三
「利根川さん、おかえり」
放課後のクラスミーティングが終了直後、教室に戻ってきた利根川を見て桜木が声をかけた。
「利根川さん、元気になった?」都月も一応、訊いてみる。
「うん。都月くんありがとう」利根川がニコリとする。
「風邪か何かかな?」
「うーん、よくわかんない」
「あ、そいや今日は下駄島先生も来てたから、診察とかあったのかな」
「ううん、別に。ただ寝てただけ。寝ながらスマホ触ってたら、いつの間にか眠っちゃってて、起きたらこんな時間で、風吹先生に挨拶して帰ってきた」
「えー、風吹先生、ずっと保健室に居たんだ」都月が驚いて訊く。
「わかんないけど。カーテン引いてたから」
「あ、そか」
そんな様子をニヤニヤしながら見ている桜木。
「じゃあ、部活だから。お大事に、お二人とも〜」
口をあんぐり開ける都月と、赤くなる利根川。
「え、そんなじゃない……よな?」
「そ、そんなって、どんなよ!」
赤い顔で怒りながら、利根川は机の中を漁って自分のリュックに詰め込むと、頬を膨らまして教室を出て行った。
なんだよ。なに怒ってんだよ。
都月は呆気にとられて自分の席に戻り、振り返る。
今朝、麻耶が居たあたりの席だ。確かに、そこに座っていた筈だが、そこは戸田の席だ。……だったはず。そして、戸田は、いつもどおり、居た。はず。そこに座って授業を受けているところも、おぼろげながら記憶にある。空席だったら、保健委員の都月がチェックしない筈がない。麻耶がクラスにいなかった時も、別に席は空いてなかったのだ。
ふと、目を横にそらすと、席に座ったままの岸島に気づいた。
「キッシー。今日って、戸田、居たよな?」
「おう。居たじゃん? さっきまで、そこに……いたよな。うん、いたいた。都月、大丈夫か?」
岸島がアゴで先ほどの隅の席を指す。
「だよなあ。いや、ありがとう。最近、休んでないよな?」
「誰がだ? 俺はよく休むぞ」
「いや、ごめん。戸田な」
「ん? 俺はそこまで知らん。あいつ目立たんしな。ってか保健委員だろ都月。しっかりしろ」
格好のせいかいつもより迫力がない岸島には、なんだか話しかけやすい。
「しかしこないだ、大変だったな。雨? か。体育館の屋根にいたの、キッシーだろ?」
「お、おう。いや、バレてたか。いや、アレも皆にバレてる?」
と言いながらタバコを吸う格好をする。
「それは分からないな。俺は見たけど」
「そうか。まあ、しゃーないな」
「ケムリだけだけど」
「なら証拠不十分だな」
ニコリともしない岸島。
「あれでズブ濡れになってたけど、大丈夫?」
「おー。ドバっと水を被った感じがして一瞬あーっと思って立ち上がったけどな。タバコ消えちまったし」
と言いながら、一瞬ヤベッという顔をする。
「消えた? 火が?」
「いや、タバコが。吹き飛んだのかな。わかんね。で、その後にドバッと」
「後に? タバコ消えた後に、雨?」
「いや、わかんねえ。雨ってんでもない。なんか、タバコが爆発して水になって、それ被った、って感じだ」
「なんだそりゃ?」
「だから、わかんねーって!」
岸島がイラついた顔になる。
「お、ごめんごめん。いやでも、無事で良かった」
「無事じゃなかったけどな」
「え?」
「あの後、校舎の窓に人集まってたから、やべえと思って慌てて屋根から降りようとして、足滑らせてくじいて地面に転がってドロだらけになった。着替えの分が今無くてよ。だからこんな格好だ」
岸島がジャケットの襟を両手で引っ張る。
「おお、でも、キッシーそれも似合ってるよ。学ランは、ゴツすぎだ」
「うるせー」
三割引の迫力で凄む岸島。
「学ランは俺の魂だ。文句言うヤツは、ここから出さねー!!」
と言いながら、ボクシングの真似をする。いつの間にか、シュッシュッと効果音付きだ。口で。
「そ、そうか、すまん! いや、学ランも似合ってるよ、マジで」
「なんだ? 言い直しやがって」
と言いながら斜め下を向く岸島。
「そう、キッシー。出席日数。大丈夫か? 結構休んでるけど」
「まー、その辺りは、計算してっからな。その計算だけは、なんだか知らねーが得意なんだ」
自嘲気味に語る岸島。
しかし高二のこの時期にこれじゃ、進学は大丈夫なんだろうか、と都月は心配になる。
