次の日、数学の授業。本日のオーラスだ。いつものように定岡が黒板になにやら意味不明な記号を連ねながら悦に入っていた。満足そうである。うむ。幸せなのは、良いことだ。

 と、その時、教卓の上の天井がミシリと音を立てた。そして次の瞬間、麻耶が落ちてきた。

「ぎょわっぴー! うぬぬ、すまぬすまぬぅ~ケッチラ!」

 麻耶は両手に持っていたノコギリと金槌を教卓の上に置くと、基準服についた埃をバタバタとはたいた。土っぽい埃が周囲に舞う。

 教卓の真上を見ると、天井のパネルには大穴があいていた。

「ま、麻耶先生、これはいったい」ふりむいた定岡が固まっている。

「マーヤ」麻耶が定岡を睨む。

「……マーヤ、何事ですか」

「いんやー、危険物質が無いかどーか、ついでに給排気が出来てっかどーか、騒音、振動、強度、歪み、なんかなんかなんかをかっくにーんと測定と構造変更と……ナンチテ」

「危険物質? 構造変更?」都月が訊く。他の生徒は、呆然としたままだ。

「ふ、ふ、ふ、危険物質それはキケンな物質。おわかーりない?」麻耶が不思議そうな顔になる。

 そうじゃなくて。

 都月は突っ込むのをやめた。

「えー、マーヤ先生」と定岡。

「マーヤ」

「……マーヤ、危険物質って、そんなの、先……マーヤが調べるものなんですか?」赤いチョークを握ったまま訊いている。

「そうケッチラよ〜ん。だあってぇ〜」麻耶が両手の人差し指を突き出し、口を尖らかせながら定岡の横腹をツンツンした。

「サダっち、案内してくれなーい、ん、だ、モーン!」

「案内って……あ、すみません。ちょっと忙しくて、なかなか」

「そうざんしょ〜? そうざんしょ〜?」

 麻耶が、教卓の上に散らばるパネルの破片を指で突き、そして顔の前に持っていき、指先についた白く細かい破片をしげしげと眺める。

「るーんるんるん☆」

 クラス中が注目している中、麻耶は、その指先を、

「パクっ」

 えーーーーっ!!!

