第39話 狂気に身を委ね

「ああ、もちろん」


 嘘を吐くのは苦手だった。だが、もう平気だ。息を吸うように虚言を並べることができる。偽物の笑みを作ることもできる。


「馬鹿ですね」


 セラリアはクロイスに思い切り抱きついた。


 絞め殺そうとしているのではないかと疑うほどに力強い。いったい、この細い身体のどこから湧いて出てくるのだろう。


「クロイスが一緒じゃないなら、私もここで死にます」


「何言って――」


「信じてますから」


 そう言って、彼女はクロイスからそっと離れた。


 彼女の真っ直ぐな瞳に、クロイスは開きかけた口をつぐんだ。さすがに自らの命を絶つようなことはしないだろう。そんな風に楽観的に考えることはできなかった。セラリアは頑固だ。もし、彼女が本気だったなら。


「わかった」


 負けるわけにはいかなかった。飲み込まれるわけにはいかなかった。死ぬわけにはいかなかった。殺されるわけにはいかなかった。生きなければならなかった。


 だって、一番守りたい相手は、セラリアだから。


「最期の別れは終わりましたか?」


「わざわざ待っててくれたのか」


「その程度の余裕はあります」


 司祭の闇背は変わらず一本。傷はすべて癒えているものの、万全とは言いがたいはずだ。そんな状態でも、クロイスを相手にするくらい、なんでもないのだろう。その油断があるうちに、早期決着を図る。


「さあ、始めましょうか」


 開始の宣言をしたのは司祭。だが、クロイスは司祭が口を開いた瞬間に地を蹴っていた。脚力を総動員し、一直線に駆け抜ける。


「ここまできて正面突破とは、浅はかですよ」


 司祭の背後にうねる黒帯がクロイスを迎え撃つ。捉えられれば容易く身を貫かれ、ハーレットたちと同じ末路を辿る。極限まで高めた動体視力でさえ、闇背はブレて見える。


 横へ避けようとしたクロイスに合わせて、闇背もまた軌道を変える。爪で弾いても、すぐに折れ曲がって次が来る。


 三度凌いだところでクロイスは大きく後退した。幸い、追撃は来ない。


「どうしました? それで終わりですか?」


「……ここからだ」


 クロイスが移動した先。そこにはハーレットの遺体が転がっていた。片腕をなくし、虚ろな瞳を開いたまま、無念の死を遂げた彼。


 今から自分がすることを改めて想像し、吐き気がした。


「悪い」


 世界を救うためなら、彼も許してくれるだろうか。だが、クロイスにとってそんなことはどうでもよかった。どこまでも利己的な欲望のために彼の尊厳を冒涜する。きっと地獄行き。それでいい。何もかもを奪われるよりは、ずっといい。


 彼の鎧を剥ぎ取り、その肉を食らう。視界が滲む。嗚咽で血肉を吐き出しそうになる。鉄の臭いに、むせ返りそうだ。胃が拒絶する。手が拒絶する。心が拒絶する。それでも無理矢理に詰め込んだ。詰めて詰めて詰めて詰めて。彼の力のすべてを奪い取ろうと、血の一滴すらも余さず食らう。頭蓋を砕き、中身をすすった。その頃にはもう感情は死んでいた。何も感じなくなっていた。ただ、涙だけが止まらなかった。


