第9話 悪夢に魘された後には必ず幸福があった

 西暦2023年の4月の某日だった。喪服のように真っ黒なリクルートスーツに身を包んだ僕は、とある企業ビルの会議室の一角で就職活動の面接を受けていた。テーブルを挟んだ向かい側の席には面接官と呼ばれる種の人たちが何人か座っていて、僕のことをただ何となく眺めている人もいれば、足先から頭のてっぺんまでをじっくりと凝視している人もいた。冷たく刺すような視線だったり、舐め回すかのようなジロジロとした視線だったりして、心地いいとは到底言えない時間が流れていた。


 ああ、今の僕は資本によって買われようとしている商品なんだな……と実感させられた。少なくとも今ここで僕は人間としてではなく売り物として見られているのは確かだった。生命としての充実感は疎外されていた。他人の様々な欲望が自分に向けられていることの気持ち悪さは、どうやっても言い表しようがない。


 バーコードのような頭皮に赤ら顔をしてでっぷりと肥えた面接官が意味深な顔をしながら、「さあ、最終試験ですよ」と僕に向けて言った。これから何が始まるのだろうかと僕は暫し身構えていた。部屋の奥から黒服の男が一人現れて、僕に一つの拳銃を手渡した。弾は6発装填されていますよ、と彼は言った。


 どういう訳か、目の前には手足を縛られた6歳か7歳くらいの男児が泣きながら引きずられてきた。その時、何の根拠も無いけれども、これは紛れもなく幼少期の僕だ、と咄嗟に理解した。僕の顔はあっという間に青ざめていった。


 面接官は穏やかに笑い、それでいて威圧するような凄みのある口調で淡々と言った。


「社会人になる為には必要な事なんですよ。わかりますよね。社会人になる為には“大人になる”ということが必要なんです。いいですか、社会人になるために自己変革を行い、今までの子供だった自分を殺して生まれ変わりなさいという事なんです」


 隣に立っている別な面接官が続けて言った。


「今ここにいるのは“子供の頃のあなた”です。あなたは子供の頃の自分を殺すことで初めて大人に、そう、社会人になる事ができるのですよ」


 いったい何を言っているのだろうか、と僕は理解が追い付かなかった。でも、理解ができないからといってそれを“拒否する事はできない”と直感した。でも、引き金を引くことは躊躇した。どうしてこんな事をしなければならないのか、との思いでいっぱいだった。これが大人になるという事なのか、そのためになら殺しも正当化されるものだろうか。目の前にいる小さな男の子がいくら自分自身であったとしても、殺したり、殺されたりする事はどうやっても辛いことには変わりないのだ。そして、自分の肉体を以て自分の魂を殺すことだとすれば尚更のことではないだろうか。


「あなたはまだ真理へと到達できていないようですね」と面接官が見下したように笑った。「これは殺しではなく救済なんですよ。私たちは、あなたが就職活動によって大人に、社会人になるための手助けをしてあげているのです。そのためには、あなた自身の手によって『子供の頃の自分を殺して』から大人になる必要があるのです」


 もう、仕方がないんだ、と自分を納得させるしか無かった。今これを行わなければ僕は永遠に大人になることができない。そうでなければ肉体だけが老けていくのにも関わらず精神は竜宮城の中にいるかのように時が止まったまま、未来永劫無間地獄を彷徨う人生を過ごすことになる。魂は浮かばれない。死を恐れてはいけないのだ。退く者は無間地獄に落ち、進む者は往生極楽へ行ける。


「助けて、ねえ、殺さないでよ。君は僕なんだよ?どうして僕は僕を殺すことができるの?それが本当に『社会人になる』とか『大人になる』ってことなの?」と、目の前の男児は必死に僕に向かって訴えかけている。僕のことを諭すような事を言ってはいたが、その声は震えていて、涙で顔一面がぐちゃぐちゃに濡れていた。赤く泣き腫らした目を見て、どうしても引き金を弾けなかった。


