Hello World 9

「んーっ!」


 朝の澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込みハローは伸びをする。朝日で白む空と水平線を見渡していた。


 身に纏うのはアルゴ謹製の飛行服。灰色を基調として縫製されたそれは高高度の低温にも耐え、尚且つ頑丈。特に手足の末端の靴と手袋は薄く飛行機の操縦を妨害しないが熱は逃がさない。首からかけたゴーグルには、宇宙船の素材としても採用可能なレベルの頑強なプラスチックレンズがはめ込まれている。

 七年前、ハローと出会い、人生を変えた一頭の竜。彼女のいる場所へと旅立つのだ。この、アルゴの作り上げた飛行機と共に。


『ハロー、荷物は全て揃っていマスカ?』

「ああ、ばっちりだ」


 飛行機の操縦席下部、足元には七日分の水と食料、そしてナイフやスキレット、釣り竿、海水の簡易的な蒸留器、固形燃焼材など、最低限のサバイバルキットも揃っている。飛行機自体も海面に着水できるように設計されており、仮に長期間の旅となってしまっても最悪現地で水も食料も調達できるだけの準備は整えている。


「てかさ、この飛行機名前とかないのか?」


 群青色の甲板をコンコンと叩きながらハローは問いかける。


「これからアルゴの代わりに長い事俺を支えてくれる飛行機なんだ。名前ぐらいあってもいいんじゃないのか?」

『名前……』


 一瞬、ハローのアイレンズが揺れた気がした。


『ハローワールド』

「はい?」

『ハローワールド。それがこの飛行機の名前デス』


 聞き返すハローにもう一度アルゴは言った。思わずアルゴと飛行機を交互に見る。


「なんで俺の名前がついてんだよ」

『私の願いだからデス』

「いや意味わからんけど」


 首をかしげながらも飛行機の操縦席に手をかけ、フラップから一気の飛び乗る。計器のスイッチを入れ油圧、電圧計をチェック。全ての数値が正常であることを確認しエンジンを起動する。


「あ、そうそう。アルゴ!」


 回り始めるプロペラ。エンジンとプロペラ音にかき消されないよう、大きな声で叫んだ。


「今日までありがとうな! 本当に感謝してる! また土産話をいっぱい持って帰ってくるから、この島で待っててくれ!」

『……ハイ』

「そんじゃ行ってくる!」

『ハロー!』


 操縦席のカバーガラスを閉じようと手をかけたその時、アルゴが似つかわしくない大声を上げた。


「どしたよ」

『……体に気を付けてくだサイ』

「……? おお」


 カバーガラスを閉じ、エンジンの出力を上げる。プロペラの生んだ推進力により機体が前へと滑り始める。

 やがて翼が揚力を生み、ハローワールドは大地を離れる。その姿を、アルゴはずっと見送り続けていた。


          @@@


 高度三千メートル、気流の激しい高度を超えて安定飛行に入ったところでハローは一息つく。

 飛行を始めてから二時間、ハローは眼下に広がる海を見下ろしながらエンジンの出力を落とす。風に乗り、速度も乗っているこの状態ならしばらくは滑空するように飛んでいける。


 夢にまで見た旅立ち。これほど島を離れたのも生まれて初めてだ。どこを見渡して

も水平線というこの状況にハローは目を輝かせていた。


 ……というのも、最初の三十分ほどの話。


「飽きたな……」


 ぼそりと呟いてコックピットのシートに寄りかかる。食糧も水も燃料も不自由はしない。ただ、如何せん娯楽がない。長旅になると分かっていたのだ、島にいた頃はそこらを歩き回っているだけでやることが山程あったので、退屈など考えもしなかった。


「周りの景色も代り映えしない……唯一の変化はあれだけか」


 後ろを見ると、ハローが生まれ育った島が水平線の彼方にかすかに見えていた。しかしもうここまで来ては殆ど点のようにしか見えない。

 ずいぶんと遠くまできた。あとはもう、前に進むだけだ。そう思って前方に目を向ける。


 視界の端で、小さく赤い光が瞬いた。


「? なん――」

 

 瞬間、機体全体の甲板をバラバラにするような衝撃波がハローワールドを突き抜けた。


「ッ⁉」


 衝撃波が内臓を揺らし、次いで音がビリビリと操縦席に響き、最後に一泊遅れてやってきた爆風が機体を揺らした。

 安定を欠いた機体が揺れる。バランスの崩れに即座に反応。

 慌てて高度を上げようとすればまともに風を受けてひっくり返る。ハローは迫る海面に肝を冷やしながらも冷静に体勢を立て直し、風をいなしてバランスを取った。


「なんだ今の! 何、が……」


 思わず振り返り、ハローは言葉を失った。


 ハローの生まれ育った島が、この位置からでも分かる程に轟々と燃えている。


「――……ッぁ」


 言葉は出なかった、だた体だけが反応した。燃料の温存など無視、機体への負荷すら頭から離れ、ハローは火を噴くほどにエンジンの出力を上げて飛ぶ。


「なんで! なんでなんでなんで!」


 心臓が早鐘の様に鳴り、恐怖で視界が狭くなる。時速九百キロを超えていた。それはプロペラ機が出すことのできる物理的な限界速度。しかしそれですらあまりにも遅く、アルゴがいる島は見る間に紅蓮の光に飲み込まれていく。


『ハロー、聞こえますカ?』

「ッ! アルゴ⁉」


 操縦席から声がした。それはアルゴの声だった。


「大丈夫なのか⁉ アルゴ! そっちは!」

『こんな形でメッセージを残すことになった事をお許しくだサイ。ですが、このメッセージが届いているということは、きっと無事に島から旅立つことが出来たのでショウ』

「っ……」


 録音だ。ハローの声はアルゴに届いてなどいない。


『七年前、私は近海で海底火山の噴火の兆候を観測しまシタ。元々ありとあらゆる気候変動に対応できるように設計されていた私ですが、今回の噴火は抑えることが叶いませんデシタ。島そのものが消える……それは不可避でシタ。


 ですが、希望もありました。噴火の発生には最低でも七年は必要。その後およそ二十年以内に噴火すると分かったのデス。


 そこから私はハローの旅立ちを支援することに決めまシタ。ですがただ島から逃がすのでは不十分。私が島から出られないのなら、島から出ても一人であらゆる環境を生き抜けるよう、ハロー自身も成長する必要がありまシタ』


「ああ、ああああ……ッ」


 尚も風を切り空を貫いて飛ぶ。既に速度は臨界点に到達している。だがそれでも、もどかしいほどに遠い。


『貴方は無事、七年間でどこでだって生きていけるまでに成長しまシタ。ですが、ハローはきっと、いつか戻ってきた時にこの島がなくなっていれば絶望してしまウ。なので私は噴火を前倒しにし、今この場で果てることを選びマス。


 ……こんな手段を取ることを許してくだサイ。きっとハローは、怒っているでショウ。ですが、私は貴方がいない世界の七千年は耐えることが出来ても、貴方がいた世界の十年は耐えられなかった』


 声が掠れる。体が震え、心の中の何か大きなものが抜け落ちていく。

 焼き尽くされていく島を前に、ハローはアルゴのその言葉を聞いた。


「さようなら。私の事は、どうか忘れてくだサイ』


 ぶつりと、録音の音声はそこで途切れた。気が付くと、何か耳障りな音が操縦席に響いていた。


 しばらくして、それが自分の嗚咽の音だとい気づく。


「あああ……あああああああああッ! ああああああああああ‼」

 

 この日、ハローは自由を手に入れた。どこへでも迎える翼と、力を。

 そして同時に、掛け替えのないものを失った。

 

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