十八

「うわ、マーヤ、いつの間に!」

「いつの間にって、だいぶ前から。っていうか、二分十三秒前かな」

 平然とした顔で、何かを飲んでいる。小さい透明なコップだ。

「ふ〜う。ここの水は、まあ。不純物は許容範囲ケッチラね」

 ……水か。

 麻耶はコップの端に口をつけて、ニヤついている。

「ぷふぉー。さて、ツッキーつきつき都月く〜ん」

 真顔だ。

「マジでお願い。助けて。本当、助けて。お願い。助けてほしいの。うまく伝わらないかもしれないけど。でも、本当に助けてほしい。ツッキーが、頼り。これ、マジケッチラよ」

 まだ真顔だ。

「あ、いや、まあ、手伝ってるけど、うーん」

 曖昧に返事をしながら考える。けど、考えても何も出てこない。なんせ、分からないことが前提になって、物事が動いてるのだ。考えても無駄だ。

「利根川さんさ、なんか麻耶先生のこと疑ってるのか、どうもレスポンスが良くない。それで、工場にもうまく真意が伝わらないんだ」

「真意? 工場の人だってプロフェッショナルだから、キッシーの説明で伝わるんじゃないのか?」

 岸島が、ふと暗い顔になる。

「いやさ、彼女、すごい賢い。知識も半端ない。俺って、なんか色々急に『解る』ようになっちゃって、途中の感じ、段階をすべてすっ飛ばして『できる』ようになっちゃったんだ。だから、自分が解ったことを他人にわかりやすく伝える、ってのが、出来ないんだな。それで、最初に福留のとこの工場の技術者に説明しても、ピンと来ないみたいで。そこに、こないだたまたま利根川さんにコメントしてもらったのを見せたら、すんなり伝わって。その後も一度、彼女に仲介してもらったんだよ」

 なんだ、そういう形になってたのか。確かに、岸島の送ってくれた画像の内容を理解できたのは、彼女くらいだった。

「それが、こないだ、なんかマーヤが信用できない、って、仲介を断られちゃって。もう少し、ってとこなんだ。だから、都月から、彼女を説得してくれないか?」

「ん、いや、そりゃいいんだけど、なんで、俺が……」

 眉間に力が入るのを感じる。ちょっとムッとした表情をしているようだ。

「いや、ツッキーさ。なんていうか」桜木が切り出す。

「利根川さんって、ツッキーのことが好きなんじゃない? って思うんだけど」

 げっ。マーヤが言ったのか。

「んーでも俺、そういうの利用して言うことを聞いてもらうってのも、ね……」

「ツッキー真面目だね」桜木が笑う。

 やだみゆちゃん可愛い。でも、真面目で何が悪い。でもみゆちゃん可愛い。

「真面目、ってのかもしれないけどさ。なんか、利根川さんって、頭いいし、そんな変な小細工、通じないんじゃないかな、とか」

「うーん、まあ、そうかもねえ……」

「そこおケッチラ」

「いやでも、なあ」

「それでもケッチラ」

「……まあいいんスけど、その前に、ちょっとはっきりさせておきたいことがあるんですよ」

「な、なによ急に」麻耶が驚いた顔をする。

「キッシーが、『こう』なった件について、キッシー自身が解ってるのかどうか」

 岸島本人や桜木が居る場所で、というのも抵抗があったが、今聞いておかないとそのまま押し切られそうな不安がある。

「え、俺?」岸島が一瞬不思議そうな顔をするが、すぐに笑顔になる。都月が言わんとしたことを即座に理解したようだ。

「あー、俺は、いいんだよ」

「いいって、どういうこと? 桜木さんは?」

 桜木は、ちょっと困った顔になる。

「んー実は、そのあたり、岸島くんとも話したんだけど」

 え、もう納得しちゃってる? 疑問なの、俺だけ?

