第8話 青春の歌声は恋する心を追い求めた

 平成から令和へと、時代を跨いだ10連休の最終日といった特別感が世間には漂っているが、ひとたび校舎に入って狭い室内で部活動の練習に参加してしまえば普段の土日と同じようなもので、いつもと何一つ変わらない日常がそこには広がっていた。


 8時半を少し過ぎたくらいで顧問が出欠を確認した。そうして体操服に着替えてから軽い筋トレとジョギングをして、再び校舎5階の音楽室まで戻ると全体での発声練習やらパートごとの個別練習をこなした。やはりいつもと何一つ変わらない、ただ退屈で溜め息が出そうになるのを堪えながら真面目に練習に参加をしている素振りを続けているだけの時間が続いた。


 中学生の頃から同じ部活動を続けてもう6年目になるが、一向に上達をしている気配も無ければ何らかの達成感がある訳でもない。いったい何のために続けているのかすら分からなかった。そんな状態で活動をしていたところで、何一つ面白味がない。


 それに、僕はこの部活動の雰囲気があまり好きでは無かった。昔から言われている事だろうが、吹奏楽部にしろ合唱部にしろ音楽系の部活動は「体育系文化部」なので、文化系の陰湿さと体育系の脳筋スパルタ式というどちら側の地獄も味わえる部活になっている場合が少なくないように思う。そんなじめじめした空気からは一刻も早く逃れたいと常に思って止まなかった。しかし、他にやりたい部活動なんて何一つとして無かったので今日まで続けてきてしまった。


 僕は特に音楽が好きな訳でもないし、どちらかといえば人前で歌うことは苦手な部類だ。極度の音痴なのでカラオケなどにも行きたくないし、部活でなければ歌なんて歌いたくないとも思っている。


ーーだけれども、僕は中学校でも高校でも合唱部に加入することになったーー


 僕の卒業した中学も、現在通っている美波高校も、校則で全生徒は何かしらの部活動に加入をする事が求められていた。そうは言われても僕はどの部活動にも魅了を感じなかった。そして、自分の追い求めている青春の理想像に最も近いものを探した。それが合唱部だったのだ。


  白い花が咲いてた 


  故郷の遠い夢の日


 小学生の頃に、ジブリ映画の「コクリコ坂から」を観たことがある。そこでは、集会で激しく討論をしている高校生たちが突然肩を組んで合唱をする場面があった。そのシーンを観たときに抱いた遠い憧れのような、その全てがもう永遠に手に入らないような気がした感覚の正体が一体何だったのか、僕はなんとなく分かった気がした。


「私たちの未来は輝かしい」などと言う欺瞞が全て暴かれてしまう前の、あの希望に満ち溢れた時代の何もかもが羨ましくてならない。 


 近現代の日本においては、現在の社会以上に歌の持つ力、そして一緒に歌うという行為の意味が大きかったのだと思う。とりわけ合唱曲は精神を鼓舞させるものが少なくないし、昭和の頃までは存在した民衆の団結意識や大衆運動に特有の高揚感がそこにはあるようで、心の底から力が漲ってくる。歌を通じて連帯を求め深い絆を追求していた時代があったのだ。    


「大勢で一緒に歌う」という行動にはある種の憧憬の念があった。高度経済成長が終焉を迎える前の日本に存在した学生や若い労働者たちが連帯し一体感を求めるような姿の面影が、その「一緒に歌う」という行動の中に見いだせると僕は思った。そして、もう遠い昔に我々日本人が喪ってしまった横の繋がりだとか民衆の一体感だとかに想いを馳せていた。


 大勢で集い、歌声を“作る”という事はある種のイデオロギーを含んだ行動で、目的を共有した大衆の連帯感や活動への高揚感を生み出すものだったのだが、このような歌声による動員が今でも維持されているのは学校行事のような緊密な共同体くらいだ。そして、これも解体されるのが近いような気はする。



 僕は、そんな喪われた時代の残り香が僅かに漂う場所を求め、合唱部に入った。ただ、それだけだった。


 だけれども、部活動としての合唱部でそれを味わうことは殆どできなかった。きっと、僕が求めていたのは文化祭での後夜祭や卒業生を送る会での全校合唱みたいな、そんな特別行事の時に湧き起こる瞬間的な熱に浮かれた感覚みたいなものだったりしたのかもしれない。そして、その感覚を永遠に味わいたかっただけなのだろう。部活動としての合唱部で求められるのはコンクールや大会などでの競い合いで勝つこと(成績を残すこと)であって、僕の追い求めていたものとは性質が全く違ったのだ。