「ってか、もう、この学校、やめよーっかな、なんてな」
天井を見ながら語る岸島に、かける言葉もない都月。外でタバコ吸うなんていう大胆な行動も、そっから出てきたんだろうか。
もし急にこのヤンキー岸島が学校から居なくなったら、なんだか凄く寂しいような気がしてきた。
「キッシー、辞めるとか言うなよ。なんだ。あと一年ちょいじゃんか。ずっと俺らの前で、学ランでイキってくれよ。そんなの、俺らの中ではキッシーだけだよ」
俺ら、という言葉で仲間意識を持たせたつもりだった。
「……おー。さんきゅー!」
語勢はあるが寂しげな表情で岸島は席を立ち、ちらりと教室を振り返るとそのまま出ていった。
「さてと」
都月は自分のリュックを持ち、部活のために図書室へと向かっていった。
都月は、読書部員だった。しかも、部長だ。
読書部員の放課後は早い。
着替えも、用具の準備も、ストレッチも、何もいらない。図書室に行くだけだ。
そしてそこで、黙々と読書をする。
都月は奥の書棚にまっすぐに向かうと、そこから一冊の本を取り出した。綾辻行人のミステリー小説だ。
読書部では、読むテーマなど特に制限もなかった。書評を書いたり紹介したりもしない。ただ、読んだ冊数のみカウントし、学期末ごとに集計するだけだ。そこでトップを取っても、特に何も起こらない。なので、読書部に所属していても本を一切読まず、図書室で勉強をしている者、広い机に突っ伏し寝ている者、似て非なる「書評部」「図書部」「文芸部」をひやかしたり手伝いをしたりする者と、てんでバラバラで、部活といえるものかどうかも判然としない。「部」の認可が続いているのが、顧問が教頭のターニャ増岡だから、というのもあるのかもしれない。
都月は、もともと読書が好きなのとスポーツが苦手なのもあり、また二年生になってからは進学のことも考えて、勉強でもしようかと読書部に入った。しかし結局、勉強をする気にもなれず、何となく奥のミステリーの棚を端から読み始めてハマってしまったのだった。
しかし今日は、なかなか集中できない。頭に入ってこない。文字を追い頭の中にイメージを立ち上げようとすると、教室をひらりひらりと動き回る麻耶の派手な姿がそれを上書きしてしまうのだ。
それに、二Cの教室と美術準備室での謎。教室の件は勘違いかもしれないが、美術準備室のほうは、入ってすぐに行方不明になっている。
手元にある綾辻の謎よりも、そちらの謎のほうが頭の中をグルグル回っていた。
今日はダメだ。もう帰ろう。
都月は綾辻を閉じると、また奥の書棚に向かった。本を元あったところに戻し、ふと図書室の反対側を見る。そこには、先ほど話をした岸島のジャケパン姿があった。
へー。岸島も、本なんか読むんだ。
一瞬考え、クラスメイトに対する偏見のような気がしてその思いを振り払った。
しかし、似合わない。イメージに全く合わない。
岸島は六人掛けのテーブルの上に大量の書物を置き、一心不乱に読んでいる。何をそんなに熱心に読んでいるのか。
興味をそそられ、近づいていく。
岸島は、近づく都月に気づきもせず、熱心に読みふけっている。眉間に皺がより、まるで本のすべてのページを眼力で焼き尽くそうとしているような、物凄い迫力だ。そして、眼が血走っている。
「き、キッシー」
思わず都月が声をかける。岸島は気づかない。一定のリズムでページをどんどんめくり、まるで飛び出すように開かれ充血した目が左右にリズミカルに動いている。
「キッシー、大丈夫か!」
あまりの異様さに、都月が岸島のジャケットに手をかけ、体をゆすった。
岸島の肩がビクっと反応した。
「あ、都月。どうした? なんだその顔」
さっきの迫力は消えている。
「い、いや、なんか、物凄く集中して何か読んでたから、何読んでんのかなーとか気になって、見に来たんだ」
「なんだそうか」
ふと岸島の机に広げられた本のタイトルを見る。
数学や物理学や哲学といった、どれも勉強モノだ。しかし、タイトルや図版からは、高校で習うようなものより遥かに高度なものに都月には思えた。
「キッシー、なんか、難しそうなの読んでるな……」
「ん、そうか?」
事もなげに応える岸島。
