DOOR TWO 私達の扉



「ねえ、俺が死んだときの話聞きたい?」

 夜の公園で泣いている私にそう語りかけてきたのは、幽霊の男の子だった。小学一年生だった私は、こんなに悲しいときにそんな暗い話をされたくないと思ったので、

「聞きたくない」

 と素直に言った。

 すると男の子は、そっか、と少しだけ残念そうにしてから、「じゃあお前の話聞かせてよ」と言った。

 だから私は話した。お母さんに家から締め出されてしまったこと。冬だから寒くて、でもお母さんが怖いからお父さんが帰ってくるまで帰りたくなくて、というか本当は帰らなくていいなら帰りたくなくて、でもそれだとお父さんが悲しむから帰らなきゃいけないこと。どうすればいいのかわからなくて、悲しくて、泣いていること。

「そうか。めちゃくちゃ辛いな」

 と男の子は言い、それから傍にあったトイレの壁に手をかざした。すると突然、そこにドアが出てきた。男の子が生んだみたいに見えた。

「とりあえず、寒いならここに入ろう」

 促されるままに入ると、そこはトイレの個室とかではなくて、畳とコタツがある部屋だった。お祖母ちゃんの家に似ている。コタツに入ると、すごく暖かかった。

 夜の十時まで私はそこにいた。いつもそれくらいにはお父さんが帰宅しているからだ。泣き止んだ私はコタツから恐る恐る這い出て、男の子にありがとうとばいばいと、それから自己紹介をした。

「私は多摩奈愛魔って言うの。あなたは?」

「俺は吉田慎太郎」

「そっか。しんたろうくん。……また会える?」

「友達になったら、会えるよ」

「じゃあ、なる」

「また、嫌なことあったら、話、聞いてくれる?」

「うん」

 家のドアに手をかけると、鍵はかかっていなかった。お父さんが開けておいてくれたのだ。締め切ったリビングのドアの向こうから、お父さんとお母さんが怒鳴り合う声が聞こえていた。私は息を止めて、階段を駆け上がった。息を止めないと、見つかってしまう気がした。

 それからも私が家に帰れなくなったとき、公園で慎太郎は私を暖めてくれた。また、外じゃなくて押し入れのなかに閉じ込められてしまったとき、慎太郎はいつの間にかそこにいて、ドアを生み出して、暖かい場所に連れていってくれた。

 私が小学二年生になるときには、私は屋外に出されたり屋内の狭いところに閉じ込められたりされなくなった。お母さんが私とお父さんの近くからいなくなったからだった。

 離婚という言葉を私は知って、悲しいはずの出来事なのに、どうして私はほっとしているんだろうと思った。

「悲しい出来事は、どんな人にとっても悲しい訳じゃないんだよ」

 と慎太郎は言った。たぶん、慎太郎は私よりもずっと大人なんだと思った。

 お母さんがいなくなったら悲しいことが起こらなくなったかと言えばそうじゃない。お父さんの帰りが遅くて寂しかったり、アニメや漫画で怖い話があって眠れなかったり、お気に入りのペンが壊れてしまったり、授業についていけなかったり、友達が減ったりする。学習塾に通うことになって、毎日が大変になって疲れたりする。

 たぶん、慎太郎がいなかったらどこかで潰れていたんじゃないかな、と思う。友達はいたけれど、慎太郎ほど支えてくれたりしなかった。慎太郎以外の人達は優しい言葉をくれるばかりで優しくなんてしてくれなかった。お父さんだって、去年よりも働いているから、帰ったらすぐ眠ってしまうのだ。慎太郎のことは私にしか見えないから、お父さんは私の心の支えを知らないはずなのに。



 そうしてなんとか小学四年生になった年の日曜日、家に見知らぬ女の人がいてびっくりする。にこにことした、どこかの先生みたいな顔つきの女性。お父さんが言うには、私の新しいお母さんになるかもしれない人のようだ。

「晴夏さんだ。お父さんはこの人と結婚したいと思っているけど、愛魔の親としては実際に一緒に過ごしてみないとわからないだろう? 毎週の日曜日はこの人が来るから、三ヶ月くらいしたら愛魔がどう思ってるか聞かせてほしい」