 気づけば、両手が真っ赤に染まっていた。中身が空になった鎧。もう食べ終えてしまった。


「なんと悍ましい。やはり、性には抗えませんか」


 司祭の笑い声がうるさかった。まだ食べ足りないのに。お腹が空いているのに。


「そんなことをしたところで、私には――」


 黒い閃光が迸る。咄嗟に身をよじった司祭だが、その脇腹をクロイスの爪が掠め取っていた。


「ウガアアアアアアアアアアアア」


「狂喜に身を任せましたか。これだから喰鬼は嫌いなのです」


 目にも止まらぬクロイスの攻撃を司祭は闇背で払いのける。速度は互角。だが、司祭の手札はそれだけではない。


 すでに傷を塞いだ司祭は頭上に手をかざす。大気が揺らぎ、巨大な火炎が渦を巻く。


「灰と化せ」


 迫り来る火球。だが、その速度ではクロイスを捉えることはできない。横に飛び出て、司祭へ走り出した瞬間、踏み出した右足を闇背が貫いた。


「ガッ!?」


「もう少し頭を使いなさい」


 魔法は陽動。逃げ道を誘導されたのだ。


 まんまとハマったが、クロイスはそこで止まらなかった。傷口が広がるのに構わず、力任せに進む。司祭の顔が嫌悪に染まり、その意思を表すように闇背がうねった。容易くクロイスの身体は弾き飛ばされる。


 着地と同時に追撃をかわし、司祭との距離を保ちながら反撃のタイミングを窺う。


「どうしました? 命が惜しくなりましたか?」


 司祭の挑発にクロイスは反応しない。唸り声を漏らし、鋭い眼光を向けるだけだ。


「あなたが来ないなら、あっちの相手を先に――」


 怒りの咆哮が司祭の言葉をかき消した。獰猛な獣が地を駆ける。迫り来る闇背を今度は爪で弾き、距離を詰める。背後からの攻撃もかわし、眼前に至った。絶好の機会。あと一歩踏み込めば、司祭の首を刈り取ることができる。


「だから、頭を使えと」


 司祭の口元に笑みが浮かぶ。危険を察知したクロイスがその場から逃れようとするが、一歩遅かった。足下が赤く輝き、炎柱がクロイスの半身を呑み込んだ。


 すぐに飛びすさり、致命的なダメージを避けることはできた。だが、右腕は焼け焦げ、地面にぼたりと落ちて崩れた。


「ガアアアァァッ」


「反応速度だけは並外れていますね」


 クロイスへ向けられる司祭の視線。そこに何かを感じ取り、クロイスは回避行動を取った。一瞬前までいた地面が爆ぜ、瓦礫が散弾のごとくまき散る。直撃を受けていれば下半身がなくなっていただろう。


 片足の負傷と片腕の喪失。どちらも戦う上で致命的な欠落。ただでさえ強い相手に、こちらがハンデを背負えば勝ち目はない。だから、クロイスは食糧を欲した。周囲に目を配らせる。その視線が壁に背を預けて死んでいるエイレンで止まった。


 クロイスが動くのと闇背が襲いかかってくるのは同時だった。クロイスの意図を読み、司祭が阻止を図る。大黒狼の脚力を持ってしても闇背の速度には敵わない。黒い直線がクロイスの胸部を目がけて伸びる。即座に反転して迎え撃つが、それは唐突に折れ曲がり、進路を変えた。クロイスを迂回して後方へ。


 ようやく司祭の狙いに気づいたクロイスだが、遅すぎた。司祭はクロイスに回復されないようにエイレンの確保を優先したのだ。


 ガンガロの肉体は焼け焦げているし、フレアスは遠すぎる。エイレンを捕食できなければ後がない。司祭はそこまで理解しているのだろう。ここが運命の分かれ道だ。


 もはやなりふり構っていられない。クロイスはエイレンではなく闇背に掴みかかった。手のひらが深く抉られるが、決して放さない。そのままエイレンをたぐり寄せる。


 だが、司祭はそれを許さない。エイレンを宙に放り投げ、自由になった先端がクロイスへ襲いかかる。迎撃しようとした手に纏わり付き、そこから這うように全身を駆け巡る。あっというまに拘束され、クロイスは地べたに這いつくばった。逃れようと暴れる度に傷が増え、身体が悲鳴を上げる。闇背は緩むことなくクロイスを無力化した。


「こんなものですか」


 悠々と近寄ってくる司祭。その表情が怪訝に染まる。同時、クロイスの目の前に誰かが躍り出た。


「先に死にたいですか?」


「クロイスは私が守ります」


 セラリアは震えた声で、けれど力強く言い放った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る