プロローグ
十七歳の
教壇では、クラス担任でもあり数学教師でもある定岡が、なにやら理系の呪文をもごもごと唱えている。都月はそれが理解の範疇を超えたことを認識すると、左手を顎にあてて窓の外に視線を移した。そして脳に溜まったゴミを次々と窓の外にある噴水に捨てていく。
ふと視点を上に流す。今日はいい空だ。雲ひとつ無い空よりも、うっすらと雲がある空のほうが好みだ。そのほうが、そこにちゃんと「空間」や「空気」があるような安心感を覚えた。
さらに視点を移動する。学校の真上近く……空の何箇所かに見える薄い巻積雲の一つには、気流の関係で出来たと思える雲の穴――「パンチホール」が見える。
そのパンチホールから少しずつ地平線のほうに目を移していく。
校舎の五階からの眺め。遠くに霞んで見えるコニーデ型の山から、手前にあるビジネス街の地味で冷たいビル群。少しにぎやかで色とりどりの看板のある商店街を経て、そしてやや低層の住宅街を通り、この私立鴨鍋学園高等部の敷地に至る。正面の黒い鉄製の校門は開かれているが、夕方にしてはまだ早いこの時間に、人影はない。普段、守衛が立っている横の小さなボックスの中にも人影は見えない。座って休んでいるのだろうか。
校門から校舎までアスファルトで舗装された通路の左側には、何本もの幾何学的な白い線が引かれたグラウンド。グラウンドには、どの学年かは判らないが、トラックを集団で延々と走っている生徒が見えている。グラウンドの反対側には、やや扁平な緑色の四角錐――体育館の屋根が見える。その押しつぶされたピラミッドの頂上部にあるドラム缶ほどの大きさの突起の塗装は、やや色あせ……?
なんだろう。
一瞬、突起の陰に誰かがいたような気がした。しかしここからは、ちゃんと見えない。
気のせいか?
それでもじっと見ていると、その突起の横から、何やら白っぽいケムリのようなものが出ている。それも断続的に。
タバコか……。ひょっとして、
岸島次郎は、この私立鴨鍋学園高等部では珍しい「ヤンキー」だ。鴨鍋学園は県内トップ校ではないが、卒業生のほぼ全員がどこかの大学に進学する、いわばローカル進学校だ。しかし別に進学校でなくても、近頃はこんなヤンキー丸出し高校生は絶滅危惧種となっているだろう。
そのヤンキー岸島は、都月と同じ二年C組の生徒だった。とはいえ、クラスメイトに乱暴狼藉を働いたりはしない。素顔は端正な顔立ちのようだが、いつも眼光が鋭く表情も硬く、態度も話し方も他人を寄せ付けない雰囲気のため、ほとんどの生徒達からは距離を置かれてしまっている。学校外で喧嘩をしていたという噂話があったりもするが、警察沙汰になるようなことも無いようだった。もっとも、それは表に出ていないだけかもしれないが。
鴨鍋学園に制服は無いが、基準服なるものが決まっていて、ほとんどの生徒がその基準服を着て登校している。男女とも紺のブレザー、それに女子はエンジ色のチェックのスカートとエンジのリボン、男子はグレーのパンツとエンジのネクタイだ。ところが岸島は、なんと「学ラン」を着て登校していた。詰め襟の黒服の前をはだけ、白いシャツを見せながら、ゆらゆらと歩いて登校していた。
そしてタバコ。昭和か。
しばらくその屋根の突起をじっと見ていると、やはり背後からケムリが断続的に出てくるのが見える。丸見えだ。さすがにここまで大っぴらにやってバレたらまずいのではないか。
と、そこに、視界の右端から何か光る「カーテン」のようなものが走ってきた。
〈ぶわっ〉
窓の外の景色が、教室の前のほうから凄いスピードで真っ白に染まり、窓ガラスがガババババと震え、そしてすぐに去った。外は晴れたままだ。
「な、なんだ?」
教室がざわめく。
都月は思わず半立ちになり、外のあちこちを見回す。
他の生徒たちも同様に立ち上がり、一部はバラバラと窓辺に駆け寄ってきて都月と同様に不安げな表情で窓の外を注目している。
定岡が窓辺に近づいて来た。水滴の付いた窓の外をちらりと見て、一言「にわか雨」と言うなり腕時計を見た。
「あー、もう時間なので、今日はこれまでにしますっ」
定岡は教室のほうを振り返って宣言したが、声の割にクラスのざわめきは収まらず、やれやれといった表情で教卓の上にある教科書をひっ掴むと、片手を上げてそのまま出ていってしまった。
「な、なにー? 窓ガラス、濡れてる。外……体育館の屋根も濡れてるっぽい。にわか雨? あんな、一瞬だけ?」
いつの間にか都月の隣に来ていた
み、みゆちゃん、可愛い。
思わず見惚れる。
都月のクラスは男女比が一対二だが、その多数派女子のなかで男子に最も人気なのがこの桜木だった。
「ねえ、あそこ見て」
桜木が誰にともなく声を上げた。窓の外を指差している。
都月はあわてて目線を桜木が指した方に向けた。
体育館の緑色をしたトタン屋根が、先ほどの「にわか雨」で黒っぽくツヤ光りしている。そして突起の横に、学ランの男――岸島が呆然と立っていた。
びしょ濡れのようだ。
「き、岸島……」
窓辺に集まる生徒たちの視線を感じてか、岸島が一瞬振り向くのが見えた。が、すぐに隠れるようにして「ピラミッド」の向こう側へと消えていった。
ふと通路を挟んだ反対側、グラウンドのほうに目を移すと、そこは全く濡れていないようだった。
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