「そういう訳だから」女性はお父さんと私に笑顔を向けた。「よろしくね、愛魔ちゃん。あたしのことは、晴夏さんでも、おばちゃんでも、お母さんでも、なんでもいいよ」

 私は何も言えなかった。ゆっくりとした言葉で説明されたら急な変化じゃないってことにはならない。沸き上がる気持ちがいっぱいあって、口が動かなくなってしまった。だからとりあえず頷いておいた。

 その日の夜、私はお父さんと『晴夏さん』の間で眠ることになる。全然眠れない。慎太郎に助けてもらおうと布団から這い出てみると、

「愛魔ちゃん?」と『晴夏さん』に勘づかれてしまう。「おトイレ?」

 慎太郎についての説明はまだ誰にもしたことがない。慎太郎から、俺みたいな幽霊の話は他の人にしないほうがいい、と言われているからだ。だからひとまず、うん、とだけ言ってトイレに行くフリをした。

 寝室から出て、トイレのドアの前で百秒数えてから、そっと寝室を覗いてみた。『晴夏さん』は布団のうえで正座をして、私のことを待っていた。目があって、微笑みかけられた。ああ、これは慎太郎のところにはいけないな、と私は思った。バレるといけないし、バレなかったとしても、私がいなくなって心配されちゃうかもしれない。

 お父さんと『晴夏さん』の間で寝たフリをした。

 翌日の夜、お父さんだけが帰ってきた。普段より早かった。私はお父さんに訊いた。

「ねえ、お父さん、『晴夏さん』のこと好き?」

「うん。好きだよ」

「一緒に遊んだりしたの?」

「一緒に遊んだり、仕事をしたりして、素敵な人だなって思ったよ」

 一緒に仕事をしたのなら、お父さんと同じ会社にいる人なのだろう。そっか、とだけ言って、私は寝室に行った。お父さんも寝室に来た。すぐに寝息を立てはじめた。

 私は慎太郎を呼んで、いつもの部屋に入れてもらった。冬じゃないからコタツはないけれど、テーブルのうえにミカンがあった。私はミカンが好きで、慎太郎はそれを覚えているのだ。

 ミカンを食べて、部屋のやわらかい布団に入って、泣いた。

 お父さんは同じ会社の好きな人と仕事をしたり、帰りに遊んだりしていたのだ。私が塾で夜まで勉強している間とか、塾がなくて家で独りでお留守番をしている間とかに。お父さんは私が独りで晩ごはんを食べながら寂しい気持ちになっていたこと、慎太郎がいなかったらもっと辛い気持ちだっただろうってことを知らないんだ。解ってなかったんだ。お父さんは私の悲しい気持ちや辛い気持ちを解らないんだ。

 布団を被って泣いていると、慎太郎も布団に入ってきて、抱き締めて、頭を撫でてくれた。

「慎太郎」私は言う。「お父さんは、私のことなんにも知らないの」

「そうだな。寂しいよな」

「うん。お父さんのことも、『晴夏さん』のことも、きらい」

「そうだな。いいよ、嫌いで。家族だからって、育ててもらっているからって、嫌っちゃいけないってことは、絶対にないから」

 それから慎太郎は言う。

「寒いなら抱き締める。寂しいなら遊ぶ。悲しいなら、悲しくなくなるまでお前の傍にいる。俺はそうする」

 慎太郎は私を解ってくれている。

 私は孤独じゃない。

 だから『晴夏さん』がお義母さんになっても、中学生になっても生き延びていられる。中学生になったら断捨離の末に自室を得ることができたので、生きててよかったなあと、大袈裟でなく思った。