「結局、元のキッシーとは違う状態、ってことでしょ?」

「そうかもしれないけど、でも」

 桜木がしばらく目をキョロキョロさせている。言葉を選んでるのか。

「都月、『元の俺』って、なんだと思う?」岸島が口を開いた。

「え、元のキッシーってのは……」

 ヤンキーで……勉強ができない? うーん、本人を目の前にして、言い難いが。

「そう、言いにくいだろ? 大丈夫、わかってるから」笑う岸島。そう。すまん。そういうのが、元のキッシー、だ。

 というか、それは「俺にとっての」元の岸島か。

「俺自身、いろいろ悩んだ。これ、ドーピングみたいなもんなんじゃないか、とか。麻耶先生から説明を受けたとき」

「マーヤ」

「あ、すみません。マーヤから説明を受けたとき、これは自分自身なのか、偽物なのか、あるいはドーピングでズルしてるんじゃないか、とか」

 まあ、そうだろう。突然、圧倒的な天才になったんだ。正直羨ましい。

「で、それを考えてる自分ってのも、もう『変わった後の脳の自分』なんだよな。すでに別の脳で考え、過ぎた過去を今の脳で判断しようとする。それが正当なのかどうか、というのも悩ましかった。だから、桜木とも話をした。桜木は幼馴染で、昔の俺を良く知ってくれている」

 桜木のほうを見る岸島。落ち着いた表情の桜木。

 なんだかもう、二人は切り離せない感じだなあ。

「岸島くんは、前と『変わった部分』もあるけど、ほとんどは元の『岸島くん』で出来てる。しばらく話をしてて、解った。確かに普通じゃない変わり方をしたけど、別の人じゃない。そして、私にとっては、岸島くんは唯一、目の前にいるこの岸島くんだし」

 う……。まあ、そうか。そうだろうなあ。はあ。

「ま、俺自身としても、違和感はあるけど、今更しゃーないっていうか」

「……元に戻りたい、って思ったりはしなかったのか?」ちょっと意地悪に感じるが、疑問を素直にぶつけてみる。

「うーん、そうだな。でもそもそも『元』ってのが、未来に『ある』のかな、ってのも疑問でな」

「え、どういうこと?」

「ケッチラ」

 割って入る麻耶。

「ツッキー、キッシーの『元』、って、どういう状態だと思う? キッシーの元通り、って」

「え、そりゃ、あの体育館でズブ濡れになる前のキッシーだ」

「それさ、例えばそのときにキッシーを見たツッキー、今、この、目の前にいるツッキーが、そのときのツッキーに何もかも戻るのって、それって『元通り』だと思う?」

「あ、え? いや、それは……」

「時間がたった分、色々見聞きして、経験して、考えて、もうあのときのツッキーとは違う人、ケッチラよね。今。それは、いろんな刺激を経て、脳が変化したからで。どっちかが『正しく』て、そっちに『戻す』っていうのは、意味があまりないケッチラよ」

 うーん、そうなのか? よく解らなくなってきた。

「だって、『もともとそうなる運命のとおりになった』んだから。そう『ならない』キッシーって、実は存在しない。だから、元通り、ってのは、ないの。キッシーの人生の時間は進む一方で、戻すことは出来ないんだから。ツッキーがこの数週間でいろいろ経験したり見聞きして知識が増えて変わったように、そして変わるべくして変わったように、キッシーも変わったケッチラよ。で」

 麻耶が一呼吸おく。

「私がいた未来につながる、唯一の道だから、これが実は『自然な流れ』で、そうでない選択肢は、実は無いのよ」

 そうか。俺が想像する「元の岸島」は、今は存在しない、以前の岸島から「普通の経過」をたどった場合の岸島だ。けどそれは、現実には存在しない。それは、俺にとっての、俺が勝手に想像した架空の岸島に過ぎないんだ……。

「……マーヤ、わかりました。というか、キッシー自身が納得してるのに俺が騒いでも仕方ない。桜木さんが言うように、キッシーはキッシーだ。すごく勉強して凄いスピードで成長した、キッシーだ。わかった。ここはこれで、俺は消化した」

 都月は実際のところ、少しモヤモヤしていた。しかしそれを言葉にしたり解決したり出来る気がしなかったし、本人が納得してる以上、それに意味があるとも思えなかった。

 麻耶がここに居るということは、こういう岸島がいる。俺にとっても、岸島にとっても、これが唯一の世界ということなのか。

「それで、そのうケッチラ」

 麻耶が申し訳なさそうな表情で都月をみる。

「利根川智恵ちえチーエチャンの、説得の件、ぜひぜひヨロヨロと」

「……うーん、保証はできないけど、話はしてみる」

「そうこなくちゃケッチラ」

「……」

 麻耶のホッとした顔を見て、なんだか憂鬱になった。

「ツッキー、大丈夫よ。利根川さんって、そんなにヤワじゃない。すべて解った上で、ちゃんと自分で判断できるよ」桜木の落ち着いた言葉。

 だといいんだけどなあ。

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