十七

「こないだの、マーヤのパラドックスの話だけどさ」

 次の月曜日、教室に入るなり都月は利根川に話かけた。

「ああ、福留さんからも聞いた。ってか、麻耶先生直々で、なんか言いに来た」

「え、マーヤが?」

「そう。家のベランダに足首でぶら下がって助けを呼んでて、驚いて引っ張り上げたの」

「べ、ベランダ! 足首!」

「そう。それでベランダで話したんだけど、なんだかシュンとしちゃって、パラドックスの説明、ゴメンナサイって。で、また別の理由言ってたんだけどさ、今度は矛盾とかは無いみたいだけど、よくわかんなくて」

「そうだよなー。なんかもともと変だったんだけどさ。いや、全部ウソってわけでもないんだろうけど」

「そうなのよ。岸島君とも何回か例の件で情報やりとりしたんだけど、岸島君も麻耶先生のことは信用してるみたいで。だけど、私のほうが今ひとつ、なんだかなあって。ツッキーは、どうするの?」

「どうって……」

「これからも協力続けて、教頭を逮捕する?」

「うーん、どうしようかな、って思ってはいるけど」

 ふと、涙ぐむ桜木の顔を思い出した。

「でもちょっと、俺は協力しようかな、って思ってる。利根川さんは、どうする?」

 ふと目を上げると、利根川がじっとこちらを見ている。み、見透かされてるか?

「……ん、まあ、利根川さんはちょっと考え直す?」

 なんだかしまらない。

 都月は歯噛みしながら利根川の席を離れた。

「さてさて、今日は、全国模試の、解説よ〜」英語教師の声が響く。

 ザワザワとした声が静まっていくのを聴きながら、都月は自分の席に座った。

 

「ツッキー!」桜木の声だ。

 放課後、読書部員としての活動中……すなわち図書室での読書中に声をかけられた都月は、あわてて振り向いた。

「さ、桜木さん!」かわいい!

「今日ってさ、部活、何時まで?」

「え、あ、一応五時までってことになってるけど」見回すが、図書室に数人いる読書部員の誰も同意している様子はない。

「まあ、いつでも終了可能かな。どうしたの?」

 否応なくドキドキしてきた。

「今日さ、岸島くん戻ってきてるの。だから、一緒にお茶でもしない?」

「え、キッシーが! おー、会ってみよう。いや、どうなってんだろう。ゼヒ会おう今会おう」

「あ、岸島くん、もうここの生徒じゃないし、入ってくるのは……」

「あ、そか。じゃ、すぐ行こう」

 都月は机の上に開いていた綾辻のミステリーを閉じると、カバンと共に持って立ち上がった。

「さ、行こういこう!」

 ニコニコしながら図書室入り口のボックスに本を入れると、振り返って桜木を促した。

 同じく笑顔の桜木。みゆちゃん、かわいい。だめだ。かわいい。もうだめだ。

 靴を取り替えるのももどかしく、半端にカカトを踏みながら校外に出た。桜木と並んで歩いている。みゆちゃんと、並んで、歩いて。そう、あのみゆちゃんと。いや、このみゆちゃんと。

「桜木さん、キッシーとさ、アメリカでは結構会ったりしたの?」

「うん。まあ岸島くん忙しそうだけど、ちょくちょく会ってた。ちょっと前の岸島くんと違って、話の内容は難しいこともあったけど、でも一本気で何事も真剣な岸島くんそのものだった」

