第二章 少女(後編)
「そういえばお前、今から出勤なのか?」
「そうだけど」
「もう昼前だけど、遅番か何かか?」
「いや、寝坊したんだけど」
なんだろう、なんでこんな奴に職があって俺には無いんだろう。若い女だからか? 見た目が可愛いからか?
そんな話をしているうちに目的の菓子屋に到着した。
煉瓦造りの小屋の前面はカウンターになっており、外側から店員に注文する形式だ。脇に扉がついているがあれは従業員用。大通りの菓子屋では硝子箱に商品を並べて展示しているが、こちらの菓子屋は木製の品書き札から商品を選ぶ形だ。品数も大通りの店に比べると少ないが、全体的に砂糖が多めで味が甘い。
らしい。
人から聞いた話だが。
「あれ、新しく入った人?」
イリアがカウンターに立つ女性店員に話しかける。それに対し、店員は何かに気付いたように、店の奥に声をかけた。
間もなくして、従業員用の扉が開いた。出てきたのは初老の男性だった。
「あ、店主。おはようございます」
イリアが声をかける。店主と呼ばれた男性は「おはよう」と挨拶を返すと、イリアと一度目を合わせ、その後少し目を伏せた。
「今日はイリアちゃんにお話があります」
「はい、なんですか?」
「今日から新しい店員さんを雇うことになりまして」
店主は手でカウンターの女性を示した。示された女性店員はこちらに微笑みかける。
店主は少し言い淀んで「イリアちゃんの代わりです」と発した。
「え?」
イリアから間抜けな声が漏れる。
「イリアちゃんには、もっと他に向いている仕事があるのではないかと思いまして」
「あの……」
「お菓子作りについては上達が早く嬉しい限りなのですが……その、こちらとしても、寝坊はともかくつまみ食いが過ぎるとどうしても困るわけでして……」
どうやら俺の心配は的中していたらしい。
「これは差し出がましい助言かもしれませんが、次は食べ物を扱わない仕事をした方が良いかと思います」
そう言って店主はイリアに小袋を手渡し、店の中に戻っていった。
イリアはしばらく呆けたようにして、手渡された小袋をじっと見つめていた。恐らく、昨日までの給金が入っているのだろう。
「いやぁ、お互い大変だな。それじゃ」
俺はイリアの肩を軽く叩き、きびすを返して歩き出した。甘菓子は大通りで買うことにしよう。
革靴で石貼りの道路を蹴り歩く。
なんだか下腹部あたりに重みを感じる気がするが気のせいだろう。道行く人々が俺の後ろを怪訝な顔で見ている気がするのも、背後で何かを引きずるような音がするような気がするのも多分気のせいだろう。
さすがに無理があるか。
「おい、離せ」
俺の身体に腕を回してしがみついているイリアに声をかけた。俺は体格が良い方ではないので、女とはいえ人間一人を引きずりながら歩くのはいささか厳しかった。
「むしろ何で去ろうとするの? 目の前で女の子が一人、路頭に迷おうとしてるんだよ?」
「帰ればいいだろう、街外れの集合宿に」
「家賃の当てがたった今無くなった」
「だからってすぐには追い出されねぇよ。頼めば一月くらい待ってくれるだろ」
「もう既に一月分滞納してる」
「……今月分の支払日はいつだ」
「今日」
「さっき貰ったお金は」
「数えたけど一月分にも足りない」
二月連続の未納が確定したらしい。恐らく今日で追い出されることだろう。
「だからって俺にしがみついたところで何にもならんぞ。無職が二人集まったって何も産まれん」
「リドは持ち家あるんでしょ? 泊めてよ」
「お前なぁ……」
俺は思わずイリアの方に振り返った。しかし当然ながら、背後にしがみついている彼女は俺の動きに合わせて更に背後に回っただけだった。いつまでしがみついてんだこいつ。
「記憶喪失で一般常識も忘れたらしいので教えてやるが、若い女は男の部屋に泊まったりしないもんだ」
「あんたにならいざとなっても腕力で勝てる」
「舐めてんのか」
「じゃあ、こうしよう。今しがみついてる私の腕を外せたら私を置いて帰ってもいい。出来なかったら次の宿が決まるまで私を泊める」
そう言うと、イリアは俺の身体に回した腕に力を入れた。圧迫感に思わず声が漏れる。