「おい、何やっているんだ。早く引き金を引け」と面接官は怒鳴った。


 ああ、ごめんなさい、大人になる為なのです、社会人になる為なのです、どうか死後は素晴らしい異世界へと転生をしてください。そう言いながら僕は激しく嗚咽した。そして一発、二発、三発と引き金を引いた。鈍い銃声を耳で感じ、燃えたばかりの火薬の匂いが鼻先をついた。





 ぎゃぁぁぁぁぁぁあああああぁぁぁぁぁ、と耳を裂くほどの凄まじい叫び声を上げて、僕はその悪夢から目を醒ました。銃剣で突き刺される苦痛を味わいながら凄惨に処刑される捕虜の断末魔みたいな叫び声であった。


 周囲の人々の視線が自分に向けられて居心地の悪さを感じたが、しかしすぐに周囲の人々は僕への興味を失って、手元にあるスマートフォンの画面に視線を戻していった。


「ねえ。お母さん、なんであのお兄さん電車の中で叫んでいたの?」


 向こうの席にいる男の子が僕の方を指差して言った。


「しっ、見ちゃだめよ」


 母親とみられる女性は訝しげに一瞥した。


「次は八丁堀、八丁堀です」とアナウンスが流れ、今は新木場駅を出たところだったのだと気付かされた。それにしても悪夢だった。これほどまでの悪夢を見たのは久しぶりだったし、それも電車内で居眠りをしていた僅か20分程度でここまで濃密な悪夢を見るとは思っていなかった。こんな酷い内容の夢なんて獏に食べられて無くなってしまえばいいのに、と僕は思った。でも、そんなに都合よく獏が現れてくれるのならこの世で誰も悪夢なんて見ることはないだろう。


 窓の外は昼下がりの青空だった。美しい色彩のステンドグラスの破片を粉々に散りばめたみたいに、初夏の陽光が運河の水面にゆっくりと降り注いでいるのが見えた。でもすぐに、まるで僕の心のように暗く澱んだ狭いトンネルへ電車は入って行った。周囲が暗くなるのと同時に僕の心もまた沈み込んで行った。


 はっ、そういえば……と僕はスマートフォンを起動させ、カレンダーアプリで今日の日付を確認した。そこに表示されていた日付は西暦2019年の5月7日だった。そして、僕の着ているのは高校の制服で、画面を暗くしたスマートフォンの表面に映る顔も今日の朝に鏡で見たものと一切変わっていなかった。


 まだ心臓が激しく鼓動していたが、夢だという確証を得てようやく落ち着いた。


 寝不足と、日々のストレスと、それから昨日の夜に兄貴から聞かされた就職活動の話と、様々な要因が複合してしまったのだろう。悪夢の内容については精神分析学などで数多くの研究が行われているらしく、夢内容は抑圧された欲望や不安を反映すると主張する研究者もいるが、それに対しては根拠がないとの批判も強いと聞いた事がある。ただ、ストレス状況下で悪夢が増える傾向が高まることは間違いないと思った。


 僕はこれまで、自分が大人なるという事は遠い先の話であって今の時点では全く現実味もない話だと思っていたのだが、昨日の兄貴の話を聞いて、そう遠いものではないのだと認識させられた。そして、そこへ至るまでには様々な困難や痛みを味わい、乗り越えるべき壁は多数あるようだった。


 ああ、なんとバカバカしいのだろうか。僕自身が変化を遂げて大人になってみたところで、この世の中を覆っている大きな日常は何も変わらないし、退屈でつまらなくて息苦しいという事実だってどうやっても覆らない。不毛すぎる。


 でも……、大人になってしまった時には、日々の退屈さとかつまらなさとか、ここではないどこかへの憧れだとか、そんなものを抱くことのできる感受性は消え去ってしまっているのかな、とも思わなくもない。



