「利根川さん、大丈夫?」

 保健室の簡易ベッドに座った利根川に、都月が声をかける。

 横には、養護教諭の風吹裕子ふぶきゆうこが座っている。

「えーと、都月くん? 付き添いありがとう。あとは大丈夫。今日は午後から下駄島先生も来る日だし、ちょっと診てもらうから」笑顔の風吹が都月に声をかける。

「いえいえ、先生。委員ですし」

 都月はやや照れた。利根川は少し暗い顔をして座っている。

「じゃあ……利根川さん? しばらく横になっていてね」

 利根川は無言のままそのベッドに横になった。風吹が軽く目隠しのカーテンを引く。

 都月は、ちらりと利根川の顔を見ると右手を軽く挙げ、カーテンをよけて学校医用の椅子に向かった。

「先生、そういえば、今日、なんか、サンギョウイとかいう生徒……じゃなく、なんでしょう。先生? が、クラスに混じってきたんですが。緑の髪の。医者とか言ってたみたいで。それって保健室と何か関係あるんですか?」

 風吹は、少し考えて応えた。

「ああ、産業医ね。えーと、麻耶先生だったかしら。私も今朝のミーティングで校長からいきなり紹介されて、こっちもわけがわからないのよ」

「なんか、教室でみんなの姿勢チェックとかしてたみたいで。キケンとかアブナイとか言って。何でしょう、あれ……いや、あの先生」

「うーん、実は私も、産業医ってよく知らないのよ」

 と言いながら、机の上にあるノートパソコンで検索する。

「……従業員の健康を護るための、医者、ってところねえ。うーん。学校医の下駄島先生と何が違うのか、よく解らないのよね」

「そうですか。でも、医者は医者なんですよね?」

「そうみたい。医師、って書いてあるってことは、医師免許とか持ってるってことでしょうね」

「じゃあ、下駄島先生も同じじゃあ……」

「あ、でも」

 風吹が、思い出したように口を開いた。

「そう、ミーティングでも、なんか職員も増えたし、メンタルヘルス? とかも扱うのに、下駄島先生を手伝う、みたいな感じのこと言ってたわね」

「うーん、てことは、下駄島先生が来てないときに、保健室で治療とかしてくれると」

「どうなんだろう。下駄島先生も、ここで治療してるの、見たことないけど」

「運動会の時に、怪我の治療、してませんでしたっけ?」

 記憶を辿る都月。

「そんなこともあったかな。たまに、手当とかはするけど、それは私とか他の生徒たちもやってるし、よく分からないわね」

「そうですか……」

「昔、私がここの生徒だったころは、インフルエンザの予防注射とか下駄島先生が一生懸命やってたんだけどね。二十年くらい前だわ。でも今は、学校では予防注射しないし。残るは内科健診くらいかなあ。でもその時には、今でも専門の先生が何人か手伝いに来るのよね」

「じゃあ、何のために……そういえばさっき、階段の段差とか測ってましたよ」

 先ほど金属のものさしを使って階段で作業をしていた麻耶の姿が頭に浮かんだ。

「段差?」

「そうです。よく判りませんが。十七てん何センチとか、言ってました」

「……なんだろう、それ」

 二人で悩んでいたところに、保健室の入り口が開いて、頭の薄い小太りの男――下駄島医師が入ってきた。赤ら顔でニヤニヤしている。

「いや、こんにちは。今日は産業医の先生が来てるとのことで、美人の風吹先生とミーティングがてら、ちょっとご挨拶に、へへへ」

 と言いながらキョロキョロ周囲を見回す下駄島。

「こんにちは」

 風吹の言葉につられて反射的に都月も頭を下げてしまう。

「あ、麻耶先生は、さっき、生徒入り口近くの階段のとこにいましたよ」

 頭を上げた都月が下駄島に伝える。

「あ、そう。じゃあ、もうすぐ来るかな」

 下駄島は、机からすこし離れたところにあった灰色の回転椅子をひきずって来て座り、黒くて分厚い革のカバンからファーストフードの包を出した。「へへっへ、今日の弁当だ!」と言いながら中からハンバーガーを取り出してパクつく。

