プロトタイプ
空中逆関節外し
あるいは神が生まれるその夜に
鉄の翼が風を切る。白く塗り潰される視界の中で、鋼の竜が一度羽ばたく毎に氷晶が叩き散らされ雲を貫く轍ができた。
鋼の竜の背に跨り、その操縦桿を握る少年は凍り付いて砕けそうな指先でさらに強く操縦桿を握る。一秒たりとも静止しない、矢のように抜けていく雲の切れ間の中で、風を読むその眼光は紫電にも似ていた。
時速は既に亜音速の域に到達している。猛烈な風圧と雲の中で脈打つ雷霆に精神を削られる中、それでも少年は一瞬、一轟たりとも意識を緩めず鋼の竜を駆る。
「ウィンッ! 奴らは!」
叫ぶ少年に竜は唸り声を一つ上げて応えた。その瞬間、雲海の切れ間に黒い影が走る。
次の瞬間、黒竜が白の帳を引き裂いて襲い掛かってきた。
「――ッ!」
即応。大気に尾を引く眼光を幻視しながら少年は即座に竜の翼を翻し、竜の鼻先を軸にバレルロール。
鋼の翼をもつ竜の体が自らの速度と乱気流に煽られて、吹き散らされる木の葉のように旋回。その直後に彼らのいた場所を黒い竜の牙が噛み切った。
『ハロー!』
背中に組み込まれた操縦桿から直接脳内に声が響く。幼い、まだ二十歳にも満たない少女の声にハローと呼ばれた少年は舌打ちで返す。
「いちいち叫ぶな! 次が来るぞ!」
『何よそれ! こっちは心配して――きゃっ⁉』
少女の声を遮ったのはハローが急激に切った舵だった。操縦桿を折れんばかりに引き、それに応じて機龍の翼が本体の意思とは無関係に風に対して帆を立てる。雲の中で機龍の体は風の抵抗をまともに食らって後方へと吹き飛ばされた。
ハロー達が後退したことで黒竜が眼前へと躍り出る。雲を引き裂く乱気流の中で現れたその体は、ハローの駆る竜の体躯より二回り以上も巨大で、そしてその相貌は理性を感じさせないほどに獰猛だった。そしてその鋼の体の背部にはこちらと同じように操縦桿を握る一人の男の姿があった。
「あいつらのケツに付く! 飛ばせ!」
『あーもうッ!』
黒鉄色の鉄翼に翡翠の機龍が追随する。手元の計器は既に振り切れて速度はわからない。一度加速する度、一度旋回する度に内臓がひっくり返りそうになり、口中に血の味が広がるのを知覚しながら、ハローは黒竜の刃のように鋭い尾が掠めるほどの距離にピタリと付ける。
「仕掛けるぞ。行けるな」
『誰に……ッ』
黒竜の鉄翼が青白く光る。それに呼応してウィンの翼も光を帯びた。
『言ってるのよ!』
寸毫の差も生じない、まさに同時に二体の竜の翼が閃光を放った。瞬間、撃鉄に弾かれ放たれた銃弾の如く二つの光が雲海を切り裂く。
『あ、ぐ……っ!』
脳内に苦悶の声が響く。翼のみならずウィンの体中を細い電撃が這い、翼の可動域が悲鳴を上げる。限界を超えた出力での放電は翼の電極に過剰負荷を与えているのだ。人間の全力疾走と同じ、十数秒程度の限定的な加速。しかしその加速は音速の域にすら達する。
横並びに黒い竜が飛ぶ。尋常な世界では在りうべからざる速度域で、その黒鉄の巨体で飛翔していくその姿は悪魔にも神にも似ていた。
――翼が重たい……まとわりつく!
溶接され、縫い留められたように動かない操縦桿を千切れるほどの力で引く。風と、あまりの速度に絡めとられ押し固められた音が壁となって翼にまとわりつく。
『ハロー……ッ』
雲の切れ間に見える光を捉えハローは叫ぶ。力を振り絞ってウィンに体を固定し、上へ上へと昇る。
矢の様に加速をし、雲と風をはるか後方に置き去りにしていき、そして――
「雲を抜けるぞ! ウィンッ!」
雲の帳を抜け、青空へと飛び出したハロー。その遥か眼下に大陸が見えた。
僅かに残る夜の残り香を朝日が塗り潰していく空の下、燃える様に生い茂る緑が大地を覆う。方々に点在する巨大な宇宙船の残骸と、その周りに広がる都市部以外は全て森林に飲み込まれ、海は朝の光を照り返し際限なく美しい輝きを放つ。
本来ならすぐにでも加速を始めなければならなかった。しかしその光景を、十七年間夢見てきたその景色に目を奪われ、気が付けば喉の奥から嗚咽にも似た言葉が漏れていた。
「アルゴ……」
『ハロー!』
諭すような冷静な言葉にはっと我に返る。ウィンは翼を羽ばたかせながら前を見据えて言う。
『今は私に集中して。全部終わったら……いっぱい話を聞いてあげるわ』
「……ああ」
ウィンは美しい竜だった。エメラルド色の体に銀色の機械の翼。宝石の様に美しいその体と継ぎ目一つない刃のような巨翼が朝日の中で光を反射している。
――そうだ、今は……。
視線を上げたハローの目に映ったのは、十数キロ先の飛行船に掲げられた、白と黒のチェッカーフラッグ、【ドラグーンフラッグ】だった。
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