 暗く狭い地下のトンネルを抜けると電車は東京駅に到着した。多くの乗客と共に吐き出されて、無駄に広く造られたコンコースから動く歩道を進んで行った。“銀の鈴の待ち合わせ場所”に着いたのは14時55分だった。


 



 約束の15時まではまだ5分ある。高坂美咲はもう着いているだろうか、そう思った僕はLINEのメッセージをチェックするためにスマホを開いた。すると、不意に後ろから軽く肩を叩かれ、「直哉くん、お待たせ」と僕を呼ぶ女性の声が聞こえた。


 僕はその声のする方向へと振り返ってみた。そこにいた女の子はふんわりと丸みのあるボブカットを軽やかに揺らしていた。そこからはどことなく甘い匂いが漂った。少しだけ丸みを帯びた可愛らしい顔をしていて、僕の顔を覗き込みながら微笑んでいるように見えた。ベージュのスクールベストを着ていて、白いブラウスは腕をまくり上げていた。制服のプリーツスカートは柄のない黒の無地で膝丈よりも少しばかり短く、そこから覗かせる白い肌をした両足は健康的な肉付きをしていて、思わず目を奪われた。


 正直、声を掛けられなければ誰だか全く分からなかった。でも、じっくりと見ればそのはにかんだ表情や、掛けている黒縁メガネの形状などで以前に会ったときの面影は見出せた。


 同じ学校の気が知れた男子生徒へ話しかけるような口ぶりで僕の名前を呼んだ彼女は、紛れもなく高坂美咲だった。



 半年近く顔を合わせてなければ、会った事も一度しか無いのによく僕の姿を見付ける事ができたな、と僕は驚きの表情を隠せないでいたのかもしれない。


「よく僕のことを見つけられたね」と僕は言った。


「ゴールデンウイークに、こんな行楽客ばかりのいる“銀の鈴の待ち合わせ場所”で高校の制服姿の人がいたら目立つし、すぐ分かるよ」と彼女は笑った。そういえば昨晩、僕は彼女に「学校で部活動を終えてから行く」と言っていた事を思い出した。


 高坂美咲にそう言われて周りを見回してみると、ほとんどの人が旅行客風の出で立ちをしていた。東京に旅行に来てこれから地方へ帰る人たちだろうか、あたりから聞こえてくるのは関西弁だったり北陸や東北訛りだったりした。彼らの手には東京ばななや崎陽軒のシウマイ弁当やひよこの紙袋があった。新幹線列車に乗るまでの時間つぶしをしているのだろう。


「なんか、私たちだけ浮いているみたいだね。二人とも高校の制服を着ていて、東京駅の待ち合わせ場所にいて、まるで季節はずれの修学旅行みたい」と彼女は笑った。


「季節はずれの修学旅行か、それもまた悪くないと僕は思う。うん、『季節はずれの修学旅行生』……、やっぱり悪くはないと思うな、その言い回しは」


「季節はずれの修学旅行生、その言い回しが直哉くんはとても気に入ったんだね」と彼女は僕の顔を見てにっこり笑った。


「もう今後の人生で、修学旅行は二度と来ないけどね」


「なんか、気付いたらあっという間に3年生になっちゃったなあ。こんな感じで、色々な物事が通り過ぎて行っちゃうのかもしれないって思うとちょっと寂しいよね」


「確かにね。もう大きな学校行事は文化祭くらいしか残っていないな」と僕は言った。


 すぐ横を大きなスーツケースを持った外国人の集団が走りながら通り過ぎて行って、その激しさに僕は少し気圧された。


「ねえ、ところで今日はどこへ行くの?」と高坂美咲は尋ねてきた。


 その答えについては何も用意してきていなかった。僕はただ久しぶりに彼女に会いたいと思っただけで、明確にどこへ行きたいだとか何をしたいだとか、そんな事は一切考えていなかったのだ。待ち合わせを東京駅にしたのも、彼女の最寄りの路線と僕の最寄りの路線からアクセスがしやすいといった理由だけだった。


