「ツッキー……」

 目を開く。モヤがある。少しずつモヤが晴れていく。モノクロの世界だ。灰色のモヤが、次第に、白い部分と黒い部分に別れ、その境目がくっきりとしていく。白い背景に縦横に交差する黒い直線と、ランダムに配置された穴のような模様だ。なんだろう。あの穴は。異世界の牢獄だろうか。次元の狭間だろうか。それともマッドサイエンティストのマッドな研究所だろうか。あの穴から、不思議なガスが出てきて俺は死ぬんだろうか。あるいは小さくて不思議な生き物が沢山ぽたぽたと落ちてきて体中を這い回り発狂するのだろうか。あるいは、VRゲームの中……

 壁。

 部屋。

 天井だ。

 知ってる。

 図書室の天井だ。

「都月くん!」

 両肩をバンバン叩かれた。

「い、た、あれ」

 起き上がる。横を見ると、定岡先生だ。

「あ、俺、すんません」

 反対側を向く。利根川がいた。赤い顔をしている。

「と、利根川さん。なんで」

「なんでって。天井の修理終わって、授業時間が終わっても都月くん戻らないからメッセしたけど、全然反応ないし、探しに」

「探しに図書室に?」

「だって、他に検討もつかないし。都月くん読書部員だから、ここかなって」

 周りを見る。オレンジ色の装置が横に置いてあった。電線らしきもの、あとは電極パッドか。AEDだ。一度講習を受けたことがある。動画で。

 ふと、シャツがはだけているのに気づいた。

「おー、AED、使ったの? 俺に?」

「使わなきゃ、って思ったけど、スイッチ押しても反応しなかった」

「反応しなかった?」

「うん。つまり、心臓はちゃんと動いてた、ってこと」

 なるほど。そんな仕組みなのか。さすが秀才利根川だ。

「都月、一応この後、病院に行って検査してもらいなさい。親御さんにも連絡入れといたから。それまで保健室で休んで。利根川、都月を保健室に連れていってくれますか。今日は下駄島先生はいませんが、風吹先生はいます。じゃあよろしく」

 定岡は都月の肩をポンと叩くと、手早くAEDを片付け、図書室を出ていった。入れ替わりに、クラスミーティングが終わった図書部員や勉強家たちがパラパラと入ってくる。部屋の中央で佇む二人に気づくも、それぞれの「やりたいこと」に沿って、書棚の方やテーブルの方へと散っていくが、その後も二人の方をチラチラと見てはコソコソと何やら話をしている。

