第五章 エタール教(前編)

 ナトリスト国には国教がある。

 千年前、この大陸に突如現れた魔物という驚異は、人々の心にエタール神なるものを生み出した。

 普段から善い行いをし、エタール神を信じ祈りを捧げれば、神の使いである勇者が魔王を討ち滅ぼすであろう、というのがここ数百年に渡って説かれてきた教えだ。


 そして半年ほど前、教えの通り勇者が魔王を倒した。なので現在のエタール教は、教えを信じなければ魔王が復活し、再び世界を恐怖に陥れるだろう、という方向に移行したようだった。国民に一人一冊配られる簡易版神書も、先日改訂版が届いた。


 俺は手に持った簡易版神書を開く。先述の内容がこの中に書かれているようだが、やたら古臭い言葉遣いと難しい言い回しで書かれているため、外陸人の俺には難読だった。正直言って半分も解読できていない。

 そもそもの話、数年前この大陸に来た俺は、エタール教に対して特に信仰心も持っていない。今こうして教会堂に足を運んでいるのは、週に一度の礼拝が国民の義務とされているためだ。


 それをなんだ、この俺の隣に立つイリアとかいう女は。さっきから俺を白い目で見てきやがって。そりゃあ、俺はエタール教の讃歌を全然覚えていないし、さっきからずっと歌っている振りをして口を動かしているだけだが、それは仕方のないことなのだ。

 記憶喪失であるこの小娘も信仰心は大して無いと思われるが、讃歌は完璧に覚えているようだった。城で暮らしている間に教え込まれたのだろう。

 讃歌の斉唱が終わると、檀上の女司祭が祝詞を述べる。


「汝がなづむ時、主を信ぜよ。さすれば主は汝を救い給わん。汝が主を信ずる時、歌をば歌い給え。歌は風に乗りて天迄昇り、主にとづきならむ」


 透き通った声は、三百人を収容するこの大教会の端まで届いた。ちなみに祝詞の内容は、「皆様のエタール神を信じる心は歌という形で天に昇り、主に伝わることでしょう」みたいなことらしい。そのことは、今まさに壇上で祝詞を述べた女司祭、ヴィータから冒険者時代に教えてもらった。