「何も考えていないよ。逆に、高坂さんは何か考えてきたの?」


「えーっ、何のプランも無しってこと」と彼女は顔を膨らませて言った。


「もともと僕らにはこの時間、何の予定も無かったんだし、予定のない午後を二人で何も決めずに過ごすのも悪くはないだろう」


「でも、何も考えずにふらふらと歩くだけっていうのも、確かに悪くはないかもしれないな……って、いや、やっぱりきちんと考えておいてよ。久しぶりに会うって言うからどっか楽しいとこにでも連れて行ってくれるのかと期待しちゃったじゃない」


 いったい僕に何をそう期待したのだろうか、と思った。でも、ある種の期待のようなものが彼女の中に存在したからこそ僕と会いたいと思ってくれたのかもしれないな、と思って少しだけ申し訳なくなった。ここに来るまでの間に何かしら行く宛を考えておくべきだったのだ。




「まあ、とりあえず改札を出ようか」と僕は言って、僕たちは丸の内中央改札口を出た。高層ビルが両側に建ち並ぶ広い真っ直ぐな道路を歩いて、それからお堀に沿って歩いて行った。


 春から夏へ移ろう季節の歌をウグイスが一人で唄っているかのような、そんな10連休最終日の落ち着いた昼下がりだった。お堀端に沿って立ち並ぶ柳のしだれた枝葉や、鮮やかな緑色をした桜の葉などがゆったりと南風に靡いていた。気温が高く、すれ違う人々はみな軽装をしていて、趣味でランニングをしている人たちは半袖短パンといった出で立ちだった。ヒートアイランド的な要因もあるのだろうか、千葉と比べて2、3℃は気温が高いような気がしてならなかった。


「ねえ、それ外してみたらどうかな?とっても暑いと思うんだけれど」と彼女は僕の首もとを見ながらそう言った。


僕は学校にいた時と同じように、Yシャツに学校指定のネクタイを巻いたままだった。今いる場所は学校では無いのだから、確かにそれを外したところで誰からも咎められる事はない。ここには生徒指導もいなければ口うるさい生徒会役員共や風紀委員長もいなかった。


「確かに、これのせいでずいぶんと暑苦しい思いをさせられていたみたいだよ」と僕は言って、緩めたネクタイを取り外して鞄へと仕舞い込んだ。第二ボタンまで開けて、そして汗拭きシートで首回りを拭った。「5月って、こんなにまで暑い月だったっけなあ」


「ふふっ、私、やっぱり直哉くんの喋り方に興味を惹かれちゃうな。なんだろう。上手くは言えないんだけれどもね、ちょっと変わってて、なんとなく面白いなって思うの」


「僕の喋り方って、そんなにまで変わっているものなのかな」と僕は訊いてみた。



「そこまで変わっているようには感じないけど、でも学校の同じクラスや同じ部活にいる男子たちの中で、あなたみたいな喋り方をしてる人は一人も見たことがないと思う」


 ふぅん、と僕は言った。「でも、僕はこれまでに誰かからそう言われた事は無かったよ。いや、自分が覚えていないだけで何度か言われたことがあるかもしれないけど、その記憶は今の僕には無いね」


 それに、もし僕の喋り方が変わっていたとしても、教室ではいつも無口を貫いていたから誰も気付かないのだろう、という事に気付いた。学校では面と向かって言われないだけで、陰で何かしら言われているような気がしなくもないが、それはそれだった。そうしてしばらく考え込んでいたが、わざわざ彼女にそんな話をしようとは思わなかった。



 なんだか、とても不思議な時間が過ぎていった。この事に関しては12月に出会った時にも思わされたのだが、どうしてだろうか、今の僕はとても自然な形で、「異性」である彼女と会話をすることができていた。