 都月の鼻に、チーズとケチャップの香りがプンと届く。

「下駄島先生、えーと、さっきも風吹先生と話してたんですが」

 ちらちらと入り口のほうを気にしながら都月が訊く。

「ん? なんですか?」

「産業医、って、学校医と違うんですか?」

「あー、それね」

 下駄島は、もう三分の一ほどになっているハンバーガーを片手に持ったまま、答え始める。口の端には、ケチャップがついている。

「産業医って、あれだ。会社とかで、社員の健診の結果をアレコレしたり、呼び出して面談したり指導したり、っていう」

「それ、下駄島先生もやっておられますよね」

「まあ、一応そうだが、名前だけ……いやいやゲフンゲフン、うん、なんか最近ね、メンタルヘルス? とかいろいろ出てきて。ストレスチェックとか。これからこの学校でもそこに力いれてもらえないか、って校長先生からも言われたんだけどね。ボク、ほら、内科医だし。あんまそういうの、得意じゃないんだよね。いや、出来なくもないけど、力をいれる、ってまでいわれると、そこまでちゃんとは。クリニックの関係もあって、これ以上来れないし、って感じで」

 慌てた様子で残りのハンバーガーを口に押し込むと、カバンの中から缶コーヒーを取り出し、パキッと開け、ぐびりと飲む。一瞬甘ったるいコーヒーの香りがして、都月は空腹を思い出した。

「メンタルヘルスってことは、カウンセリングもしてくれるんですかね。カウンセラーの矢田やだ先生みたいに」

「ああ、どうなんだろ。頼めばやってくれんじゃない? しらんけど〜」ニヤっとしながらチラチラとこちらの反応を見ている。

「……じゃあ、やっぱ何のために来てるのか」

「あ、うーん。ていうか、そいや産業医って、診るのは生徒じゃなくて」

「へあ〜い、おまたっせ〜しましたか? 何をたっせ〜、しましたか? ババンボン」

 下駄島の言葉を遮るように、ドアが開いた。

 麻耶が、目を剥いて驚いている下駄島にモンロー・ウォークで近づき、両手をクネッと曲げてエジプトのパピルス絵に描かれたイラスト風のポーズを取った後、甘い声を発した。

「下駄島センセ〜。五十歳既婚の、下駄島センセ〜。鴨鍋学園の嘱託学校医歴二十二年の、下駄島センセ〜 体脂肪率、三十二パーセント、アダ名は、ボヨヨンマン」

「ちょ、き、きみは、え、大丈夫かね?」

 缶コーヒーを手に持ったまま、下駄島が目を見開いている。

「あ、おっくれて申し訳、ないでース☆ ワ・タ・ク・シが、件の産業医、嘱託なのに常駐する、サ・ン・ギョ・ウ・イの、マーヤこと、麻耶ミホロボッチ、ケッチラ!!」

 言うやいなや麻耶はウインクし、右手で力強くサムアップする。

「産業医……って、え? なに、それコスプレ? 産業医のじゃなく、なんだ、え、生徒の? この格好は? どうして?」

 混乱している下駄島に、風吹が説明する。

「えー下駄島先生、この子……人……いえ、方が、産業医の麻耶先生だそう……です。いや、私も今日始めて知ったんです。朝の教員ミーティングで紹介されて」

 横では麻耶が腰に手をあてて目を閉じ、大きくウンウンと頷いている。

「……ああ、君が。そうか。昨日急に校長先生からメールが来てね、今日は産業医が来るから風吹先生とのミーティングついでに顔合わせでも、て。そうか、君か。……って、風吹先生、ほんとに?」

 ようやく缶コーヒーを机の上に置いた下駄島が、未だ信じられないといった表情をする。

「とにかくミーティングでは、校長は、そう言ってました」

「……の、ようです」と都月。

「さっきうちのクラスでも、定岡先生にそう紹介されました」

 麻耶がまだ、腰に手をあててさらに大きくブンブンと頷く。緑色の長い髪の毛がチアリーダーの持つボンボンのようにバサバサと音を立てる。

「……ていうか、その、君は、何というか、とても、えーと、とても、お若い」目を見張りながら、下駄島の目が麻耶の姿を上から下までゆっくりとトレースし、そしてまたじっくりと上に戻って緑色の髪の毛で止まった。