「やべ」都月はシャツのボタンを閉じて立ち上がり、パンツを両手で軽くはたいた。

 二人は並んで足早に図書室を出て、保健室へと向かった。

「私とヘンなことしてるって思われたかな?」

「立場が逆だったら死んでた」

 都月は笑いながら応えた。

「そ、そういえば都月くん、なんで倒れてたの?」

 利根川の顔が赤くなっている。

「え、あー。そうだ! あれ、くっそ、あのマーヤが!」

「マーヤ? 産業医の麻耶先生?」

「そう。さっき、マーヤが授業中に教室の天井壊しただろ。その後、何もしないで教室から出てったから、追いかけたんだ。そしたら」

「そしたら?」

「そしたら」

「そーしたーらー もーもたーろー ララララ〜☆」

「そし……」

 後ろから聴こえる聞き覚えのある声に、サッと後ろを振り向く。ニヤニヤしながら麻耶が付いてきていた。今度は何故かスパナを……二本、ハチマキにさしている。八つ墓村か。

「くっ……いや、マ、麻耶先生」

「マーヤ」

「……マーヤ。なんですか。バカにしてるんですか!」

 頭が熱くなる。利根川が驚く。

「ちょ、ちょっと都月くん、どうしたの!」

「どうって、さっき倒れたの、マーヤが」

「私が」

「大声を上げて」

「無理に脱がされて」

「何をだ!」

「ほーほほほーケッチラ〜」

 両手をひらひらと羽ばたくようにしながら二人の前にスウっと前に出てくるマーヤ。

「なんですか。邪魔しないでくださいよ」

「これから、保健室う?」

「それがどうしましたか」

「わ・た・し・は・医者」

「……」

「いま、この学校に唯一の、い〜しゃ〜ラララ〜!」

「じゃあ治してください!」

「え? 何を〜」

 都月は言葉につまった。何をって。

「……何って、さっき倒れたんですよ! マーヤのせいで」

「それで?」

「それでって……これから保健室の後、病院に行くんだ!」

「おぅナイス! 倒れて、状況判断も済んで、病院に行くことが決まって、じゃあ解決デース!」

 目をクイッと見開き、一本指を立ててニカッと歯を見せた後、麻耶はスキップしながら廊下の向こうへと去っていった。

「……くっそ」

 苦い顔をしながらまた歩を進める都月に、利根川が心配そうに問いかける。

「だ、大丈夫? マーヤ、ヘンだね」

「ヘンだよあいつ! 医者なのに、生徒が倒れて平然としてるとか」

「そういえば、昨日も保健室で」

「昨日。ああ、利根川さん気分悪くて」

「そう、保健室のベッドで寝てたんだけど、都月くん帰った後、風吹先生と下駄島先生と麻耶先生の三人がいろいろ話してるの聴こえてきたの。学校健診とか保健室業務もやってくれるのか、って話で、そのとき」

 利根川が小声になる。思わず顔を近づける都月。

「麻耶先生の声で『あー私、生徒の健康とか全然興味ないので勘弁ケッチラ』とか言ってて」

「健康に興味ない!?」

「うん。なんかそう言ってた」

「生徒の健康に興味ないって。医者じゃないのか。じゃあなんでここに来てるんだ?」

「……わかんない。それで、なんか、話が終わったあとで下駄島先生と風吹先生が出てったんだけど、麻耶先生だけ残ってたみたいで、なんだかガタガタゴソゴソ音がするから、ちょっとカーテンの隙間から覗いてみたの」

「なんでそこでマーヤだけ残る」

「わかんない。で、なんか机とか棚とか全部見てるのね。すごい勢いで。それだけじゃなく」

「見てる?」

「そう。見てるっていうか、なんか、測ってた」

「測って?」

「そう。巻き尺とか、なんかよく分からない装置を壁に押し当てたりして」

 利根川が周囲を見回しながら続ける。

「たまに、ひとりごとで小さく『ケッチラ』って言ってるの」

「ケッチラ……マーヤの癖だよな。いっつもだ」

「で、しばらくしたら、その声も聴こえなくなって。カーテン開けてみたら、もういなかった」

「何してたんだろ」

「気持ち悪いよね」

 保健室の前に着く。ドアを開けると風吹が笑顔で振り向いた。

「遅かったわね。定岡先生から連絡あって十分も経つけど。あら、カップルで。なるほど。じゃあ、私、お邪魔かしら?」ニヤニヤしている。

「いえ先生。大丈夫です。っていうか、もう大丈夫な気もするんですが」

 都月は、頭と腕をぐりぐりと動かしながら応えた。

「でも、倒れてたんだよ。一応、診てもらおうよ」

 利根川が都月を心配そうに見つめている。

「利根川さん。大丈夫だと思うんだけどな。なんか、いろいろ変なことあって、ちょっと疲れただけじゃないかと思うんだ」

「でもさ」風吹が口をはさむ。

「『ちょっと疲れたたけ』って、死亡フラグよ」

 真顔だ。

「……脅さないでくださいよ先生」

 都月は首筋にひやりとした汗を感じた。

「あら、でも映画でも、その後なんだか家に帰ってから手が震えたり急に毛深くなったり血管がビクンビクンしたり変な症状が出て、そして鏡のところに行くと目が凄い血走ってて、歯が抜けて、爪が抜けて、抜けたところから血膿がブシューって、うわーって思って口に手を当てたら頬の肉とか頭の皮がズルって、ウギョー! ってのが定番」

「何の定番スか」

 思わず笑顔になる都月を見て、まだ心配そうな顔をしている利根川。

「先生、ところで、マーヤ……麻耶先生なんですが」都月が訊く。

「ああ、麻耶先生がどうかした?」

「その、なんか、ヘンじゃないっすか?」

 こういう言い方も良くないとは思ったが、他に言いようがなかった。

「ああ。ちょっと変わってるわね」

「ちょっとって……すんげー変わってると思うんですけど」

「まあ、奇抜よね」風吹がちょっと困った顔で言いにくそうに応える。

「でも、専門家みたいだから。来たばかりで慣れてないってところじゃないかしら」

「慣れてないって感じじゃない気がするんですけど」

「うーん」

 机の上の電話が鳴った。風吹が取って少し会話を交わし、電話を切る。

「都月くん、ご両親が来たので、校門に行ってください。じゃあ、お大事に」

「あ、ありがとうございます」

「じゃあ彼女さんはちゃんと保護していってね」

「い、いえっ、そんなじゃ!」利根川が慌てて否定する。

 都月は風吹に向かって一礼すると、顔を真赤にしている利根川とともに保健室を出た。

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