「へえ。そうか。桜木さんって、キッシーとは幼馴染だもんなあ」

「ん、まあ、そうだけどね」

 ちょっと照れた仕草の桜木。妬ける俺。幼馴染、って。恋人じゃなくて、幼馴染、って。強調したつもりなんだけどなあ。いや、逆効果かな。

「また、すぐじゃないけど、しばらくしたらアメリカ行こうかな〜って」

「え、また行くの?」

「うん。まあ、ちょっと先の話かもしれないけど」

 なんだよー。そんなの、どうすりゃいいの、俺。

「で、キッシーはどこのサ店?」

「あ、駅前の、こないだのとこ。ちょっと岸島くんに連絡するね」

「おっけー」

 桜木が歩きながらスマホをいじっている。危ないなあ。でも、俺がいるから安心だ。安心してスマホをいじりなさい。みゆちゃんは俺が守る。なんちて。

 都月はふと、朝に学校の教室で利根川と話した内容を思い出した。利根川はどうも乗り気じゃないようだった。都月としても、一貫性のない麻耶の言葉に翻弄され、ちょっとネガティブな気持ちになってきている。とはいえ、麻耶と話をしてしまうと、なんだか変に引き込まれて、協力しようかという気分になってしまうのも確かだった。不思議だ。理屈では何となく抵抗あるのに、全体的には協調しそうになっている。

 岸島の待つ喫茶店が近づいてきた。ふと桜木を見る。少し嬉しそうな表情を見て、また複雑な気持ちになった。

 自動ドアが開く。「いらっしゃいませ」の声とともに座席を見渡す。白いピシッとしたシャツを着た岸島が、奥のほうの席に座って何かを食べていた。ちらりと目が合い、お互い片手を上げる。

 何だか雰囲気が凄く大人びて見える。同い年には見えない。仕草もこころなしか優雅だ。

 桜木が注文したアイスラテと自分のアイスコーヒーをトレイに乗せ、岸島のテーブルへ向かった。

「キッシーお久しぶり! ってそれほどでもないんだけど、すんごく久しぶりな気もする」

 向かいに座って、桜木のラテを岸島の横に置く。桜木は、ちょっとためらった後に岸島の隣に座った。

 ためらった。そう、ためらったぞ、いま。確かにためらった。うん、ためらった。

 それを確認して、都月は自分のアイスコーヒーにストローを挿しいれる。

「都月、元気……そうだな。その後、まあ、麻耶先生、大変だろ?」

「おー。大変っつーか、まあ、大変は大変だなあ。キッシーはいま、研究に忙しい?」

「あ、まあまだ本格的には、ってとこなんだけど、向こうの大学付属の研究室で、ちょっと勉強がてらにお手伝いしてる感じでな」

「大学の研究室。すごいな。まだ高校生なのに」

「ん、まあ、っつーか、高校中退だけどな」

 後に続ける言葉が見つからず、誤魔化すようにアイスコーヒーを一口飲む。

「都月のほうは、受験勉強か?」

「あ、いやまだかな。もうそろそろ、受験は意識する感じなんだけど」

「そうか、頑張れよ。俺、こういっちゃなんだが、ついこないだまで、勉強とか全く関心なかったんだ。っていうか、反発してたんだな。関心はあった、けど、なんだか、反発してたんだよ。だから、やらなかった。モヤモヤしてた。何か他のやりかたで、このモヤモヤを解消していこうって、考えてたんだ」

 都月はじっと聞き入っていた。ふと桜木のほうを見ると、桜木は静かに自分のラテを飲んでいる。

「それがこないだ、体育館の屋根でずぶ濡れになった時からかな。なんか頭のモヤモヤがスッキリ晴れたようになった。そして、急に腹が減ったんだな」

「腹が?」

「そう。っていうか、脳が、空腹だったんだよ。で、脳に、餌をやったんだ。自宅の本も教科書も数時間で読み尽くしちゃったし、あとは学校の図書室なんだけど、あれもほぼ一日で読み尽くしちゃってた。奥の方だけだけどな。不思議と、食べて『うまい』と感じるのは、そういう本になってたんだよ。そういや鼻血出してたよな、あん時」

 そうだ。岸島は図書室で鼻血を出していた。あの後自宅に返したんだった。

「そしたらその次の日な、麻耶先生が家に来たんだよ」

「え、マーヤが」

 都月はストローを口から離した。

「麻耶先生が急に来て、なんだか色々、SFみたいなこと言うわけだ。未来から来てワームホールで、とかな」

 なんだ、結構前から直接連絡取ってたのか。

「その時はなんだか半信半疑だったんだけど、その後も近所の大学図書館の本とかインターネットで公開されてる論文とかいろいろ読んでてな。ふと、麻耶先生の意図というか、問題がきちんとしたバックボーンに根ざしたもんだと解ったんだ」