 ヴィータが神書をめくる。俺たちが持っている簡易版ではなく、全文が載った正式なものだ。彼女はその中の一文を読み上げ、説法を始めた。俺はゆっくりと目を閉じる。


「リド、寝る気でしょ」


 隣でイリアが囁く。


「失礼な。俺は目を閉じてじっくりと説法に傾聴しようとしているだけだ」

「説法を聞いてる間はちゃんと司祭の方を見ないといけないって教わったよ」


 どうやらイリアが城で教わったのは讃歌だけではなかったらしい。エタール教の英才教育を受けているようだった。


「ヴィータの声は心地いい。聞いていると眠くなる」

「ヴィータさんのせいにしちゃ駄目だよ」

「一緒に冒険していたとき、眠れない夜はヴィータに添い寝してもらってエタール教の説法を囁き続けてもらったもんだ」

「うわぁ……何その気持ち悪いエピソード」


 イリアが鼻根に皺を寄せる。


「それ、ヴィータさんは嫌がらなかったの?」

「いや、むしろ俺がエタールの教えに興味を持ったんだと勘違いして喜んでいた」

「クズ野郎」


 イリアは吐き捨てて前に向き直った。俺はそれを見て安心して眠りにつこうとしたが、尻に何かがぶつかって目を開けた。

 後ろの列の人間に尻を蹴られたようだ。今の話を聞かれて反感を買ったらしい。そういえばここにいる人間の大半は熱心なエタール教信者であることを忘れていた。





 礼拝が終わり、教会堂内に詰め寄せていた群衆は出口に向かった。俺もその流れに合わせ、出口へと歩きだす。


「ヴィータさんに挨拶していかないの?」


 隣のイリアが俺の外套の袖を引っ張った。


「行かない」

「なんで? 友達でしょ?」

「事情があってちょっと顔を合わせづらい」

「あんた、そういうの多くない?」


 返す言葉もない。


「まぁいいや。じゃあ私だけ会ってくるね」


 流れに逆らってヴィータの元へ向かおうとするイリアの服の袖を、今度は俺が引っ張る。「なに?」とイリアが振り向く。


「俺のところに泊まっていることは言うな」

「えぇー、なぁんでぇ?」


 イリアがいやらしい笑いを浮かべる。俺に何かしらの後ろめたさがあることを感じ取ったのだろう。嗅覚の鋭い奴だ。


「どうしよっかなー」

「言う事を聞くなら揚げ餡を全部食べたことは許してやる」

「それについては昨日薪割り百本やったことで許してもらったはずだけど」


 そうだった。くそ、薪割りなんか自分でやれば良かった。

 出口に向かう礼拝者と肩がぶつかった。当然だが今立ち止まる理由があるのは俺たちだけだ。周りの迷惑になっているのは明らかだった。


「分かった、一つ借りにしといてやる。だから言うなよ」


「はいはーい」と小気味の良い返事を残して、イリアは人ごみの中に消えていった。

 余計な借りを一つ作ってしまったが、あいつのことだ。甘菓子でも買ってやればそれで済むだろう。





「お待たせ」


 教会堂から出てきたイリアが声をかけてくる。本当に軽く挨拶をした程度だったようで、礼拝者の波が引いてそう経たない内に戻ってきた。


「約束通り、喋ってないだろうな」

「大丈夫だって。リド君は心配性だなぁ」


 イリアが俺の頭を撫でてくる。俺は強めにイリアの腕を弾いた。『リド君』という呼び方はヴィータがしていたものだ。


「……お前、本当に喋ってないんだろうな」

「流れでちょっとリドの話をしただけだよ。心配してたよ」


 イリアは弾かれた腕をさすりながら「それでさぁ」と話を続けた。


「ちょっと気になったんだけど、リドってもしかしてヴィータのお父さんに嫌われてるの? ヴィータさんの隣にいたんだけど、リドの名前を出した時、ちょっと嫌そうな顔してた」


 なかなか観察眼の鋭い奴だった。もしくは、はっきりと分かるくらい嫌な顔をされたかのどちらかだろう。


「少なくとも、好かれてないのは確かだ」

「……リドは、もうちょっと人間関係を気にかけた方が良いんじゃない? 顔を合わせられない人が多いように思うんだけど」

「いや、これに関しては俺の人格の問題じゃねぇよ」

「じゃあ、なんなのさ」

「……教会の前でする話ではないな」


 俺は教会堂から離れるように歩き出した。イリアもそれに付いてくる。

 北通りに出た。商店が少ない北通りは、大通りや東通りに比べて人気が少ない。礼拝帰りらしい人影が散見される程度だった。

 教会堂から十分に離れたところで、俺は話を始める。


「端的に言うと、俺が、というより魔物飼士モンスターテイマーが嫌われてるんだよ」

「え、そうなの?」

「ああ。ヴィータの父親だけじゃない。熱心なエタール教信者は魔物飼士モンスターテイマーを嫌っていることが多い。何故だか分かるか?」


 俺の問いかけに、イリアは少しだけ考えて答えた。


「魔物を操るから? エタール教って、魔物を排斥する思想が特に強調されてるし」

「正解だ」

「でも、そんなこと言ったら魔物の力を使う魔法自体が良くないんじゃないの?」

「それも正解だ」


 俺は指を一本立てて自分の口に当て、「ここからは小声で話せ」と伝える。イリアは神妙な面持ちで頷いた。


「エタール教はかつて、魔法を禁止していたんだ。魔物の力を使うなんて汚らわしいことだ、ってな」

「考え方としては、スジが通ってるね」

「そうだな。だが魔法の実用性の高さに押されて、『魔物を倒すための力』として認められるようになった。百年以上かけてだけどな」


 魔法の使用が公的に認められるようになったのは、魔力の発見者であるブラインの死後百二十年が経ってからだとされている。彼が存命の内に魔法が認められていれば、現代の魔法研究は遥か先を進んでいたであろう、というのは魔法使い全員の共通認識だ。