 それに、こんな事を誰かに話したところで一切理解されないだろうから、同じ合唱部の人たちと「なんで合唱部に入ったの?」みたいな会話になっても適当に濁していた。それは部活動で居心地の悪さを感じる理由の一つでもあった。みんなは歌うことが好きで真剣に練習をしているというのに、僕一人だけ「喪われた時代への郷愁を求めて」みたいな端から見れば理解不能な理由で合唱部に属しているのにはそこはかとない疎外感を覚えていた。


 他の生徒とは違って音楽には特に興味は無かったし、高校生になってからはやる気は殆ど起きず惰性で続けていた。そんな自分がとても嫌だったけれども、それも残り数ヶ月で終わってしまうのかと思うと嬉しくもあり寂しくもあった。


 “真面目に練習をしている演技”を行いながら物思いに耽っていると、気が付けばその日の練習は終わっていた。


 腕時計に目を落とすと、時刻は12時20分であった。いつものように練習が長引くと予想をして高坂美咲との待ち合わせには随分と余裕を持たせてしまったのだが、ここから東京駅までの移動時間を差し引いても2時間は暇になってしまった。


 さて…どうやって時間を潰そうか、と考えながら汗拭きシートで身体を拭っているところを、「おい、直っち」と後ろから肩を叩かれた。振り向くと北山貴浩だった。


「部活も早く終わったしさ、どう?今から時間ある?」と彼は聞いてきた。


「まあ、夕方から予定があるけど。2時間くらいなら空いているよ」


「予定……、バイトか?いや、予備校か?」


「まあ、そんなところだ」と僕は濁した。


「だったら、“やすじ”に行かないか?」と彼は言った。


 やすじ、というのは北山貴浩の家の近くにある個人経営のラーメン屋で、知る人ぞ知る有名店であった。ラーメン情報誌にも何度か掲載をされた事のある店舗で、休日のお昼時ともなれば長蛇の列を成していた。


 ただ、人気店とは言えども人によっては好き嫌いがハッキリと分かれる店であった。チェーン店やファミリーレストランなどにおける画一化された質の高い接客サーヴィスを低価格で受けることに馴れきってしまった現代人にとっては無理のない話であったが、この店の中年店主の接客態度に関しては毛嫌いをする者は少なくなかった。


 店主の態度はとてつもなく高慢だった。いや、高慢というよりかは常に気が抜けたようで、接客する事に対しては無気力で覇気がなく両手をだらんと下ろしているのが癖だった。客が店に入ると口で言うかわりに顎をしゃくって“そこの空席に座れ”と指図した。そして、店主の態度にクレームを付けるようだったら激昂し「お前なんて客じゃねぇ。二度と来るな」と追い返した。少なくとも客商売を営む者の態度ではない。


 店のメニューは塩、味噌、醤油の三種類で、あとは替え玉がメニュー表に載っているだけだった。しかし、このメニュー表が役に立った場面を僕は見たことが一度も無かった。たとえば客が「味噌ラーメン一つ」と注文すると、店主は「今日は俺の気分は豚骨だから、お客さん豚骨にしなよ」と言うのだ。そもそも豚骨ラーメンはメニューに載っていなかった。そして、それに従わなければ激昂した店主から店を追い出されるのだった。本気で意味が分からない店だと僕は来る度に思わされた。


 だけれども、味は確かだった。さすが知る人ぞ知る名店だけはあった。それに店主の気分のいい時は気さくに世間話などをしてくれるし、機嫌がいいときの店主のトークスキルも確かなものだった。それを目当てに足繁く通う客もいたくらいだ。


「“やすじ”か……」と僕は呟いた。


 今から“やすじ”に行くと、たぶん休日のお昼時ともあって30分は余裕で並ぶだろう。それから20分くらいで平らげれば14時少し前になる。15時の待ち合わせに間に合うためには14時15分の電車に乗る必要があるが、それにはたぶん乗れるだろう。


「そうだなあ。確かに、たまにはあそこのラーメンを食べてみたいかもしれない」と僕は言った。


「そうこなくっちゃ」と北山貴浩は笑顔で言った。そして「それに、お前とは進路の話とかもしたいって思っていたしさ」と言った。


「ところで……」と僕は恐る恐る聞いた。「加古川さんは来るのかな

?」


「ああ、佳子はなんか家の用事があるみたいだから、今日はすぐ帰るって言っていたよ。たしか墓参りだとかなんとか」


 一通り音楽室内を見渡しても、確かに加古川佳子の姿は見当たらなかった。練習が終わるとほぼ同時に帰って行ったのだろう。


 はあ、と胸を撫で下ろした。彼のいる手前、僕に向かっていつも通りのお説教をしてくる事は無いだろうとは思うし、別に加古川佳子がいるのが嫌という訳では無かったが、何故だか今日は北山貴浩と二人で飯を食べたいという気分だった。