「十八ですから」

「なるほど。そうですか。それなら」

 下駄島が動かなくなってしまった。

「え、先生、下駄島先生!」

 風吹が下駄島の肩をゆする。

「……ちょっと、すまん。食あたり、かな。いやあ、血糖値も最近。ちょっと、ボウっとしたようだ。横になってもよろしいか」

 そう言うと下駄島はよろりと立ち上がり、奥にあるカーテンを開く。

「あ、下駄島先生。こんにちは」利根川が慌てた様子で挨拶する。

「……」

 下駄島は、無言でカーテンを閉じると、くるりと向き直って回転椅子に戻り、ストンと腰を下ろした。

「……さあ、ミーティングを始めようか。そう、ミーティングを」

 ミーティングミーティングと小声でぶつぶつ言いつつ、カバンから黒い表紙のノートとボールペンを出し、机に置いた。風吹も慌てて机の上のノートを開く。麻耶は、ニコニコしながら二人の間で腰を左右にユラユラさせつつ立っている。

「あ、すみません。じゃあ、僕はこれで。じゃあ利根川さん、ゆっくり休んで」

 カーテンの向こうにいる利根川に声をかけ、都月は保健室を出た。ふと廊下の時計を見る。

「あ、学食行き損ねた……」

 三階の売店を目指し、都月ははずみをつけて階段を駆け上った。


 午後一発目の授業は、美術だ。

「今日の、お題は、コレでいきましょう」

 美術教師のフランソワーズ・マオが、今日も授業の冒頭から粘土の彫像を三つ、見せてくる。美術部の友人によれば、粘土の彫像はマオの趣味だとのことだ。今回のようなデッサンやクロッキーといった授業では、それを幾つか自宅から持ってくる。というか、学校に置いていく。どんどん増える粘土像は、年に一回くらいのペースで半分くらい破壊され、「材料」となってまた持ち帰られている。

「先生、これ、なんですか」

 珍しく普通のジャケパン姿の岸島が、粘土像の一つを指してマオに問う。学ランは、数日前の「にわか雨」でずぶ濡れになって以降、着ていないようだ。

「これは、ね。ふふ、ふふふ」

 謎の言葉を残して去っていってしまった。

「えー、これ、どれも似たようなもんだし、何だかわかんないと、描けないよ。普通デッサンってさ、モノの形をしっかり捉えるためにやるんじゃないの。ギリシャ彫刻とかで。なのに、これ、どうすんの」

 福留が粘土像に近づき、同意を求めるようにこちらを振り向く。

 他の皆も、そうよねえ確かにそうだそうだ、という雰囲気だ。

 確かに、デッサンの最初のころは「普通の」静物を描かされた。二回目三回目あたりから雲行きが怪しくなり、マオが自宅から持ってきた粘土像を描かされはじめた。五回目の今回は、何とも「形」もへったくれもない、不定形とも抽象的とも何とも表現のしようもない物体を、三つ提示されて「好きなのを描いて」と放置されてしまった。