いや、彼女から見れば言葉の端々だとか仕草だとか言い回しなどにちょっとしたおかしさを感じるのかもしれないが、少なくとも今の僕が普段の僕とを比較して僕自身を評価するのであれば、今の僕はとてもとても自然に彼女とコミュニケーションを行う事ができていたように思う。


 普段の僕は、学校で異性と会話をする事なんて殆ど……いや、入学してから今日までの2年以上の日々を振り返ってみても、委員会や部活動などにおける事務的な会話を除けば女子とは(友人・北山貴浩の恋人である加古川佳子を唯一の例外としては)一切話した事はなかった。そして、それすらも満足にこなすことはできなかったように思う。


 学校生活を過ごす上で彼女たちは僕にとって常に恐怖の対象であった。何らかの用事があって話しかけられただけでも身が竦み、逃げることも立ち向かうこともできずにただその場で呆然と立ち尽くすしかなかった。


「え、あ……えっと」と必死に言葉を発するが、恐怖のあまり萎縮して声は震え、おどおどしながらどもるしかなかった。その場における僕の姿はまるで吃音症状の患者そのものであった。顔は赤くなって汗がだらだらと流れ、頭の中は真っ白になり自分がいったい何を話しているのか自分でも理解不可能なほどの窮地に追い込まれる事ほど惨めなものはない。


 高坂美咲とこんなにまで自然に会話を楽しむことができているのは何故なのだろうか、学校という閉鎖的な恒常性コミュニティーの中から外に出ているという自由さが僕をそうさせるのか、または奇跡的なレベルで僕と彼女は会話をする上での様々な波長がぴったりと合ったのか、そのどちらかは分からなかった。


 まるで、有能な神々から魔法にかけられて無敵チートスキルを手に入れたかのような万能感までも抱かされた。それはとてつもなく不思議な感覚で、言語化することは非常に難しいように思えた。僕は隣にいる彼女の顔を眺めた。どこかで忘れかけていた懐かしい匂いのする南風が吹いて、彼女の髪の先を心地良さそうに揺らしていた。


「そういえば、高坂さんってもっと髪が長かったよね?確か、このぐらいまであったように思うんだけれど」と言って、僕は胸の上あたりを手で示してみた。


「そう、気付いてくれたんだね。これ、一週間前くらいに切ったんだ。暖かくなってきたら長い髪なんて邪魔かなって思って、どうだろう。似合っているかな?」


 僕は彼女の横顔を覗き込んだ。柔らかそうな頬に沿って流れていく髪は綺麗に整えられていて、あざとくは見えないナチュラルな清楚さを醸し出していた。思わず見とれてしまいそうになった。


「うん、僕はとても好きだな。明るくて可愛らしいと思う。似合っているかどうかは、僕は女子のファッションとかに疎いからなんとも言えないけど、でも僕はそれが好きだって事だけは確実に言えるよ」と僕は言った。


「ありがとう。私、ボブにしたのは初めてだったから、変じゃないかどうか不安だったんだ。でも、好んでくれたみたいで良かった」と彼女は言った。そして、人差し指で髪の毛の先をクルクルと巻いていた。


「でも、女の子というのは髪型一つ変えるだけで物凄く雰囲気が変わるものだね。最初、東京駅で声をかけられた時は一瞬、君が誰だか分からなくなったよ。よく見ていくうちにその表情や掛けている眼鏡によって思い出したけれどもね」


「あとは、私、ちょっと太っちゃったから……それでかなり雰囲気が変わったように見えたのかもね。痩せたいって思っているんだけど、一度増えちゃうとなかなか戻らないんだよね」と言って、彼女は自分の下腹部の辺りに両手を添えながら微かに笑った。でも僕は彼女が手で撫でている腹部のあたりでは無く、それよりも上の方に目を奪われていた。