別にこんな勝負には乗る義理もないのだが、まぁ良いだろう。こいつも自分で提案した以上、俺が勝てば素直に引き下がるはずだ。いい加減に通行人から変な目で見られるのにも飽きてきたし、さっさと腕を外して帰るとしよう。
俺は腹に巻きついているイリアの腕を掴み、軽々とその腕を外せなかった。
「…………」
なるほど、意外に腕力のある女だ。こいつも宿を得るために必死なのだろう。その健気さには心を打たれるが、遊びはここまでだ。俺はもう一度腕を外しにかかった。
僅かに隙間が開いたが腕は外れなかった。
なるほど、外し方が悪かったんだ。このやり方は力が入りにくいのだろう。俺は彼女の腕と自分の身体の間に指を差し込み、こじ開けるような形でいややっぱ無理だこれ普通に掴んだほうが良いわ。
さっきまでの俺は、なんだかんだでこいつを女子供だと思って舐めている節があった。その油断が命取りなのだ。負ける前に気付くことが出来て良かった。そろそろお腹も苦しくなってきたし、終わりにするとしよう。
俺は全身全霊の力を込め、イリアの腕を引っ張った。
「……………………」
「…………」
「……イリアさん」
「なに?」
くぐもった声が返ってくる。
「お腹が苦しいので離してください」
身体に回されていた腕が外れた。腹部が開放されて呼吸が楽になる。
「わ、私の、勝ちだね」
背後で息を乱したイリアの声がした。振り向くと久しぶりに立った彼女の姿が目に入った。紅潮した顔に汗が滴っている。いったい俺たちは道の真ん中で何をやっているんだ。
数瞬、息を整えたあと、「それじゃ、今から荷物持っていくね」と去ろうとしたイリアを俺は呼び止める。
「待て」
「なにさ」
「今の勝負は俺に不利だった気がする。あれは体勢的にきつい」
「もう決まったでしょ。今更そんなこと言うなんて男らしくないよ」
「いや、確かにそうだが、やっぱりまずいだろう。ただの若い女ならともかく、子供ってのはまずい。倫理的に」
「いや、子供ではないと思うけど……記憶喪失だから正確な年齢は分かんないけど、周りの人が言うには十六、七歳くらいらしいし」
「十六、七歳は子供だろ!」
「この国では十六で成人だよ」
そうだった。その感覚は未だに慣れない。
「俺だって無職だし、いつまで住まわせられるか分からんぞ。国から貰った報奨金もたいして残ってない」
「別にいつまでも居ようなんて思ってないって。次の仕事が見つかったら出て行くよ」
「それにしたって、他にも行く当てはあるだろ。城の人間とは多少面識があるんだろ?」
「それは無理だね。お城には行けない」
すっ、とイリアが真剣な面持ちになる。俺も思わず気を引き締めた。
「あんた、私がお城を出て行くとき、姫様にどれだけ格好つけた台詞吐いて出てきたと思ってんの?」
「知るかそんなもん」
引き締め損だった。こいつに深い事情なんてあるわけがなかった。
「格好を気にしてる場合じゃないだろ。生きる為には恥をかかないといけないときもある」
「人のこと言えるの? あんただって、軍の入隊試験にズルした上で落ちて以来、城に行ってないくせに」
知ってやがった。
「……行く用事がないんだよ、お前と違って」
「ふぅん。じゃあ、行く用事をあげる」
イリアは汗で濡れた髪をかき上げる。
「お城の人に頼むにしても、さっき言った事情があるから、私は一人じゃ行きづらいの。だから、お城まで一緒について来てよ。勝負に負けたんだから、泊められないってんならそれくらいはしても良いと思わない?」
イリアの出した案を、俺はしばしの間吟味する。
仕方が無い。俺が乗ってしまった勝負に負けたのは事実だ。
俺も、あれが嫌だこれも嫌だと駄々をこねるほど子供ではない。ましてや十六で成人となるこの国では、二十歳といえばそこそこ良い歳の大人なのだ。嫌なことでも、何かしらを選択しながら生きていかないといけないのだ。
俺は一つ溜め息を吐き、「分かったよ」と返事をする。
「ただし、お前はソファで寝ろよ」
「え、そんなにお城行くの嫌なの?」
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