 そして高校生になる。恋川高校。塾は辞めた。うぇいうぇい。

 高校で部活に入って、ゆるそうなバドミントン部だったはずなのだがちょうど顧問が変わったとかで厳しくなる。ついていけない。

 やめたいんですけど。

「これくらいのことで嫌になるなら、バドミントンなんて愛してなかったのねあなた」とか言われたので「いや、バドミントンは嫌いになってないです」と言うけど「だから好きも嫌いもなかったんでしょ。そもそも。愛してるなら厳しいくらいで音を上げないわよ」と返され、いやだからバドミントンが嫌になったんじゃなくて顧問のあなたが嫌になったんですけど……と言いたかった。でも言おうとしたら噛んじゃって、言い直そうとしてもこういうときって噛んだ時点で向こうも更に聞く気なくなっちゃうから言えずじまいになる。

 というかそもそも部活やめるのくらい自由じゃないの? 権利じゃないの? なんで部活やめるくらいで私の内心を査定されないといけないの? とムカムカしながら退部して、退部したことをお義母さんに連絡する。

「そうなの? もったいなくない? 次はどこに入るの?」

「別にないけど? そういう入りたい部活とか」

「えー。じゃあ卒業まで帰宅部やってんの?」

「さあ。入りたいとこ見つかるかもしんないし、入らないでバイトやるかも」

「あ、じゃあ明日バイトの雑誌コンビニでもらってくるね」

「いいよ別に。バイトするとは決まってないから」

 と言ったのに翌日の夕方には求人雑誌がテーブルのうえにあって、勝手におすすめのバイト先に付箋がつけられている。

 喧嘩になる。なんで喧嘩になるんだ? 私が「いやいやだからまだバイトするって決まってないってば」って言って、お義母さんはそこで自分が勝手にことを進めようとしていたことに気づいて雑誌を仕舞いこんでくれたらよかったのに、「善は急げだよ。ほらこことかいいんじゃないの」なんて言って腕を引っ張ってくるから振り払って、ちょっとしたビンタみたいになってしまって、それで。ああ、それで、だ。

「じゃあお義母さんが私の話を聞いてくれないのが駄目だったんじゃん。私が反抗期やってるだけみたいな空気で終わったの意味解んない」

「そうだよな。親ってコントロールしたい割にコントロールする相手のこと理解してないんだよなあ」

「それそれ。話を聞かない理解してくれない人に急かされたってイライラするだけじゃん」

「だよなー。おつかれ。ミカン食う?」

「食べる」

 ミカンをもらう。皮を剥いて食べる。甘い。

 慎太郎は全然成長しない。顔も身長も。幽霊だからそりゃあそうか。元から背の低い中学生くらいの感じだったので弟みたいな身長差だが、精神的にはまだまだ私が妹っぽいなあ。

「ていうかさ、親も、あのクソ顧問も全然話聞かないんだよね。私の話を聞いてくれる大人とかいないんじゃないの?」

「そうかもな」慎太郎は言う。「同世代は聞いてくれるのか?」

「え? うぅん……」

 たぶん、いまの親や顧問とのいざこざなら聞いてくれると思う。でも全ての話を聞いてくれる訳じゃない。高校生まで生きてきて一度も恋だとか欲情だとかをしたことがない、と中学の三年間を一緒に過ごした子に言ったことがあるけれど、「まあ愛魔はこれからなんでしょ。きっと解るとき来るよー」で終わった。

 私はもうそういう人間らしいのだと言う話をしたかったのに、そういう話として聞いてほしかったのに。

「解んない。伝わらないときは、伝わらないよ」

「寂しいよな。話を聞いてもらえないのって」

「……うん。だから、慎太郎がこうして聞いてくれるのが、本当に救いだよ。ありがとう」

 そんな素敵な慎太郎の話を誰かにしたい、という気持ちがあるけれど、慎太郎には止められている。ずっと。自分の知っている幽霊についてそれが見えないであろう他人に教えて、好奇心を徒に刺激してしまったら、最終的に危ない目に遭わせてしまうそうだ。

