第24話 失いたくなければ奪うしかない

 朦朧とした意識の中で、クロイスはセラリアの声を聞いた。泣き叫ぶ彼女に、自分を責めないで欲しいと言いたいが、もはや喋る力など残されていない。


 自分という輪郭が薄れていくのが分かった。個が曖昧になり、全に溶けていく。身体の感覚がなくなった。自分がどこで何をしていたのか、もう思い出せない。


 そもそも自分とは何だったのか。


 分からない。何もかもが分からない。


 意識が綻んでいく。そんな彼を呼び止める声があった。


『逃げるのか?』


 振り返ると、そこには誰もいなかった。


『また奪われるのか?』


 声だけがどこからか聞こえる。


「僕は死んだ」


『まだ終わってない』


「どうしろって言うんだ」


 その言葉に何者かは答えない。代わりに映像が映し出された。地面に横向きのアングルであるために見にくいが、何が起きているかは分かった。


 剣を持った女性が、大きな斧を持った巨漢と戦っている。力の差は歴然で、どんどん押されていた。負けるのは時間の問題だろう。


「これは?」


『お前が奪われたくなかったものだ』


「奪われたくなかった、もの……」


 頭の中でいくつもの映像が流れる。それが自分の記憶なのだと自覚すると、これまでのことが急速に思い出された。


「このままじゃ、みんなは……」


『すべて奪われる。お前が奪わなかったからだ』


 クロイスは拳をきつく握りしめた。指先が白むほど強くそうしていると、突然鋭い痛みが走った。手を開けば鋭利な爪。視線を上げると、目の前に大黒狼がいた。赤く光る双眸がクロイスを見上げる。


「間に合うのか?」


 大黒狼は答えない。当たり前だ。それは人間の言葉など介さない。


『奪え』


 何をすべきかは分かっていた。


『奪え』


 どうなるかも分かっていた。


『奪え』


 それでも――。


 何かを守りたいのなら。

 奪われたくないのなら。


 奪うしかないのだ。



『奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え奪え』



 クロイスは頭の中で反響する声に身を任せた。大黒狼に飛びかかり、その喉元を食い千切る。ただひたすらに食らい続けた。


 あのときのように。本能のままに奪い続けた。わずかに残っていた理性を血肉とともに飲み込んだ。


 その姿はただの獣。


 きっともう戻れない。



 ゴルドレッドのハルバードがソフィアの剣を叩き飛ばす。隙をさらしたソフィアの胴を豪腕が打ち抜いた。宙を舞うソフィアの身体が地面を転がる。フラフラになりながらも立ち上がるが、吐血し、ついに膝をついた。


 ゴルドレッドがハルバードを振り上げる。


「あばよ」


「くっ、ここまでか……」


 振り下ろされた刃がソフィアの身体を両断する――――その刹那、ゴルドレッドはハルバードを身体に引き寄せ、防御の姿勢を取った。間髪入れずそこへ何かが衝突する。


「クロイ、ス……?」


 宙返りして着地したのは間違いなくクロイスだった。


 そうに決まっているのに、セラリアは自信を持って言い切ることができない。


 今までの彼とは雰囲気がまるで違っていた。ただ、それを一度だけ見たことがあった。第一層でクロイスが初めて獣化したとき。それとまったく同じだったのだ。


 セラリアの声にクロイスは反応しなかった。


 急加速したクロイスはゴルドレッドに突進する――と見せかけて素通りした。


「おいおい、さっきの威勢は――」


 ゴルドレッドはその光景に絶句した。彼だけではない。敵味方関係なく、その場の全員の視線が一点に集まり、誰もが言葉を失う。


 クロイスは坊主頭の男に覆い被さっていた。水気のある音と骨を砕く音が混じり合う。口元を赤く染め、返り血に構うことなく齧りつく。腕を千切り、足を千切り、頭を千切り。そのほとんどを胃の中へ流し込んだ。


 残されたのは、わずかばかりの肉片と血の海。まるで獣に食い荒らされた人間の末路のように凄惨な光景が広がっていた。


「なんで……なんでクロイスは人間を食ってんだよ」


「あれではまるで……本物の魔物ではないか」


 仲間の豹変と異常行動に、ヒエラルドとソフィアは戸惑いを隠せない。


 唯一、プランだけが戸惑いながらも口元に笑みを浮かべていた。坊主頭の男が食われながら浮かべていた恐怖に染まった表情に、復讐心が満たされていくのを感じたのだ。


 食事を終え、立ち上がったクロイスに異変が起きた。ゴルドレッドに切り飛ばされて失ったはずの右腕が切断面から生えてきたのだ。


「失った肉体の修復だと? セラリア、あれは回復魔法が使えるのか?」


「……いえ、おそらく…………」


 ソフィアの問いに、セラリアは口ごもった。


 単なる傷を治すのとは訳が違う。失われた部位を戻すことは、最上級の回復魔法でなければ不可能だ。


 回復魔法を専門とするセラリアでも、その構成を再現できたことがない。クロイスは魔法自体を使えないはずだ。


 つまり、それは喰鬼としての力に他ならない。


「いいじゃねえか。見違えたぜ? これだぜこれ! 勇者候補なんざ行儀がよくてつまらねえ。殺意が足りねえ。人間も魔物も変わんねえんだよ。殺るか、殺られるかだ。滾るねえ。さあ、存分に殺り合おうぜ!!!」


