第1章

Hello World 1


 まず思ったのは今まで感じたこともないような浮遊感に対する驚き。そしてその後すぐに、しまったと思った。


「やばい……どうしよう……」


 木の根が石に生した苔の様にのさばる舗装道路の上で、小さな少年は大の字になって倒れこむ。

 少年の名はハロー。年齢は今日で九才、まだ手足も伸び切っていない小さな男の子である。


 九歳の誕生日、親代わりにハローの面倒を見てくれるアルゴとささやかに誕生日を祝っていたのだが、アルゴが居住区の外壁補修に離れたのを見計らって家をこっそりと出てきたのだ。

 狭い島とは言え人間がたくさん住んでいた場所には必然的に背の高い建物が多く、そこは危険だからと近づくことを禁止されていた。だが行くなと言われればどうしても気になってしまうのが子供の性質であり、そしてそれが間違いの元だった。

 

 やってきたのは遥か昔に他の人間たちが暮らしていた集合住宅地。狭い島内にたくさんの人を収容するために必然的に雨後の筍の如く背の高い建物が乱立し、しかもそれらは時間の流れと樹木の生長に飲み込まれ遺跡と成り果てていた。


 そして運の悪いことに建物の内部構造はまだ生きており、おっかなびっくり木の根をかき分けて建物の中を上り、地上数十メートルの高さの屋上にまで登ったはいいが、手すりから身を乗り出した瞬間立っていた足場ごと崩れて滑り落ち、今に至る。


 幸いにも落下した先には背の低い若木が生えていて、その梢が緩衝材となってなんとか大怪我だけは避けられた。だが、


「痛っっっ!」


 立ち上がろうとした瞬間右足首に激痛が走った。痛覚神経を直接刺激されたような鋭い痛みに涙が浮かぶ。とてもではないが立ち上がれそうにもない。


「アルゴー。ねえアルゴー? いるー?」


 上半身だけを何とか起こして呼びかけるが、声はコンクリートの森の中に空しく反響するばかり。というよりは自分でアルゴを撒いたのだから助けなど来るはずもない。

 だんだんと不安になってきた。もしかしたらここで自分はだれにも見つからずに死ぬのではないかと焦りだしたその時、鼻先でぽつりと水滴が弾けた。


「げ」


 冷たいと思った次の瞬間にはもう雨は本降りになり始めていた。ハローは痛む足をかばいながらノロノロと廃ビルの軒先へと這って行く。その間も刻一刻と雨は強くなり、軒先に入る頃にはあっという間に視界を覆いつくすようなスコールへと変わっていた。

 元々この島は天候が変わりやすい。しかし今日の雨はひときわ強く、雨は次第に風を引き連れ、ものの数十分も経つ頃には雷鳴を伴った嵐へとその様相を変えていた。


 ……そう言えばアルゴが外壁補修に出た理由って、低気圧が迫ってきてるからだとか言ってたっけ。そう今更ながらに思い出しながら膝を抱える。何かしていないと不安で潰れてしまいそうだが、吹きすさぶ雨音が恐ろしく動き出せない。

 そうしていると、次第に噴出した不安が嗚咽になって込み上げてきた。


「ひっぐ……アルゴぉ……」


 顔を肘の間に埋めながらハローは涙があふれる目を抑える。まだ時刻は夕方の筈なのに、降りしきる雷雨のせいで辺りは夜のように暗い。軒から僅かにのぞく空は黒雲で闇夜の様に黒く、時折ひび割れる様に走る稲光が朧げに雲の輪郭を映し出していた。

 あんな事するんじゃなかったと今更ながらに後悔が過る。と、その時ハローはその音に気付いた。


「……? 今のって……」


 最初は雷鳴かと思った。だが雷鳴よりももっと低く、腹に響くような音。というよりは唸り声に近い。しかし雷鳴と間違えるような巨大な咆哮など聞いてこともない。

 恐る恐る空を見る。相も変わらず暴風雨が唸りを上げ、その奥では雷を伴って黒雲が空を覆いつくしている。しかしその奥、稲光の中にハローは飛来する影を見た。


 影は高度を落とし、輪郭はハローの目にも少しずつはっきりと見えるようになっていく。

 鈍色の巨大な翼に嵐を吹き散らすような長大な尾。翡翠色の眼光は嵐の闇の中でもはっきりとその存在を示している。


「ドラゴン……?」


 ハローが呟いたその瞬間、雷鳴すらかき消すほどの大方向があたり一帯をつんざいた。

 びりびりと建物そのものが揺れる。思わず硬直するハローだったが、さらにドラゴンは降下を続け、ハローのいるビルの目の前にズンという音を立てて着地した。

 大きい。尾を含めれば全長十メートルは下らない。夜の様に透き通るコバルトブルーの胴体。翼の関節部分には人間の胴体ほどもありそうな橙色に光る金属板が明滅していた。


 姿形はアルゴからおとぎ話として聞いていたドラゴンの姿そのもの。しかしその翼は見たこともない機械で形作られ、そしてドラゴンの体と機械の翼は相反しているはずなのに美しいほどに継ぎ目なく接合されていた。


『やばいやばい。流石にこれじゃ飛べないや』


 最初ハローはそれが、目の前のドラゴンから発せられた声だとは思わなかった。そして次の瞬間、目の前のドラゴンの体が藍色の光に包まれた。

 視界全てを塗り潰すほどの光。そしてその光が消えたそこにドラゴンはいなかった。だが代わりに、一人の女性が立っていた。

 すらりと長い手足に雨の中で水を弾くように白い肌。人間離れした美しい顔立ちに加え、その瞳と髪は竜の体と同様に藍色の宝石の様に透き通って見える。


「ふへー、ん? あれ?」

「っ」


 その時、その女性と目が合う。相手はハローの顔を見て目をぱちくりとさせる。


「少年、こんなとこで何してんの?」


 それはハローが、生まれて初めて出会うアルゴ以外の意思疎通ができる存在だった。 


       

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