「うーん、まあ大丈夫ケッチラ!! 有害物質汚染は許容レベルうババンボン☆」

 麻耶はそこで教卓上にある残りの破片をガサガサと集めると、それをノコギリや金槌とともにスカートの前の部分で包み、ヒラリヒラリと教室を出ていった。

「ち、ちょっと、あれどーすんの」

 福留が、教卓の真上に空いた天井の穴を睨みながら、その場からは消えた麻耶に言葉をぶつけていた。

「確かに。どーれ」定岡が下から天井の穴を覗く。

 都月も含めた数人が寄っていって教卓を囲み、上を覗き込む。しかし薄暗くてよく分からない。

「まあ、あとで教頭に報告しておくか。修理が必要だろう」

 と定岡が言うやいなや、教室のドアが開いて、白髪の用務員が入ってきた。大工道具と板、そして脚立を持っている。

「え、えーとですね、サンギョウイ?の麻耶先生から『緊急の応急事態で早急に即座に今すぐ!』とリクエストありまして。ちょっとよろしいですか?」

「い、いや、今まだ授業中なので、後でお願いします」

 定岡が断ろうとするも、用務員は譲らない。

「それがですね、やらないと、先生に怪我が発生するリスクがあるので、これが終わってからじゃないと授業の再開は許可できない、っていうんです」

「き、許可!?」

「さいです」

 定岡は絶句し「ちょっと自習にします」と言うなり怒った顔で教室を出ていってしまった。

 用務員は一瞬困った顔をしたが、「では」と言って脚立を設置して頂上付近にスックと立ち、淡々と天井を直し始めた。

「私がやるのは、単なる応急処置、ですから、そう、応急処置」ぶつぶつと独り言が聴こえる。

 都月は辺りを見回す。教室内は、雑談する者、問題集や教科書を見ている者、また用務員の作業を興味深げに眺めている者、様々だ。

 そのうちふと、麻耶や定岡のことが気になり、教室の出口に向かった。

「ちょ、ツッキー、いちおう授業中だし、教室から出るのはマズいんじゃないの?」

 福留が怒った顔で声をかけてくる。

 都月は目を合わせるでもなくニヤリとして手を振り、そのまま教室を出た。

 さて、どっちかな。

 廊下に出たものの、どちらに行ったらいいのかも分からない。

 用務員が来たということは、職員玄関のほうだろう。とりあえずそちらに向かう。

 ふと、曲がり角で振り返ると、まだムッとした顔で福留がこちらを見ている。

 女王様がお怒りか……。怖い怖い。

 都月は急いで階段を降りていった。


 一階まで下りたところに、麻耶がいた。手には何故か大きな分度器を持っている。

 いったいどこからそんなの持ってきたんだ。

「麻耶……マーヤ。いま、天井直してっぞ! いや、直してます」

「知ってるてるてる、テルモンド!」上半身を左右にゆすりながら応える麻耶。

「何してたんスか? 天井の、あんなとこで」

「あんなとこって、どんなとこぉ?」麻耶が目玉をメトロノームのように左右に動かしている。

「……マーヤ、いい加減にしてください。みんな振り回されてヘトヘトですよ」

「ほ、へ? みんな? 誰がケッチラ?」

「誰がって……」

 都月は「困っている人」の姿を思い浮かべようとした。

「ああ、あ、ほら、みんな勉強しに来てるわけだから。そう、騒がれると」

 改めて説明しようとすると、難しい。

「ふーむふむふむ、勉強しに来ている。みんな。みんな、ここには、勉強しにきていーる」

「そう、そうです」

「んー、それって、ほんとっち?」

「え?」

「みんな、ここには、この学校には、みなみな、皆が全員、勉強しに来てる、と。それって、ほんとのほんとに、ほんちっち?」

 麻耶が顔の前で指をチッチッと左右に揺らした。

 都月はイラッとした。

「おい、やめろよ、それ。バカにしてんの……ないでください」

 ふう。ギリギリのところで理性が勝った。

「おー、これはどーもゴザイマセーン」

 麻耶はブンっと音がするような勢いで頭を下げた。

 ズボッと緑色の物が落ちた。

 髪の毛だ。

「あーれーまー☆ いやっちダメっち外れっちぃ〜ん☆」

 急いで拾って頭に乗せる麻耶。

 呆気にとられた都月。ふと、理性が途切れた。

「なんでヅラなんてしてんだよ! 緑色の! 先生なんだろ? 大人だろ! なんでだよ! ふざけんなよ!」思わずヅラを掴んで引き剥がず。

「いぎやあ→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→→!」

 電車の警笛のような叫び声に、都月の怒りが粉砕された。

「あ、その、いや、あ」

 麻耶は両手で顔を覆うと、その場にしゃがみ込んだ。

 毛の無い丸い頭の頂上に、直径五センチほどの、黒くて大きな丸い、光沢のあるアザのようなものを見つけた。

「は!? い、いや、すみません。そんな、あれ?」手に持ったヅラを、慌てて麻耶の頭に乗せて、適当に押える。なんとかハマったようだ。ていうか、凄い耳鳴りがする。耳が詰まったような感じで、周囲の音がよく聴こえない。

 階上で大勢の人の気配がする。麻耶の叫び声に反応し、様子を見に教室から出てきているようだ。

 やばいッ!

 都月は麻耶の手を引くと、急いで図書室に向かった。

 普段、図書室は授業では使わない。今は誰もいない筈だ。

 麻耶は無言で俯いたまま、都月に引っ張られながら図書室に入っていった。

 図書室に入った都月は周囲を確認する。やはり人気はない。見回しながら、書棚の陰のテーブルに向かう。その場所は中央部にある照明の光が届かず、若干薄暗いスペースだ。

「ふう、ここなら」

 と言って、ふと我に返った。

 俺、一体何をしている?

 左手を見る。校舎内で、少女の手を握って、人気のない図書室の、薄暗いコーナーに引っ張り込んでいる俺。

 ……ってか、引っ張り込んだのは、少女つーか先生、いや、医者じゃん!

 急いで握った手を離す。

「あ、いや、す、あ、もう何が何やら」

 そばにあった椅子にへたり込んで両手で頭を抱え、自分の足元をじっと見る。

「ケッチラツッキー! う・ふ・ふ」

「……」

「う・ふ・ふ。ふふふ。ふ・ふ・ふ・ふっふっふっふっふーっふっふっふふっふー!」

 足元に麻耶の影が映る。それは何とも禍々しく感じた。

 いったい何なんだこいつは。

 出したり、消したり、消えたり、出たり。

「ツッキー…… ツッキー…… きこえますか…… きこえますか…… わたしは、産業医の、マーヤ…… あなたの、ココロに、直接、話しかけて……」

「も、もうやめてくれ!」

 目を見開いて顔を上げる。

 麻耶は、居なかった。

 !?

 慌て立ち上がってて中央部に行き、見回す。

 がらんとして人の気配もない。

 な、なんだ……??

 都月は急に不安とめまいに襲われた。そしてその場にへたり込み、意識を失った

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