「そういった経緯で現在は様々な魔法の使用が認められているわけだが、一方で認められなかった魔法もある」

「認められなかった魔法?」

「一番有名なのは魔物化ゼイションって魔法だな。魔物の細胞を取り込んで魔物のような身体になる技術だが、エタール教のどの宗派でも認められていない」

「魔物になる、って……。そんなことできるの?」

「そもそもの話、魔物の異常に発達した爪や牙だったり、人型の身体に獣や爬虫類のような特徴が現れている亜人のような身体は、生物的な進化というより魔法による変化みたいなもんらしい。実際、筋力を増強したり感覚を鋭くする魔法はあるから、魔物化ゼイションはそれのもっと高度なもんかな。今は公に研究が許されてない分野だから、詳しくは分からんが」


 ちなみに魔法の使い方次第で人間が魔物のようになれるということは、亜人系の魔物は元々人間だったのではないか、という説もあったそうだ。理屈としては考えられなくもないそうだが、人間が魔物になっているというならそこらじゅうで行方不明者が出ているはずだが、特にそのようなことはなかったため、その説は否定されている。魔物は魔王が生み出している、あるいは異世界から召喚している、という説が有力だ。魔王城の調査が進めばその辺りもいずれ明らかになるのかもしれない。


「そして、『許されている魔法』と『禁じられている魔法』の間にあるのが飼配テイムだ。魔物化ゼイションほどではないが魔物との距離が近すぎるってことで、許されてはいるが嫌われてるんだよ」

「ふぅん。なんか不遇だねぇ」


 イリアは顎に手を当てて考える。


「魔法使いになるとしても、魔物飼士モンスターテイマーはやめた方が良さそうだね」

「なんだ、魔法使いになりたいのか?」

「なるにしても、だよ。才能があったらありだと思うけどね。なんだっけ、身体に魔力を溜められるようにするやつをしないといけないんだよね」

魔力開通マギカだな。魔力開通マギカは十六歳にならないと出来ない決まりなんだが……。正確な年齢が分からないお前の場合はどうなるんだろうな」

「十六歳……? ああ、成人?」

「それもあるけど、身体が成長しきってからやらないと駄目なんだよ。出来れば十八歳くらいまで待った方が良い」

「成長……」


 イリアは自分の身体に視線を下ろす。


「『成長しきってるに決まってるでしょ。見なさいよこの豊満な大人の身体を』と言いたいんだけど、まだまだ成長するという可能性も捨てたくない乙女心」

「複雑だな」


 多分どっちを肯定しても何かしらの反感を買うので適当に流す。


「もし魔力開通マギカをするなら俺がやってやるよ」

「リド、出来るの?」

「出来るぞ。ちゃんと免許も持ってる。エーテル屋に頼むと料金を取られるが、俺に頼むならタダでやってやるよ」

「ほんと? あ、さっきの借りをそれで帳消しにしようってことでしょ」

「いや、それとは別でやってやるよ。技術さえあれば大した準備もいらないし」

「えぇー、なんか怪しいなぁ」


 イリアが眉をしかめた笑顔でこっちを覗き込む。笑顔の種類が豊富な奴だ。


「……もしかして、魔力開通マギカってすごく痛い?」

「よく分かったな」

「妙に優しいと思ったら……。ただ私を虐めて遊びたいだけじゃん」

「いけ好かない小娘が激痛に悶える姿は、金を払ってでも見たいくらいだ」

「もしかしてリドって特殊な変態なんじゃないの? 女の子を腰に巻いて引きずったり、耳元で説法を囁いてもらったり」

「少なくともお前を引きずってたのは俺が望んでやったことじゃ――」


 俺の言葉は、突如聞こえた悲鳴にかき消される。

 悲鳴は前方から聞こえた。突き当りの曲がり角から、野次馬らしき人影が覗いている。イリアが「ほらね」と言って声の出どころを指さした。俺の性癖に驚いた声なわけないだろうが。


 ちょうど進行方向だったので、俺たちも騒ぎの元へ向かった。イリアが俺の腕を引っ張って急かした。

 突き当たりを曲がると、数十人の住民が何かを囲むようにして集まっていた。人の壁が厚く、中の方はよく見えない。この国の連中はどいつもこいつも無駄に背が高い。

 俺は野次馬の一人に「何があったんですか?」と声をかける。前掛けを付けた男が俺たちを一瞥した。


「魔物が出たんだよ」


 男は興奮気味に答えた。


「魔物が? 街中に?」


 俺は思わず聞き返す。

 ナトリスト城下町は周辺を兵士が警戒しているため、街中に魔物が入り込んだことは、少なくとも俺がこの街に来てからは一度も無かった。現に野次馬の男は魔物を初めて見たような様子だった。