「……まあなんだ。いや、自分でもよく分からないんだが」
岸島が言葉を続ける。
「なんかさっき、教室で話してただろ。タバコが爆発したって。あの時、なんか頭に違和感あったんだよ。いつもの俺だったら、頭使うの苦手だから、ちょっと難しいこと考えると、すぐ疲れてイライラしちまうのに、あの後からなんだか、急にいろいろ考えたくなってきて」
「考えたく?」
「そうなんだ。で、学校でも廊下歩いてたら、ポスターの文字とか図とか、ガンガン頭に入ってくる。なんじゃこら、と思いながらあちこち見てたらよ、新聞、あんだろ、あの、図書室の入口の」
都月は図書室の入口横の壁に貼ってある新聞を思い出した。そこに、普通の朝刊の一面が張ってある。図書部や読書部の人間が、毎朝適当に張り替えているのだ。
「あれさっき、パッと目に入ってな。そしたら、一気に頭の中に、世界情勢が展開されて」
と言いながら、昨晩、欧州での複雑な経済と軍事協力の力関係の上で起こった事件を滔々と語り始めた。
「き、キッシー。なんだ、すげー詳しいな。意外……いや、すごい」
岸島は、都月の言葉に特に動じずに、続ける。
「いや、こんなの前は全く興味なかったんだよ。ニュースとかも観ないしな。新聞なんか、もっとだ。だけど、なんか急に、興味……じゃない。なんつーんかな。欲望、っていうのか」
「欲望?」
「いや違うな。欲求だ、欲求。そういうのがガンガン出てきて、なんかいつの間にかココに入ってた。こんなとこ入るの、入学以来だ。そんでそこの棚にある本を適当にめくったら、これがどんどん頭に入って」
岸島が指した本棚を見る。普段あまり人がいない、教育関係の書籍棚だ。高校の教科書を超える範囲の高度な学術書や、分野ごとの専門書、洋書などが並ぶ棚だ。
「読み始めたら、止まらなくなった。どんどん頭に入ってくる。それを材料に、どんどん考える。考えながらどんどん読んで、読めば読むほど、頭がはっきりしてくるんだ。こう、曇った窓を、スーッと拭いて後ろが見えていく、って感じだ。読んだ端から、頭ン中が、綺麗になっていく」
興奮して話し続ける岸島に、都月は圧倒されていた。
「美味しいんだ。文字が、文章が、グラフが、表が、数式が、図版が、解説が、論説が、証明が、ドキュメントが、韻文が、散文が、抽象的な表現が、すべてが美味しく頭にどんどん吸収されて無限に消化されていくんだ。いくらでも入る。いくらでも食べられる。満腹に、ならないんだ!」血走った目で語っている。
ヤバいぞこれ。わけわからんが、ヤバい。
都月は焦った。岸島をさえぎるように言葉を発する。
「で、でもキッシー、今日中にこんだけ読むの、無理だよ。無理すんなよ。急にそんな、心配だよ」机の上にある本の山を指す。
「都月、そっちは、もう読んだ分だ」
唖然とする都月は、岸島の顔に異変を見た。
鼻血が出ている。
「き、キッシー、は、鼻血」
岸島は左手で鼻の下を拭う。人差し指に血がついた。
「……なんだこれ」
「キッシー、すこし休んだほうが、いいって」
「そ、そうだな。どうしたんだ? 俺……」
眉間に皺を寄せ、目を見開く岸島。
「とりあえず……保健室に」
「いや、いい」
岸島が拒否した。
「保健室、苦手なんだ。家に帰る」
本の山を書棚に戻すのを手伝うと、都月は一緒に図書室を出た。
「大丈夫か? いや、あまりにも凄い読み方してたもんだから」
「い、いや、大丈夫だ。あ、ありがとな」
普段、孤立しがちな岸島だ。心配されることに慣れていないようだ。
「でも普通じゃなかったよ。目も血走ってたし、鼻血まで。やっぱ、病院とか行ったほうが良いんじゃ?」
「……病院も、苦手なんだ」
「なら仕方ないけどさ」
しばらく並んで歩き、校門で立ち止まる。
「じゃあ、俺、こっちだし」パンツのポケットに手を突っ込んだまま、岸島がアゴで方向を示す。
「ああ逆だな。じゃあ」
都月はそう言ってから、ふと思って言葉をつづけた。
「明日も学校、来いよ」
岸島はそれには応えず、右手をヒラヒラさせて去って行った。
翌日から二週間、岸島は学校に姿を見せなかった。
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