 慎太郎ならそんなことにはならないと思うのだけど、まあその忠告を無下にするのはよくない。慎太郎の話をちゃんと聞かないといけない。

 そして高校二年の夏、二年生になってから友達としてよく遊んでいる間仲博樹くんを家に呼ぶと、私の部屋に入った瞬間にひっくり返る。短い悲鳴をあげて。

「ど、どうしたの」

「いる」

「え」

「こ、この部屋……何かいる。幽霊、いるよ。ごめん、こんなこと言って。でも、幽霊がいる気配がする」



 慎太郎が押し入れから出てくると間仲くんはちゃんとその方向を見てびっくりしていて、ああ見えるんだ、と私は思った。霊感とでも言うのかな? 慎太郎は言う。

「ねえ、俺が死んだときの話聞きたい?」

「……あ、あ、いや、本当に」

「慎太郎」私は言う。「急にそんなこと言って、間仲くんビックリするでしょ」

「……そうか。解ったよ。で、こいつがお前の言ってた間仲くんか」

「うん」

「た、多摩奈さん」間仲くんが言う。「逃げないの。怖くないの」

「逃げないよ。怖くない。だって慎太郎は私にとりついて殺したりとか、しないもん」

「そ、そう? 僕のことも?」

「しないしない。……しないでね、慎太郎」

「ああ、解ってる。お前の話はちゃんと聞いてるから」

 間仲くんはそれでもぶるぶると怯えていて、単なる幽霊への恐怖というより何やらトラウマを刺激されたみたいな狼狽えかただ。少し吐きそうなくらいだ。私は一先ず慎太郎には引っ込んでもらって、家から出て近くの公園まで間仲くんを連れていく。男子トイレまで案内して、出てきた間仲くんとブランコで並んで座る。

「ごめんね、間仲くん。ビックリした?」

「……うん、まさか、多摩奈さんの家に幽霊がいるなんて」

「うん。吉田慎太郎って言うの。幽霊、嫌い?」

「うん」

 じゃあ嫌いになるだけの理由があったのだ。未知の存在に対して怖いと思うことはあっても嫌いと思うことはない。外見が醜い訳でもないなら、余計にあり得ない。

 間仲くんは幽霊について、少しだけ知っていて、それは悪印象なのだ。

「何か、あったの?」

「中学の頃、友達を三人亡くしたんだ。三人は夜の学校に、肝試しだったけな、そういうのをしに行ったんだけど、翌朝、校内で三人とも、裸で自分の首を手で絞めながら死んでいたんだ。ひとりの遺体には自分で自分の肌を骨が見えるまで掻いた痕があった。『幽霊ことば』にやられたんだ。『幽霊ことば』を聞くと発狂して自殺してしまうんだ。三人ともそれを確かめに行ったんだけれど、僕は実のところどうしても幽霊の実在を察していたから、怖じ気づいて行かなかったんだ。だから訃報を聞いて、やっぱりな、と思ったし、やっぱり、すごく悲しかったんだ。寂しかったんだ。友達が三人も一気にいなくなったんだから。亡くなったんだから。だからこそ僕は三人の死が怪談の証拠として囁かれるのが辛かった。ちゃんと悼んでほしかった。話題なんていう安いベーコンみたいなものにしてほしくなくて学校に行きたくなくなったこともある」

 いつものように落ち着いた口調なのに、私の返事を待とうともせず彼は喋っていた。会話をキャッチボールに例えることがあるけれど、それで言うなら、こちらが投げ返す隙がないくらいのペースで投げられているようなものだった。

 でも、私はちゃんと聞いた。理解した。そうしないといけないから。普段は相槌を打ったり短く話し掛けたりするくらいの間仲くんが、こんなにこちらを気にせず話すのなら、それは間仲くんがずっと話したかった感情なのだ。

 ずっと誰かに聞いてほしかった話なのだ。

 私が聞いてあげないと。

「とても辛いね。すべて。嫌いになるのもしょうがないね、幽霊を」

「なのに多摩奈さんは幽霊と親しそうにしているから、僕はたくさん動揺してしまったんだ」

「うん。ごめんね」

「多摩奈さん、は」間仲くんが言う。「幽霊、好き?」

「慎太郎のことは好き。でも、間仲くんの友達を死なせた幽霊は嫌い」

「その、慎太郎も、いつか君を殺すかもしれないよ。嫌ったほうが、いいよ」

「間仲くん、どうしてそんなこと言うの?」私は言う。「ねえ、そしたら人間みんな好きになれなくならない?」

「え。なんで」

「人間が人間を殺しちゃうこと、死なせちゃうこと、いっぱいあるじゃん。ニュースで毎日やってるよ。私だって間仲くんだって、いつかうっかり誰かの命を奪っちゃうかも。だからそこは、幽霊も人間も変わらないよ」