「解った、って……」

「これ、うまく説明できないんだ。ごめん。ひらめいた、っていうのとも違う。なんか、麻耶先生の『考えの一部』が、すっと伝わって来たっていうか、サポートされて思い出した、っていうか。補完されてつながった、っていうか、なんかそういう感じで」

 ポカーンとしてしまう。キッシーは何を言ってるんだ。

「凄く高度な次元で、麻耶先生の意図を理解した、って感じでな。これ、こういう言い方をすると悪いかもしれんが、ここを言わないと却って信用してくれないだろう。俺以外の他のみんなに理解してもらえるには、矛盾を孕んだ漫画の様なストーリーに落とし込むしかない、ってことなんだと思う」

 何だそれは。要は、岸島以外はアホだからどうせ子供だましのストーリーしか理解できない、だから数学をリンゴとミカンに例えるようなことをしてた、ってことか。ちょっと不快になる。

「ごめん。多分不快になったと思うんだが、これを言わないと麻耶先生の話に関する疑問点や矛盾なんかに囚われちゃって、計画がダメになっちゃうっていう心配があった。これはとても重要な計画で、ぜひとも進める必要がある。端的に言うと、都月、俺と麻耶先生を信じて、ぜひ、協力してほしい。俺は、協力することにした。というか、協力しないで放っておくことは、絶対にできないと思った」

 ふと桜木の顔を見る。桜木も真剣な眼差しをしている。そして口を開いた。

「ツッキー、実は私も、麻耶先生のこと、よくわからないの。麻耶先生の作戦のこと、信用できるかどうか」

 うんうん。こっちも同じなんだよな。反発したりするわけじゃないが、いまいち信用できない。

「だけどこないだ、麻耶先生と岸島くんが話してるのを見て、なんか難しいことを言ってるんだけど、岸島くんが麻耶先生のことを信頼してるのは凄く伝わって来た。それだけじゃないけど、それが後押しした感じで、私も麻耶先生のこと、信じることにしたんだ」

 岸島を見ると、落ち着いた目でこちらを見つめ返してきた。

「都月。いろいろごめんな。福留のとこの工場と繋いでくれて、すごく助かってる」

「お、いや、まあ、でも、話を仲介しただけだし」

「いや実際、俺は頭でっかちなんだよ。今んとこ。実際に何かを作って麻耶先生を助けるには、その現場のエキスパートの人たちと一緒にやらないと出来ない。それに、福留って」

 ちょっと言葉を濁す。

「福留ってさ、俺のこと、嫌ってんだよな」

「え、そうなの」

「まあ、彼女ってクラスの女子ボスみたいな感じだろ? だけど俺がたまに茶々入れたりしてたもんだから、自分の威厳が傷つけられた、みたいに思ってたんだろな。多分俺が今回の件を直接お願いしても、ダメだったと思う。今回の作戦で必要な技術はかなり高度なものだし、費用もいる。かといって、うまくいくとも限らない。今いる研究室の装置や予算、人を新人の俺が勝手に使うわけにもいかないし、正直、ちゃんとした技術者がいる工場レベルじゃないと難しいんだ。けど、見ず知らずの他の会社にお願いするわけにもいかない。だいたい、こんな事情を信じてくれない。そんなコネもない。だから、都月が頼みの綱だったんだ。あと」

 岸島が、ホットドッグの包み紙を綺麗に畳みながら続ける。

「利根川智恵さんな。彼女にも協力してもらってたんだけど、最近なんか、うまくいかないんだ」

「え、利根川さんが? なんでだろ」

「そこでドバドバぼよんぼ〜→→☆ ぴよぴよケッチラ」

 ビクっとして横を見る。いつの間にか隣に麻耶が座っていた。

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