 そういえばプロートが、魔物業者が北の草原で魔物を逃したという話をしていた。見つからなかったと言っていたが、結局街に入り込んでいたようだ。今の魔物は以前ほど人間に対して好戦的ではないため、騒ぎにならずここまで入り込んだのだろう。

 野次馬の男は、「ああ、そうだ」と答えると、自分の前にいる別の野次馬に声をかけた。


「おい、前に通してやってくれ。子供が見たがっている」


 男に言われた通り、前にいた数人が左右に寄って隙間を開けてくれた。男は「危ないから近づきすぎるなよ」と言って俺とイリアを隙間に押し込んだ。『子供』というのはイリアのことであって、まさか俺まで含んでないだろうな?

 お節介な男に作ってもらった道を進み、最前列に出た。目に入ったのは、剣を携えた大柄な男と、その向かいで膝をつく狼人ライカンの姿だった。

 男が魔物に向かって剣を振る。魔物は身をひるがえして転がるが、躱し切れずに腕をひっかけた。剣士の男と魔物の一挙一動に観衆がどよめく。


「早くとどめを刺せよ!」


 野次馬から声が飛んだ。剣士の男は太い腕を掲げてそれに応えた。兵士には見えないので、恐らく冒険者くずれか何かだろう。

 剣士の足元には、魔物のものらしき血が飛び散っていた。魔物はかなり衰弱している様子で、威嚇の唸り声に力がなく、動きも緩慢だった。そうでもなければ野次馬が安心して集まってはこないだろうけれど。


 それにしてもこの剣士は剣の振り方が下手糞だ。躱してくれと言わんばかりの大振りで、衰弱した狼人ライカンに未だ致命傷を与えられていない。

 わざといたぶって遊んでいるのか、それとも俺がプロートやカルバのような一流の剣士を見慣れているからそう感じるだけなのか。昼間から暇のある男だ。俺が言えたことではないが、大した剣士ではないのかもしれない。戦闘経験のない人間から見れば鋭い剣撃に見えるのだろうか。


「なぁ、イリア。あの男――」


 隣のイリアに聞いてみようとした俺は、そこで初めて彼女の様子に気付いた。魔物に目を向けず俯いた顔は血の気が引いており、額に脂汗が滲んでいる。

 こいつは一年前に魔物の住処から救出されたばかりだ。こんな間近で魔物を見せようなど、あまりに配慮が足りていなかった。


「悪い、気が付かなかった。もう行こう」


 街の一市民としてはあのすっとろい剣士が魔物を仕留められるかは気になるが、そろそろ巡回兵が騒ぎを聞きつけて来る頃だ。今度こそ魔物が取り逃がされることもないだろう。

 俺はさっき通ったばかりの人の間を戻り始める。今度はお節介な男もいないので、自分で通り抜けなければならない。


 しかし、俺の身体は後ろ向きにつんのめった。誰かが俺の外套を引っ張ったようだ。振り返ると、イリアが俺の外套の裾を掴んでいた。視界の端で、男が魔物に向かって剣を振り上げていた。

 イリアが震えた声で言う。





「助けて。友達なの」





 群衆が悲鳴を上げる。狼人ライカンが飛び上がり、建物の屋根の上に逃げたのだ。


「まだそんな体力が残っていやがったか!」


 魔物と対峙していた男が、屋根の上を逃げる狼人ライカンを追って走り出した。野次馬たちは野次馬たちで、俊敏な動きを見せた魔物を目の当たりにして恐慌状態となり、散り散りに慌てて逃げていった。


「走るぞ」


 イリアの手を引き、逃げる野次馬に紛れて走り出す。俺は外套のフードを目深にかぶり、飼配テイムの発動により変色した自分の目を隠した。

 甘菓子程度で済むと思っていた借りだが、高くつきそうだった。

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