 彼の自転車の後ろに跨がると、20分ほど揺られて“やすじ”に着いた。予想通り30分は待たされて、店内に入ると店主に指図されたカウンター席に並んで座った。店内には昭和のフォークソングが流れていて、今日は店主の機嫌が良いのかノリノリで口ずさんでいた。珍しい事もあるものだ。


「僕は醤油ラーメンが食べたいな」


「直っちは醤油がいいのか。俺はここに来たらやっぱり味噌だな」


「でも、頼んだものがきちんと出てくる保証はどこにも無いのは念頭に置いておく必要はあるか」


「確かにそうだな」と彼は笑った。


 僕らは店主を呼んでそれぞれの注文をしようとした。しかし我々客の希望通りに行かないのがこの店だった。


「今日は暑いよねぇ。君たちは高校生?今日は祝日だけど、部活とかに行ってきたの?こんな暑い日にラーメンなんか食べない方がいいよ。なあ、つけ麺にしなよ、つけ麺。冷たいスープで食うと美味いぞ」と店主は言った。


 僕たちは肯くだけだった。もはや二人で顔を見合わせて苦笑いするしかなかった。


「なあ、この店のメニューにつけ麺なんて無かったよな?」


「う、うん。僕の知る限りでは無かったと思うけど、もしかするとあったのかもしれない」


「この店に来ると本当に訳が分からなくなるな。まぁ、何を食っても味は美味いからいいんだけどさ」と言って北山貴浩は苦笑を浮かべた。


 暫くして、つけ麺が僕たちの前に運ばれてきた。それは魚介類の出汁を使ったスープであっさりとしていたが、風味はしっかりとしていて、さすがは名店だと唸らされた。


 つけ麺を食べながら、僕らは大学受験に向けての事や部活動の事、それから通っている予備校の事などを話した。


「3年生になったけど、なんか受験生って感じがしないんだよな。まあ、まだセンターまでは何ヶ月もあるから余裕っちゃ余裕なのかもしんないけど」


「うーん。そうかな。僕は来年以降のことが不安だからしっかり受験対策を今のうちにやっておかないとって思っているんだけれども。それに、浪人したら“これまでとは違う試験”を受けなくちゃいけないし、それがとても怖くて仕方がないから浪人だけは避けたいな」


「そんなこと言ったって、不安に思ってビクビクしていてなんになるよ?」


「それは……、そうだけど」と僕は自信なさげに答えた。


「そうだよ。まだ部活だって引退していないし、受験に関しては9月からしっかり考えればいいんだ。それまでは高校生活最後の夏を思う存分楽しんでおいたほうがいいんだよ」


 彼は僕と違って楽観的に物事を考える方だった。僕は少しでも胸の内に引っ掛かる事があるともやもやして頭から離れず、その事についてずっと思い悩んでしまいネガティブな想像ばかりを膨らませてしまう。だから、彼のそこ底抜けの明るさのようなものが羨ましくてならなかった。


「でもそうやって楽観視していると、あとで後悔すると僕は思う」と僕は言った。


「そうだな、そうやって余裕ぶっこいていたらギリギリになって後悔しちゃうか」と彼は笑った。


「僕は、自分がいったいこの先どうすればいいのか分からなくなる事があるよ」


「でも、物事は成るようにしか成らないんだ。お前みたいに悩んで塞ぎ込んでいるのも俺は良くないと思う。もう少しポジティブになったらどうだ?」と彼は言った。


 確かにそれはそうだと僕は思った。それに、北山貴浩は僕よりも遥かに成績が良かった。ただ不安を抱いているだけでは何の意味もないのだと気付かされた。


 どうすれば彼や加古川佳子のように、前向きでポジティブに物事を捉えることができるようになるのだろうか、と僕は思った。でも、考え込んだところでそれもまた何の意味もない事だと思わされた。


 そう、本質的に明るい人間は暗くなる事があっても根は明るいままだし、本質的に暗い人間はいくら明るく装ってみたところでどこかに陰が見えてしまうものだ。


 想定外の出来事に対しての咄嗟の判断や柔軟な対応が難しくてパニックになりがちだった僕は、何か行動を起こす際に“想定外のこと”がなるべく起こらないようにと先々に起こり得るだろう様々な事象への予測をするのだが、それが故にネガティブなイメージばかりが浮かび上がって意欲を喪失したり後ろ向きになってしまうという面があったのは確かだった。


