第10話 覚醒
ぼやける視界に映るのは過去の記憶だった。
思い返せば、ろくな人生ではなかった。奪われてばかりの人生だった。
両親を魔物に殺され、居場所を失った。学のない自分は仕事を選べなかった。職場の環境は最悪で、賃金は最低だった。
チンピラに金をむしり取られた。見ず知らずの男の甘い話に騙され、この場にいる。信じていた仲間に裏切られ、その結果がこれだ。助けようとした少女は、醜い怪物に穢されようとしている。
何もかもを奪われて死んでいく。
何も得ることができなかった。
何も守ることができなかった。
そうして、命が終わる。
妹を守るという誓いは――果たせない。
嫌だった。死にたくなかった。
もう何も奪われたくない。
――だったら、奪えばいいんだよ。
どこからか、そんな声が聞こえた。
その通りだと思う。
奪われたくなければ、奪われる前に奪うしかない。
間違っていた。
守るだけではどうにもならない。
やられてからでは遅い。やられる前にやらなければならない。
では、先手を取られたらどうするか。
決まっている。やり返せばいい。もう二度と手出しをできないように、徹底的に潰せばいい。自分のしたことを後悔させ、心をへし折ればいい。
思い知らせてやるのだ。
身体も心も完膚なきまでに打ちのめす。
クロイスはもっと簡単な答えがあることに気づいた。あれこれ考える必要はない。報復に怯える必要はない。
――害のある存在は、殺してしまえばいい。
そうすれば、もう二度と関わることはないのだから。
その瞬間、頭の中で何かが弾けた。
無我夢中で、本能のままに大黒狼の首元に噛みついた。生暖かい液体が流れ込んでくる。口の中に広がる赤黒い血と鉄の臭い。噛み千切った肉は獣臭かったが、吐き捨てる間も惜しんで飲み込んだ。
大黒狼は呻き声を上げ、クロイスの肩を噛む力を増した。だが彼は怯むことなく、再び齧りつく。まるで獣のように貪り食らう。
先に音を上げたのは大黒狼だった。クロイスの肩を放し、距離を取ろうとする。しかし、今度はクロイスの方が放さなかった。大黒狼の身体にしがみつき、鋭い爪を立てる。噛みつく牙は容易く大黒狼の肉を食い千切った。
もし、その光景を誰かが見ていたなら。どちらが黒狼か一瞬判断に迷っただろう。クロイスは人間の姿をしているから、冷静に考えれば分かる。
しかし、彼の指先に光る爪と、獰猛な肉食獣を思わせる口の牙を見て、黒狼を捕食し始めた光景を目の当たりにしたなら。クロイスこそが黒狼なのではないかと、疑う者がいてもおかしくない。
ついに大黒狼はその身を地に倒した。断末魔を上げる大黒狼に、クロイスは構わずその肉を食らう。
熱を持った肉と血が喉を通る度に、クロイスは身体の奥底から力がみなぎるのを感じた。いつの間にかボロボロだった右肩が完治している。
その凄惨な一幕に気づいた悪鬼たちが声を上げた。驚愕か、恐怖か。あるいは敵意か。人語を解さぬ悪鬼の感情を理解することはできない。クロイスにとって、それは何の問題もなかった。敵が何を思おうと関係ない。
ただ、奪い尽くすだけだ。何もかもを。その命に至るまで。
クロイスは食事を中断し、悪鬼の方へ駆け出した。二足ではなく、四足で。
すぐに臨戦態勢を取る悪鬼だが、黒狼の如き彼を止めるには遅すぎた。先頭に立つ悪鬼の頭が宙を舞う。それを呆然と見上げる二体目の胴体を両断し、三体目の頭蓋を貫手で砕いた。手に纏わり付く脳漿を振り払って、次なる獲物に鋭い眼光を向ける。
格の違いを理解した悪鬼たちはけたたましい声を上げて撤退を試みる。だが、クロイスはそれを許さない。背を向けて必死に走るそれらを次々に死骸へと変え、終わった頃には血の海ができていた。
血だらけになった自らの身体を見下ろして顔を顰めるクロイス。その口と手には、既に牙と爪はなかった。
少女の方へ踏み出そうとして、足がふらついた。なんとか転ぶのを耐える。疲労で身体の反応が鈍くなっているようだ。そのくせ心臓の音がうるさい。息苦しい。
しばらくしてようやく落ち着きを取り戻したクロイスは、自らの為した惨劇を目の当たりにして手足が震えた。記憶はあった。何を思い、何をしたかも分かっていた。それでも信じられなかった。簡単に殺してしまえた自分が怖かった。
やらなければ、やられていた。自分は何も悪くない。奪おうとしたあいつらが悪い。だから殺されて当然なのだ。そう自らに言い聞かせ、恐怖を飲み下した。
近くにあったバックパックを広げる。女性ものの服が入っており、どうやら少女の着替えのようだった。
そのバックパックを手に取りつつ、別のを開ける。死んだ男二人のうちどちらかのものだ。中から生命の秘薬を取りだし、瓶を飲み干した。瞬く間に疲労感が消え失せ、体調が万全に戻った。
勿体ない気もしたが、バックパックはもう一つ残っているから問題ないだろう。ここまでの間に秘薬を使ったとは思えない。案の定、中を見ると残っていた。使えるものを回収してから、少女の下へ向かう。
冷静な判断をしている自分を不思議に思ったが、今はそれどころではない。疑問は頭の隅へ追いやった。
「これ」
バックパックを差し出すが、少女は身体をびくりと震わせ、小さな悲鳴を上げるだけだった。自分の身体を強く抱きしめ、こちらを見上げてくる瞳には恐怖が色濃く表れている。
当然だと、クロイスは自嘲した。自分だって目の前であんなことをされたら、怖くて近づけないだろう。
決断は早かった。
「じゃあ、さよなら」
踵を返し、クロイスは先へ進む。無理矢理に連れて行く気はなかった。恐怖心から背中を刺されたり、裏切られたりしたら、たまったものではない。
理不尽に奪われる未来は防いだ。ここからは彼女自身の意思による。拒むなら、それを尊重すべきだろう。
数歩進んだところで、何かが足に纏わり付いた。振り返ると、少女が裸体のまましがみついていた。
プランほどではないが、男が盛るには十分魅力的な身体だった。クロイスはすぐに視線を逸らして、気恥ずかしさを隠すために口早に言った。
「なんだよ」
「まっ、て……いか……ない、で…………ひと、り、に……しない、で」
涙声で彼女は懇願する。青みを帯びた白銀の長髪。滑らかな白い肌。髪と同色の瞳が不安に揺れている。
連れて行く理由はなかったが、見捨てる理由はもっとなかった。
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