 ゴルドレッドが動き出す前に、クロイスは地を蹴っていた。拾い上げたクロスボウをゴルドレッドに向けて放つ。難なくそれを避けたゴルドレッドが反撃を試みるも、クロイスが向かったのはまったく別の方向だった。


「このクソッタレが!」


 振り下ろされた金棒をクロイスはギリギリのところでかわし、地面にめり込んだそれを足で押さえつける。坊主頭の男から奪い取った鎖鎌を振り向かずに後方へ投げ、迫っていた湾刀に絡ませた。


 湾刀の男を足止めした一秒ほどの間に、金棒の男の喉元を食い千切る。男が何かを言っていたが、喉から血がドバドバと溢れるだけで声にはならなかった。


 絶命した男の肉を食らっている間に湾刀の男が鎖を解き、すぐさま切りかかってくる。捕食を中断し、金棒の男の身体を盾にした。味方を切ることへの嫌悪感からか、湾刀が一瞬鈍った。その隙に横合いから食らおうとするも、男は瞬時に湾刀の軌道を変え、クロイスの顔面へ滑らせる。


「なっ――」


 驚愕に目を見開く湾刀の男が最期に視界に映したのは、獰猛な獣が湾刀を噛み砕いた瞬間だった。


 クロイスは胸部を貫いた腕を引き抜き、その血を嘗めた。細腕を引き千切り齧りつく。あまりお気に召さなかったのか、二本目の腕を投げ捨てると金棒の男を食らい始める。


「――クソがああああああああああ!!!」


 大上段から振り下ろされたハルバード。味方の死体すら巻き込んで地面を破壊したそれを、クロイスはこともなげにかわす。そのまま大きく距離を取り、掴んでいた肉片を口の中へ放り込んだ。


「バケもんがっ! 普通に死ねると思うんじゃねえぞ!」


「ゴチャゴチャうるせえよ。とっととかかってこい」


 雰囲気だけでなく言葉遣いすらも、もはや別人。


 顔に青筋を浮かべたゴルドレッドは雄叫びを上げながら駆け出した。


 豪速で振るわれるハルバードの連撃。それをクロイスは危うげなくかわしていく。避けきれないものはハルバードの腹に打撃を加え、軌道をずらした。以前であればできなかった芸当だ。


 坊主男の視野の広さ、湾刀男の身のこなし、金棒の男の筋力。そのすべてを食らい、奪い取った今だからこそできる技。


 だが、正面から打ち合うことは決してしなかった。スピードでは勝るも、力では到底及ばないことは明らかだった。


 クロイスは一旦距離を取って金棒を拾い上げ、再びゴルドレッドへ肉薄する。扱い方は先ほど知った。金棒の男が積み上げてきた経験。その一部がクロイスの中にある。


 敵の攻撃をかわしざまに金棒を振り抜き、胴に一撃を与える。しかし、重厚な鎧の表面に傷を作っただけで、破壊することは敵わなかった。


 ただ、衝撃はきっちり伝わっていたようだ。ゴルドレッドは顔を顰め、攻撃の手をわずかに緩めた。


 クロイスは忍ばせていた杭を敵の目に投擲。ゴルドレッドは顎を引き、ヘルムの額で弾く。すかさずハルバードを横薙ぎに振り回すが、クロイスを捉えることはできない。すれ違いざまに金棒を振り上げ、ゴルドレッドの左腕のガントレットを弾き飛ばした。


 ゴルドレッドはむき出しになった腕を庇おうと半身になる。そのわずかな隙を見逃さず、クロイスは重心を落とし、全身の力で金棒を横に薙いだ。見事に右膝を捉え、骨の砕けた感触が手に伝わる。


「クソったれがあああ!」


 牽制のためにゴルドレッドが振るった攻撃をすり抜け、交差する瞬間に左腕の肉を食い千切った。後を追う軌道で迫るハルバードをそのまま駆け抜けて避ける。


「てめえ、俺の肉を食いやがったな!」


「どうしてお前らの肉はこんなに不味いんだ? 黒狼の方がマシだ」


「嘗めやがって! 絶対に殺してやるぞ!!!」

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