 間仲くんが嫌うのは勝手だけども。

 私がそう言うと、間仲くんは考え込むように黙る。咀嚼しながら、嚥下するか考えているのかもしれない。

 属性だけで嫌うのは自分なりの防衛手段としてはアリだと思う。筋が通らないことだろうと、ただの迷信だろうと、少なくともその属性のなかの危険因子から身を守ることはできる。生存確率の上昇をもたらす、という目標は達成できる。行ってしまえば、関わる他者を減らせば減らすだけ、他者と関わることによる傷や死の可能性が減るのは当然なのだから。

 でも、それを他人にも勧めて、そのほうが賢いかのように言ってしまうのは、いじめっぽくなる。嫌うならひとりで嫌えばいいのだし、他人と好き嫌いが一緒じゃないと安心できないというのは色々間違ってるよ?

 と思いつつ、間仲くんの沈黙が長いので少し不安になってくる。あれ?

「間仲くん、……怒った?」

「いや、ごめん。違くて」間仲くんが言う。「ちょっと考えごとしてたんだ。ごめん。……ねえ、多摩奈さん。慎太郎くんがどうして多摩奈さんの傍にいるのか、多摩奈さんは知ってるの?」

「友達だから、だけど」

「どんな流れで友達になった訳?」

「ああ、えっと。この、ここ、喜井黙公園で夜に泣いていたら、慎太郎に声をかけられて」

「なんて言われたの?」

「なんで気になるの?」

「いや。やっぱり、知らないと怖いんだ」

「……そっか」腑に落ちないが、まあいい。「『俺が死んだときの話聞きたい?』って言われた」

「そっか。……で、聞いた?」

「いいや? 聞きたくないって言った。そしたら慎太郎、こっちの話を聞いて、慰めてくれたんだよ」

「そう。解った。ありがとう」間仲くんは頭を下げた。「ごめんなさい。慎太郎くんは怖い幽霊じゃないの、理解したよ」

「謝らないでよ。怖がるも怖がらないも間仲くんの自由なんだから」

 それから間仲くんが「もう帰らないと」と言ったので、その日はそれでお開きになる。私も家に帰って、慎太郎に間仲くんの話をする。

 慎太郎は言う。「へえ。災難だったな、間仲くんもお前も」

「私も?」

「お前って話を聞いてもらう側であって聞く側ではないだろ? 俺はどっちもやれるけど、俺も昔は聞いてもらう側だったから解るよ。お疲れ様」

「……いつもありがとね、慎太郎」

「どういたしまして」



 間仲くんとはそれから一年くらい遊ばない。どちらが嫌いになったとかじゃなく、間仲くんと私はなんだか物理的に会わなくなる。朝もお昼休みも放課後も私は彼に話しかけられない。されないしできない。なんだか熱心に何かを読んだり別の人と話していたり教室から出ていたりさっさと下校したり。

 私は別の友達とだらだら過ごして、そのうちに高校三年生になるのでだらだらもしていられなくなる。受験勉強で忙しくなる。

 そんなタイミングで両親の仲が悪くなる。そこそこ思慮が足りないが大黒柱としてのプライドがあるお父さん、VS、強引なのに繊細で主導権を握りたいお義母さん。たぶん、だからふたりはいいカップルになって結婚したんだろうし、だから冷め合った現在は喧嘩ばかりになるのだろう。

 夜中まで怒鳴りあうときもあって、うるさいし空気も悪くて嫌なので、私は慎太郎の部屋にこもって勉強をすることが多くなる。慎太郎は勉強を教えてくれたりはしなかった(中学生の段階で学力が止まっているらしい。じゃあ享年はその辺り?)けれど、コーヒーやオレンジジュースを淹れてくれる。ありがたい。

