第35話 魔人
先ほどまで、そこには誰もいなかったはずだ。第四層までの崩壊はすでに終わっており、外からの入り口はない。そこではたと気づく。
クロイスから見て左側、神器が収められている部屋へと続く重厚な扉がわずかに開いているのだ。予めそこに潜んでいたのだろう。
「私としたことが少々焦ってしまったようですね。まとめて殺す絶好の機会だったというのに。鈍ってしまいましたか」
やれやれと首を振り、一見すると穏やかそうな笑みを湛える。だが、そこから溢れ出す強烈な殺意にクロイスは喉を鳴らした。
「それにしても、さすが次代勇者と言われるだけのことはありますね。まさか、殺そうとしていた敵を庇うために自らの腕を捨てるとは」
クロイスはハーレットに目をやる。彼はこちらを向きはしなかった。司祭を睨めつけ、視線を逸らさない。
クロイスを庇った。それはあの司祭の攻撃からだろう。意味が分からなかった。司祭の言うとおりだ。彼の左腕と吊り合うほどの価値が自分にはないし、助けたところで再び殺し合わなければならないのだ。いくら乱入者がいたとはいえ、助ける道理も意味もないのだ。
「なんで……」
「身体が勝手に動いただけだよ。気にしないで。剣が振るえれば十分だ。エイレン!」
「どうする?」
「塞ぐだけでいい」
「あいあいさー」
ハーレットの仲間たちは多少動揺したようだが、取り乱すことはなかった。高位の回復魔法で元に戻すことができるからだろう。
「どうやら、人間ではないらしい」
「さて、どうでしょうか」
「分かるよ。邪悪な気配がするからね。クロイス、ここは一時休戦といこう」
治癒を終えたハーレットが微笑みかけてくる。自責の念に駆られていたクロイスにとって、それは傷口に塩を塗られるようなものだった。胸の奥がずきりと痛み、罪悪感が喉をせり上がってくる。
司祭は両手を開き、高らかに言う。
「協力して私を倒す、ですか。なるほど。確かにその方が効率的ではあります。しかし、あなたたちは敵同士ですよ? 互いに背中を預けていいものでしょうか? いつ後ろから刺されるとも分からないのに」
「安い挑発だ。僕らの目的は共通している。魔王を倒すこと。ここから生きて出ることのできたどちらかが、それを成し遂げる。つまり、魔王の手下である君を倒すという一点において、僕たちは協力し合うことができるのさ」
魔王の手下。ハーレットはそう言うが、外見だけならばただの司祭にしか見えない。どこからどう見ても人間だ。その様子を察したのか、セラリアが口を開いた。
「魔王というのは、魔族を統べる王のことを指します。魔族は主に魔物のことを指しますが、その高位には魔人と呼ばれる人間と同じ姿をした存在がいるんです」
「人間と同じ?」
「はい。ただ、いくつのかの違いがあります。まず、心臓はなく魔石と呼ばれる結晶が代わりとなります。次に不死。永遠の命を持ち、その身体は任意の段階で成長を止めることができます。そして、魔人は背中に黒い翼があります」
黒い翼。そんなものがあれば一目瞭然だ。しかし、目の前の司祭にはなかった。
「出し入れ可能、というわけだね。僕の左腕を持って行ったのは確かに闇背だった」
「本来であればあなたたちは見ることを許されないのですが、主より直に手を下せと命が出ています。この私が手ずから殺してあげますから、光栄に思ってください」
司祭の背後に黒い靄が現れた。そこから伸びる二本の黒帯。翼と呼ぶにはあまりに直線的なそれこそが魔人の武器だ。
「最初から仕組まれていた、ということか。新たなる勇者が生まれないように」
ソフィアの声に、司祭は頷いた。
「ご名答。これで二〇年にも及ぶ潜伏生活の苦労が実を結びます。あとはこの国を崩壊させれば私の役目は終わりです。その前に、長年蓄積されてきたストレスの発散といきましょうか」
ハーレットたちが身構える。それに習ってクロイスも臨戦態勢を取った。双方、戦闘を中断した仲間たちと合流し、魔人との戦いに挑む。
先手を打ったのはソフィアとエイレンだった。不可視の風の刃と、唸る炎の濁流が同時に司祭へと襲いかかる。
直撃したかに見えた攻撃は、直前で黒い壁に防がれていた。黒帯で編み込まれた障壁。ほどかれた奥から司祭が嘲笑を浮かべる。