 だけれども、悲観的だったおかげで回避できた不幸もたくさんあった。あらゆる不幸の可能性に思いを巡らせてこの世を地獄みたいなものだと思い込んでいる方が、僕にはよほど生きやすかった。


 僕はスープに絡めた麺を啜った。そして煮卵をじっくりと味わった。普段ここで食べるラーメンに入っているそれとはまた異なる食感だった。つけ麺専用の特製煮卵かもしれない。


「そういえば……」と北山貴浩はまた別な方向へ話題を振った。「直っちは、どこの大学に行きたいとか考えているの?」


 その質問に僕はどう答えようか暫し迷った。どの学部で何を学びたいだとか、現時点では進学先について明確な目標がある訳ではなかったからだ。だけれども、自分の中で一つだけ軸にしていることがあった。


「関西の大学に行きたい」と僕は言った。


「関西?どうして関西なんだ?大学ならこのあたりにたくさんあるだろう」


「なんとなく、ただ遠くへ行きたいなって」


「なんだそれ、俺にはよく分からないなあ」と彼は不思議そうな顔をした。


 確かにそれはそうだ、と僕は思った。ここからなら東京都心へは30分程度で行けるし、東京都内には大学なんて腐るほどあった。同じ高校の同級生の多くは今住んでいる千葉市から離れる事なく通える都心の大学へ進学を希望している者ばかりだ。そんな中で一人、関西へ行きたいなんて言っても理解をされる事はないだろう。それに、僕はとりわけ関西で通いたい大学がある訳でもなかった。


 でも、僕の身体と心は遠い土地での新たな生活を渇望していた。親元から離れて一人っきりの生活をしてみたいと思った。僕は神奈川県で生まれて途中からは千葉県で育ったので、関東以外での生活を経験した事は一切無かった。だから、生まれ育った関東とは全く異なる文化圏に身を置いてみたいと思って止まなかった。このままずーっと関東に居続けたところで、代わり映えもしない退屈な日々が同じ映画を繰り返し見ているみたいに延々と続くだけだったし、それなら何年間か別な土地で暮らしてリフレッシュしたいと思ったのもあった。


「でも、直っちがそうしたいって言うなら俺は応援するよ。まあ、応援するだけでそれ以外は何もできないけどね」


 そう言って彼はまた笑った。


 つけ麺を食べ終わった僕たちは店を出た。時計の針は14時を指していた。ここから駅までは歩くとそれなりの距離があって予定の電車に乗れるかは微妙だったが、「駅まで送ってやるよ」と北山貴浩が声をかけてくれたので自転車の後ろに跨がった。捲り上げたシャツの袖から覗かせる腕を、初夏の微風が柔らかに撫でた。


「家と反対方向なのに、なんだか悪いね」と僕は言った。


「いや、誘ったのは俺なんだし、それにたまにはじっくり話したいって思っていたんだよ。お前、学校じゃいつも無口だしな」


 僕は北山貴浩の自転車の後ろに跨がりながら空を見上げた。肌に当たる風は澄み切っていてとても滑らかだった。抜けるように青い初夏の空を電線が幾つかに区切っていた。気温はもう30℃近いというのに、空の青さはガラス細工のように冷たく繊細だった。細切れに雲が流れていった。大通りと交差する信号待ちで自転車は止まった。


「なあ、直っちは誰か好きな人とかいないのか?彼女とか、作ろうって思った事はないのか?」


 いきなり飛び出してきた唐突な話題に僕は思わず衝撃を受けた。学校では誰とも恋愛の話なんてしたことが無かったから、その問いに対しては返答に窮した。それに、どうしていきなりそんな話題を出してくるのか僕にはさっぱり分からなかった。


「俺、本当はお前のことが好きだったんだよ。佳子と付き合っているのはノンケだと思わせるためのカモフラージュで、本当はゲイだったんだ。俺は出会った時からお前に惹かれていたんだ」なんて北山貴浩から愛の告白でも受けることになるのだろうか……との想像にまで至ったが、しかしそんな事はないだろうと自分を落ち着かせた。受験勉強の気晴らしに見ている『真夏の夜』シリーズに影響を受けすぎだな、と自嘲した。そうして当たり障りもない答えを探した。


「いや、僕が女性と付き合うなんて、そんなのは到底無理な話だと思っているよ。だいいち僕は北山も知っての通りスクールカーストの最底辺だ。そんな僕が女性とお付き合いだなんて……ねえ」


