたどり着くだろう」


 そう言うと、どこからか取り出した鎖を素早く少女の腕に巻いた。冷たい鉄が肌に触れ、少女は思わず身体を強張らせる。


「な、なに、これ」

「お前は魔物に捕らわれた哀れな小娘だ。攫われた時のショックで記憶を無くし、故郷は思い出すことが出来ない。捕らわれていた間の記憶も曖昧だと答えろ」

「何言ってるの? 外してよ、これ!」

「本当はもっと早くに人間の元に戻してやろうと思っていたのだが、お前のいる生活が楽しくてな。決めあぐねている内にこんな日が来てしまった。冒険者たちは、きっとお前を保護してくれるだろう」


 少女が腕に巻かれた鎖を振り回して抗議した。丸く大きな瞳は涙で滲んでいた。


「いやだ! 私も皆と一緒にここで死ぬ!」

「何も死に急ぐ必要はない。死ぬことなど、生き残ってからでもできる」

「私は人間に捨てられたんだよ? そんな奴らの元になんか戻りたくないよ!」

「お前を捨てたのはお前の親だ。全ての人間がそのような奴らかは、人里に戻ってから判断するといい。ああ、そうだ。お前はここで木の実や獣の肉ばかり食べていただろう? 人間の食文化には菓子という果物より甘い食べ物がある。私は一度食べたことがあるが、大層美味いものだ。きっとお前は気に入るだろう」

「ふざけないでよ! 行かないって言ってるでしょ!」


 暴れる少女の頭を、毛むくじゃらの手が覆う。緩やかな動きで栗色の毛を撫でると、少女の動きが次第に緩慢になっていった。


「しばらく寝ていなさい。次に起きた時から、お前は人間の子供だ」


 少女が何か言おうとしたが、呂律の回らない言葉をいくつかこぼしただけだった。少女の意識は、鉛のように重い瞼と共に落ちて行った。

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