 強く張りを持った2つの山並みが合わさって、布地の上で美しく稜線を描いていた。高い天へと向かって何千メートルも険しく聳え立った急峻な高山とまでは言えないが、台地だとか丘陵だとかいう語彙で形容するのもまた違うぐらいの盛り上がりであった。その山の稜線は絵に描いたように、目を見張るほどの曲線美を表していた。


 青々と澄み渡った夏空の下に続く一本道から、その遙か先に連なる遠い山々を眺めていた時の、とても懐かしい故郷の原風景を思わせた。だけれども、その瞬間に心の中に想い描かれた一つ一つのイメージは、東京郊外のニュータウンで生まれ育った僕にとっての“本当の故郷”の風景でない事もまた確かだった。敢えて言うならば、私たち日本人の多くが心の奥底で無意識のうちに抱いている概念としての故郷の原風景なのだろう。いつかその山の頂上へと登頂したいものだと、胸の内でそんなことを思った。


「ダイエットとか、した方がいいのかな」と彼女は言った。


「いいや、僕は今の方が好きだけどね」


「直哉くんは、本当にそう思うの?」


僕は軽く肯いた。そして、「僕は思うよ。わざわざ、そんな事をする必要は無いって」と言った。


 僕たちは宛もなく歩いているうちに、気がつけばまた東京駅丸の内口の前まで戻ってきたようだった。結局、お堀の前まで歩いて東京駅まで帰ってきただけだったのだ。


「ねえ、直哉くんはもうお昼は済ませたの?」と彼女は僕に尋ねた。


「うん。時間が少し余っていたから友人の家の近くにあるラーメン屋でつけ麺を食べてきたよ」と言って、僕は“やすじ”の話をすると彼女はくすくすと笑った。


「いいなあ、私の学校の周りにもそんな面白いお店があればいいのに」と彼女は言った。


「高坂さんは、お昼はまだ食べていないの?」


「うん。朝から何にも食べてなくて結構お腹空いてるかも。でも、直哉くんはもうお昼を済ませたみたいだし、付き合わせるのも悪いかな、って」


 確かに僕はもう既に“やすじ”でつけ麺を食べていたので腹の中はそれなりに満たされていたが、さすがに朝から何も食べていないという彼女をこのまま連れ回すのも良くないだろうと思った。


「高坂さんは、何か食べたいものってあるのかな?」


「うーん。特に、これが食べたいっていうものは無いかなあ。軽く食べれるものなら何でもいいかも。例えば、カレーとか、パスタとか」


「なるほど、それなら近くの適当なカフェに入ってみようか」と僕は言った。この時間はとっくにお昼時を過ぎていてどこの店も空いていそうだったし、喫茶店ならパスタのような軽い食事も出してくれるだろう。僕は彼女が食事をしている向かいでコーヒーでも飲みながら、あとは手頃なスイーツでも味わっていればそれでいい。


「なんか、付き合わせちゃったみたいでごめんね」


 彼女はそう言って、ほんの少しばかり申し訳無さそうな感じに聞こえる声色と表情とで僕の顔を見た。


「いや。僕もちょうど涼しい喫茶店に入ってコーヒーや甘いスイーツを味わいたいと思っていたところだよ」と僕は返した。そしてそれはあながち嘘では無かった。たまには僕もスポンジケーキだとかマフィンだとかティラミスだとかシロノワールなんかを食べてみたいと思っていたのだ。


 スマートフォンでここから近いところにある喫茶店を調べて、それから僕たちは某書店の4階にあるカフェに向かった。僕らが案内された場所は窓辺にあって、そこからの景色はとても良かった。壁一面がガラス張りで、窓の向こうには青空の下で数々の高層ビル群が輪郭線を描いていた。西からの日差しを照り返すガラス張りの高層ビルはまるで万華鏡みたいに燦然と輝いて見えた。少し下の方に目線を向けると鉄道の高架線が敷かれていて、プラットフォームに行き交う人々の姿や発着する電車や列車などの動きをぼんやりと観察していた。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る