「でも、別に女が嫌いとか、そういう訳ではないんだろ?」


「まあ、それはそうだけれども」と僕は言った。


「俺は思うんだよ。お前にはお前の魅力ってものがあるんだ、って」


 振り向いた北山貴浩はいつになく真剣な表情をしていた。僕はよく分からずに、ただ彼の話を聞いていた。ひょっとしたら加古川佳子と何かあったのだろうか、と邪推をした。でも彼らに限ってそれは無いだろうとも思った。


「なんだかんだ言って、お前は面白い奴だって俺は思うんだよ。学校じゃいつも一人でいて誰ともコミュニケーションを取ろうとしないのが、俺はいつも見ていてもったいないと感じるんだ。もう少し周りと接しようって思わないのか?」


 加古川佳子みたいな事を言うんだな、と僕は思った。彼女はいつも「もう少し周りと協調性を持って、それから積極的にコミュニケーションしてください」と言っていた。だけれども、北山貴浩から似たような事を言われるとは思ってもいなかった。


「そうすれば、お前はそれなりに面白くって良い奴だって事に周りも気付くはずだ。高校生活最後のクラスなんだし、周りと打ち解けて、それから女子とも仲良くなんなよ。楽しまなくちゃ勿体ないって」



 国道と交差する信号が僕らのいる道路に向けて青を現示した。自転車が動き出して、午後の日に照らされた電柱の列が忙しく流れていった。


「それに、もう俺らは3年生で、夏休みも文化祭も残り一回だけだろ。最後の夏休みくらい青春っぽいことをして思い出を作ってみようぜ」


「僕みたいなスクールカーストの底辺には無理な話だよ」とだけ僕は言った。


「スクールカースト?そんなもん気にしてんのか。確かにお前はどっちかと言えば無口で地味な方かもしれないけど、それでも周りと打ち解ける事はできなくないだろうし、彼女を作ることができないって事も無いと思うが」


 確かに彼の言う事は正しかった。正しかったと言うよりかは“間違ってはいない”と思った。だけれども、それはスクールカースト上位に位置する彼だから言えることであって、自分のように階級闘争史観的に見れば最底辺に属するコミュ障キモ・オタクにとっては夢のまた夢の話だと思ってならなかった。日々、ひっそりと息を潜めて存在がないように振る舞うことが正しいのだと中学生活では嫌なほど学んだし、高校で同じ失敗はしたくなかった。


「僕みたいな陰キャが背伸びして失敗すると取り返しが付かなくなるし、あまり下手な冒険は打ちたくないよ」


「もし失敗したとしても、あっという間に卒業するんだからそこまで気にする必要は無いと俺は思うな」


 彼の底抜けの暢気さが羨ましくてならなかった。そしてここまで妬ましく思った事も無かったように思う。でも、そんな彼の姿を見ているうちに、なんだか下らないな……と思わされた。それに、中近世のように明確な身分制度が存在する訳でもないのに何に対してそこまで怯えているのか、と自分でもバカバカしく思った。前の方には電車の高架線路が見えてきて、駅にはもうすぐ着くと分かった。腕時計の針は14時10分を指していて、これなら14時15分の東京行き快速電車には余裕で間に合うな、と思った。


 駅前のロータリーに着いて自転車の荷台から降りると、北山貴浩に礼を言ってから改札口へ向かった。後ろから「頑張ってこいよ」と言われて振り返った。彼は手を振っていた。


 いったい何を頑張れば良いのだろうか、と僕は思った。でも、もしかして……彼はこれから僕がどこへ行ってどんな相手と会うのかという事を察していたのではないか、と思わされた。もちろん高坂美咲の事は同じ学校の誰にも話したことは無かったが、ひょっとしたら今日の僕はこれから会う相手の事を考えているうちに浮き足立っていて、いつもとは異なる雰囲気を醸し出していたのかもしれない。それを北山貴浩には察されていて、まるで僕を励ますかのような言葉を投げかけたのかもしれないな、と思った。


 高架線のホームへと上がると電車接近のアナウンスが流れた。最も空いている先頭車両に乗り込むと、進行方向右側の空いている座席に腰をかけた。ふと向かいの窓の外に目をやると、青空の上には手を伸ばせば届きそうなくらい低い雲が漂っていた。それは、届きそうだと思って手を伸ばしてみても決して届かないものの象徴であるように思えた。海浜幕張を出たところまでは意識が確かだっが、満腹になった状態で心地よい快速電車の揺れを感じていると眠気が襲ってきて、気が付けばまた夢の中にいるようだった。

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