 高校三年生の夏休み明けの放課後、昇降口で間仲くんに声をかけられる。喋りながら一緒に帰る。

「久しぶり、多摩奈さん」

「あ、うん。おひさ」

「受験勉強の調子はどう?」

「いやー。なかなかね。歌醒大学だから」

「へえ、すごいとこだね。頑張ってね」

「ありがと。間仲くんは進路どう?」

「ああ、僕は卒業したら叔父のいる寺院で修行する予定なんだ」

「……『すごいとこ』度では間仲くんのほうが圧倒的じゃん。頑張ってね」

「そうでもないよ。でも、ありがとう。そういえば、慎太郎くん元気?」

「うん。呼ぼうか?」

「……うぅん、いや、いいかな。多摩奈さんに訊きたいことがあるだけだから」

「何?」

 文脈からして慎太郎のことだろうと思ったらやっぱりそうで、間仲くんは言う。

「多摩奈さんが慎太郎くんに出会ったのって、何年前の何月?」

「え? 何年……私が小学一年生のときだから、十一年前かな? 十二月だと思う」

「そっか。ありがとう」

「どうして?」

「必要だから。推理に」

 推理?

 どういうことだか訊こうとしたところで、間仲くんは「じゃあ僕は郵便局に行かないとだから」と言って去ってしまう。間仲くんは探偵でもやってるのかな? だけどなんで私と慎太郎の出会いが関係あるんだ?

 という疑問を抱えたまま私は帰宅する。すぐにそれは吹き飛ぶ。吹き飛ばされる。お義母さんが出迎えるなり私の頬をビンタしたせいで雲散霧消する。ついでに英単語とか細胞の名前とか何個か忘れた気がする。耳がキーンとなる。

 はあ? 何?

「愛魔」お義母さんが私を睨む。「受験生の分際で、未成年の分際で、夜遊びなんてしていいと思ってるの」

「何それ。してないんだけど」私も負けじと睨む。

「じゃあ、昨日の夜の九時から十二時まで、どこにいたの?」

 私は固まる。いつも私は晩ごはんとお風呂を済ませたら自分の部屋に入ってドアに鍵をかけて、それから九時から十二時まで慎太郎の部屋に入れてもらって勉強をしている。そういえば、昨日、ちゃんと鍵をかけたっけ?

 慎太郎の存在を説明していないから慎太郎の部屋にいたとは言えない。存在を説明したところでお義母さんには見えないから解ってもらえないだろう。信じられたとしても、つまり受験生なのに男と夜中に密会していたのだと思われる可能性が高い。

 上手い言い訳が思いつかず黙る私に、お義母さんは溜め息をつく。

「やっぱりそうなの? ……じゃあもう勉強なんてしないでいいよ。馬鹿馬鹿しい。やる気ないなら勝手に遊んでればいいじゃない。そんな、落ちてもいいみたいな子のために受験料なんて払わないから」

「はあ? ちょっと待ってよ、なんでそうなるの。遊んでなんてない」

「じゃあなんで、どこにいたのか説明できないの? あたし達に見つからないようなところで勉強してたって言うの? わざわざ玄関に靴を残してまでこそこそ、どこに行ってたの? なんでこそこそ行ったの? 夜遊びしかないでしょ?」

「勝手な推測で不良扱いしないで! 私には私の事情や人生があるの!」

「へえ。愛魔ちゃんの事情や人生が夜にこそこそ家を抜け出させていたんだ。じゃあ受験勉強よりその事情や人生を優先したほうがいいんじゃないの。受験だけが人生じゃないのはあたしも知ってるし、受験料払わなくていいのは助かるもの、あはは」