「その程度では私に傷一つつけられませんよ」
「ちっ、やはり魔法への耐性は高いか」
顔を顰めるソフィアだが、彼女たちの攻撃は単なる牽制に過ぎない。その間にクロイスたちが距離を詰める。先行するのはハーレットのパーティーだ。
司祭はガンガロの地を砕く威力の大剣を軽々と避け、ほぼ同時に繰り出されたハーレットの剣を闇背で防ぐ。残った一つが彼を貫かんとするが、突き出された神速の槍を防ぐために軌道を変えた。
闇背を押さえ、身動きを封じた。お膳立てされたチャンスに、横合いからクロイスとヒエラルドが同時に攻撃を仕掛ける。だが、それは伸びた闇背によって弾かれ、回転するそれに全員が吹き飛ばされた。
背中を地面に強く打ち付けたクロイスを除き、他は難なく着地をきめる。
「これが闇背……。話には聞いていたけれど、長さを変えることができる上に強固というのは骨が折れそうだ」
「まるで勝てるような言い方ですね」
「当たり前だよ。勇者候補とはいえ、ここには九人いる。こんなところで負けるようでは、世界なんて救えないからね」
数の上では圧倒的に有利。だが、クロイスの中では不安が渦巻いていた。妙に落ち着き払っている司祭。その余裕は揺るがぬ勝利を確信しているからこそなのではないかと。
ハーレットのパーティーは練度の高い連携を繰り広げ、クロイスたちは拙いながらも彼らの邪魔をしないように追撃する。到底一人でさばききれるはずのない猛攻を、司祭は顔色一つ変えずにこなす。何度仕掛けても決定打どころか一撃すらも与えることができなかった。
「ところで――」
司祭の目がこちらを向く。
「あなたはどうしてそちら側にいるですか?」
「は?」
言っている意味が分からず、クロイスは間抜けにも口を開けて唖然としてしまう。仲間から視線が集まるが、彼らも困惑していた。
「どういう意味だ」
「喰鬼は我々の陣営にいるべきです。あなたもまた、人間の上位種なのだから」
喰鬼だとバレていることにも驚きだが、それ以上に喰鬼が魔王陣営にいるべきだという発言のインパクトに言葉が出てこなかった。そんなクロイスのことを見て困惑を浮かべる司祭だったが、すぐに納得のいった表情になる。
「ああ、穏健派ですか。人に紛れて隠れ住む臆病者たちは絶滅したと聞いていましたが、生き残りがいたのですね」
司祭がクロイスに手を伸ばす。それはまるで迷える子羊を導かんとするようであった。
「いずれあなたも同族と同じように人間に殺されるでしょう。そうなる前にこちら側へ来なさい。仲間にも合わせてあげます」
「……仲間?」
「そうです。数は少ないですが、人間の殺戮から逃れた喰鬼がいます。約束しましょう。相応の地位を用意し、彼らに会わせると。あなたの苦悩を理解する、数少ない仲間たちに」
「僕の他にも……」
「ええ。彼らはみな、愚かな人間どもを駆逐し、この世界に真の意味での平穏を取り戻すために戦っています。彼らはあなたを快く迎えてくれるでしょう」
俯くクロイスに、セラリアが駆け寄ろうとする。だが、闇背がそれを阻んだ。
「行っちゃ駄目です! クロイスを騙すための嘘に決まってます!」
「嘘などつくはずがありません。クロイス、あなたは分かっているはずです。自分は人間とは異なる生き物だと。たとえここを生きて出ることができたとしても、待っているのは死です。勇者としての資格を剥奪され、大衆の前で見世物にされ、むごたらしく殺される。人間という種族は、同族でさえも容易く切り捨てる生き物ですよ。信用できないのは人間の方です。目を覚ましてください、同志よ」
司祭の言葉に導かれるように、クロイスは一歩一歩足を進める。それを止めようとする者は闇背によって牽制され、声をかけてもクロイスは反応を見せない。まるで何かにとりつかれてしまったかのように。
「そうです。ともに行きましょう。我々の未来を勝ち取るのです」
「本当に、会えるんだな?」
「クロイス! 目を覚ましてください!」
「もちろんです。約束しましょう」
司祭が差し伸べた手に、クロイスが手を伸ばす。
「ですが、その前に――」
槍の如く伸びた二本の闇背がクロイスの胴を貫いた。
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