「桜木、もう桜木がモデルになれよ。その方が授業になるよ」

 岸島が桜木に向かって大声を上げた。桜木は笑いながらも右手を顔の前でヒラヒラさせて「いやいや」する。

 まあ、岸島の気持は分かる。みゆちゃん、可愛い。できれば自分も桜木を描きたい。

「岸島くん、私じゃいけなくって?」

 福留がニヤニヤしながらクネる。

「は? お前? 要らんよ!」

「あ〜らそう? そいや岸島くんって、桜木さんのことが好きなんだっけー?」

 岸島を小馬鹿にするように、福留が目を左右に動かして挑発する。

「う、うるせー……」

 顔を赤くする岸島。桜木も居心地が悪そうな顔になる。

「な〜にマジになってんの。岸島くんって、学ランじゃないとなんか、迫力ないよねー」

 岸島が黙ってしまう。

 確かに今日のジャケパンでは、いつもの硬派な迫力は無い。ただの「お客さん」か、せいぜい「教育実習生」だ。

 と、急に空気が変わった。

「ひょお〜お〜お! あれ、フランソワーズ・マオ先生通称マオちゃん五十歳はぁー?」

 美術室のドアが開いたと思った瞬間、バレリーナのように回転しながら麻耶が入ってきた。手には何故か巻き尺を持っていて、それをリボンのようにヒラヒラと振り回している。

「あー、マーヤ先生、マオちゃんは……」都月がとっさに答えてしまう。

「マーヤ」巻き尺をピタリと止めた麻耶が口を尖らす。

「……マーヤ、マオちゃん、いやマオ先生は、なんかコレ置いて出ていっちゃって」

 粘土像を指す。興味深げに眺めながら、麻耶が問う。

「……これ、食べるの?」

「え、食べる?」

「えょえょえょ! ちょっと違うケッチラかも〜☆」。

「食べるって、これ、食べる!?」

「そうそう」そう言うと、麻耶が粘土像に指を突き刺した。

「あ」

 デッサンしている数人の目が点になる。

「どれどれ」

 麻耶は、抜いた指をちらりと見ると、ペロリと舐めた。

「え」周囲の生徒たちの口がぽかんと開かれた。

「……ケイ素と水と脂肪とアルミと鉄の混合物ケッチラよね? まあ、大量に食べなきゃ大丈夫で大安心☆」

「粘土よこれ! 土よツチ、泥よ、ドロ!! 食べるわけ、ないでしょ!!」

 福留が何故か怒った顔で麻耶につっかかっていった。

「あー、うーん、いや、あれ? 違うか。えーとぉ、ツッキー都月く〜ん☆、準備室とかどこケッチラ?」

 こっちに振られた。仕方がない。

「準備室? 何かするんですか?」

「いや、あの、その、測……測らないと、測らないと!」

 そう言うと麻耶は壁伝いにユラユラと歩いていき、そして「美術準備室」と書かれた扉から吸い込まれるように入っていった。

「ちょ、ちょっと勝手に」

 都月が慌てて後を追う。美術準備室は雑然としており、またそこかしこに石膏像や薬品類もあることから、教職員と美術部員以外は原則として入室出来なくなっていた。

 出入口のドアを開ける。中は薄暗い。

 あれ?

 振り返ってみる。確かにここに入った……ように見えたが。

 ドアの横にあるスイッチを入れる。チカチカと数秒点滅してから蛍光灯が点いた。窓の遮光カーテンが引いてあり、そのせいで薄暗かったのだ。

 都月は中に入り、見回す。

 どこだ?

 出入り口は一箇所のみ。雑然としてはいるが、棚の類は壁にピッタリ沿って設置してあり、大きな物陰などは無い。棚と壁に沿って、静かに歩いてゆく。

 先ほどの遮光カーテンがユラリと揺れる。そっと近づき、カーテンをめくった。窓が開いていた。

 まさか、ここから……?

 三階の窓だ。飛び降りれば骨折するだろう。普通はやらない。よく考えればマーヤは教職員……? ってことは、別に入っちゃいけないわけじゃない。まだ準備室に居たとしても、別にいいか。ずっとここにいたら、逆に俺のほうがまずい。マオちゃんに怒られる。

 急いで出る。

「……あれ、なによ。全然医者らしくないし。それになんか、端的にいって、邪魔」

 組んだ腕も逞しく、ボス然と語る福留。横では福留の舎弟……いや友達数人が、ウンウンと頷いて聞いている。

 その後もしばらくザワついていた美術室だが、そこかしこで粘土像を囲んでデッサンが始まった。福留達もその空気を感じて、仕方ないなという表情で粘土像の一つに椅子を寄せ、スケッチブックに鉛筆を走らせた。

 都月は、一番人気の少ない粘土像に椅子を寄せると、じっと像を見つめながら、頭では他のことを考えていた。

 麻耶って、何者だ?

 出口の無い美術準備室に入って、消えた。そして初めて教室で会ったときも、誰のでもない椅子と机に、まるで何事もなかったように座っていた。都月は今学期の保健委員だったので、欠席の生徒を確認していた。今日は欠席は誰もいない筈。なのに、席に座っていたのだ。

 これは、怪しい……

 都月は何となく落ち着かず、結局その時間でデッサンが完成しなかった。

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