 と笑うお義母さんにむかつき、

「ふざけんな!」と私は声を荒らげる。「家を抜け出してなんてない! 私はちゃんと勉強してたの! お父さんとてめえがギャーギャーうるさいから逃げてたんだよ!」

 もう一回ビンタされる。

 頬が熱い。

「なんなのその口の利きかた。バイトもしないで親の金と料理で過ごしてきた癖に調子に乗ってるの? 甘えんなよ。高校生なんて世間からしたらガキでしかねえんだよ」

「……あんたこそ血も繋がってない癖に親ぶってんじゃねえよブス」

 ビンタされるが避ける。「なに避けてんだよ!」と怒鳴る『晴夏さん』から逃げるように私は家を飛び出す。向こう岸の歩道まで走る。轢かれかけるが逃げ切る。

 喜井黙公園に辿り着く。疲れたのでベンチに腰掛ける。

 泣く。

 頬がまだ熱い。

 私はこれからどうすればいいんだろう。どうなっていくんだろう。本当に受験はできないのだろうか。私は大学生になれないで、したくもない就職かアルバイトをするしかないのだろうか。なんのためのこれまでの勉強だったんだろう。

 誰か。

 誰か、助けて。

「慎太郎、助けて」

「とりあえず、入れよ」

 と。

 慎太郎が公衆トイレの傍から声をかけてくれる――トイレの壁にドアを生み、開けてくれる。

 私は慎太郎に促されるまま畳に足を踏み入れて、ミカンを食べる。水を飲む。ゆっくり涙が出てくる。

「慎太郎」私は言う。「もう、全部、やだ」

「……辛かったな。見てたよ。お前、やってないことを認めるとか、嫌いだもんな」

「うん。きらい。自分の話を聞いてくれない人の思い通りになっても、幸せになれない気がして」

「そうだな。それは、その通りだよ」

「でも、私、これじゃあ、結局、幸せに、なれない」

「大丈夫だ」慎太郎は言う。「今夜はここにいればいい。明日のことは明日、ゆっくり考えよう」

「ずっとここにいたいよ、慎太郎」

 ずっと、この、私達だけの部屋にいたい。私達だけの扉の向こうの、魔法みたいに暖かい部屋に。

「シャワーや着替えはないけど、それでいいのか?」

「うん。肌、弱くないし」

「そうか。……気が済むまでいたらいいよ」

「ありがとう」私はやっと笑える。「慎太郎、だいすき」

「どういたしまして。嬉しいよ」

 そして私は慎太郎に、色んな話をした。色んな気持ちの話をした。言葉に出したかった、誰かの耳に届いてほしかった色んなことの話をした。嫌だった昔の話もした。欲しかった未来の話もした。胸が空っぽになるまで、喉がからからになるまで。

 たぶん何時間か経って、話したいことがなくなった。どの話もずっと聞いてくれて、相槌を打ったり欲しい感想や慰めをくれた慎太郎の存在がとてもありがたく感じた。

「ねえ、慎太郎の話をして」私は言った。「慎太郎に話したいことがあったら、私、聞きたい」

「それじゃあ、俺が死んだときの話、聞きたい?」

「うん。聞きたい」



「中学二年生の頃、友達はいなかったけどいじめてくるやつはいて、いつもこの公園で背中を焼かれたり股間を蹴られたりしていた。親は全然俺のことを気にしなかったから好き放題やられてた。

 まあ、中学生にいじめられているうちはまだよかった。でもその中学生の兄や兄の友達といった具合に高校生も混ざってきてからは悲惨だった。高校生グループのなかでいじめられてるゲイと無理矢理やらされたり知らねえ高校生に悪い噂流されて殴られたり、もう遊びとかじゃないっていうか、普通のいじめに飽きてるからイカした発想勝負になってて。

 いつの間にか、通ってる中学の先生にまで俺は恨まれるようになってた。相談できる大人も子供もいなかった。

 ある日、ついに大学生まで混ざってきた。警察署長の息子とか言ってて金めっちゃ持ってて、金があるってことはどんな道具も持ってこれるってことだ。そいつが持ってきたのは麻酔とドラム缶とセメントだった。

 この公園で麻酔を注射されて気絶させられた。もうそのまま海に投げ込めばいいのに、起きるまで待たれて。ドラム缶とセメントなんて陳腐な組み合わせに混ぜられて晒し首みたいな格好にさせられてて、三十人くらいいたかな、そんな大人数で優勝とか最高傑作とか騒いでて。

 そんなパーティーみたいな空気のなかで、クラッカーを両耳の傍で鳴らされたあと、       海に     。

 そうやって俺は死んだ」

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