第3話 怪しい男の誘惑
高い男の声だった。彼はクロイスの身体を仰向けに蹴転がして、わずかに開いた口の中へ液体を注ぎ込んだ。
吐き出す力などなく、飲み込むしかなかった。途端、身体中の痛みが消えた。途切れかけていた意識が鮮明になり、感覚を失っていた四肢が戻る。
数秒後には起き上がることができた。
男はサングラスをかけていて、目つきはわからない。背は異様に低く、座っている状態のクロイスより頭一つ分高いくらいだ。大きな頭にシルクハットを被っている。ローブからわずかに見える衣服は、自分が一生着ることのできない金額のものだとわかった。
「あなたは、いったい……」
「私ですか? いやいや、名乗るほどの者ではございません。なに、死にかけの若者に生命の秘薬を飲ませるのが趣味なのです」
カカカ、と身体を反らせながら笑い声を上げたかと思えば、もの凄い勢いでクロイスに迫った。ドアップになった男の顔面から少しでも距離を開けようと、クロイスは身体を反らす。
「むむむ? 私にはわかります。あなた、お金が必要ですね?」
「は、はい……」
迫力に負けて頷いてしまった。見るからに怪しい人物なので、関わらない方がいいことは明らかだった。
「そうでしょう、そうでしょう。若者ほど金が必要なもの。ここは人生の先達として、とっておきの仕事をご紹介しましょう」
ニヤリと男の口端が吊り上がる。
逃げろと直感が警鐘を鳴らすが、命を救ってくれた相手なので無下にはできない。
「ご心配は無用ですぞ? 簡単な仕事ですからね。そこらのちびっ子にだってできますからね。カカカッ」
「なら、どうして僕なんかに?」
誰にでもできるなら、わざわざ死にかけの自分を助けてまで紹介する必要はないはずだ。その時点でかなり怪しい。
「疑っておわれますな? まあ、気持ちはわかりますとも。こんなに美味しい話があるわけがない。いえいえ、あるんですよ。ただね、これは信頼できる相手でなければ紹介できないのですよ。秘密を守れる方でなければ駄目なのです」
「だったら、知り合いに頼めば――」
「知り合いは顔が割れてますからねえ。死にかけの若者くらいがちょうどいいのです」
男は胸の前で手を叩く。
「さて、どうします? 前金として金貨一二〇枚。成功報酬は言い値で構いませんよ」
「一二〇枚!?」
パニックに陥りそうなクロイスに、男は大きく頷いた。それはクロイスが一年働いて手に入る金額だ。一二〇枚が必ず貰えて、成功すればいくらでも請求できる。これほど羽振りの良い仕事は他に存在しないだろう。
つまり、この話には裏があるということだ。
「チャンスですよおー?」
とても魅力的な話だ。けれど、悪事に手を染めてまで稼ごうとは思わなかった。そんなことをすればアイリスが悲しむ。それでは意味がない。
首を横に振ろうとしたクロイス。しかし、男が発した言葉に遮られる。
「いいんですか? 先ほどの薬、金貨五〇枚はくだりませんよ? 払えます?」
「え……お金、取るんですか……」
「カカカ、当たり前でしょう? あれれ? もしや、タダで貰えたなんて思っちゃったりしました? いやー、それはおめでたい頭ですねえ。私があなたを助けた時点で、あなたの運命は決まっているのですよ?」
男は口元を歪めた。それが笑っているように見えないのは、サングラス越しに鋭い視線を感じるからだ。脅しではないと彼の纏う空気が物語っている。
「むしろ断る理由がないと思うんですけどねえ。必要でしょう? 妹さんのために、お金が」
「どうして、それを……」
「いや、なに。仕事相手の素性を調べておくのがこの世界の常識でしてね。あなたのことは何でも知っていますよ? ご両親を亡くされて、今の家に引き取られたことも。妹さんを学校に行かせたいと思っていることも。涙が出ますねえ。兄とはかくあるべき。ですが、学校に行くには多額のお金を継続的に払えなければならないのですよ? できます? これから毎月、あのチンピラにむしり取られるのですよ?」
驚きのあまり硬直するクロイス。その耳元に口を寄せて、男は囁いた。
「これが現状を抜け出す最後のチャンスですよ? お義父さんとお義母さんに大切な妹。家族これからの生活を握っているのはあなたなのです。可愛い可愛い妹の幸せを左右する岐路に、今まさに、あなたは立っているのです!」
両手を広げて天を仰いだ男は、声高らかに叫んだ。
「さあ、選びなさい。扉を開けて先に進むか、立ち止まり続けるか。鍵を握っているのは、あなたですよ」
クロイスの目の前に巾着袋が落とされた。金属が擦れ合ういくつもの音が、大金が入っていることを知らせる。
金貨一二〇枚。喉から手が出るほど欲しい金額だ。一年分の貯金ができる。妹を学校に通わせる計画が一気に現実味を帯びた。
しかし、この金貨を受け取ってしまえば、もう戻れない。この男の仕事を最後まで成し遂げなければならない。
不安が思考をぐちゃぐちゃに掻き乱す。考えれば考えるほどに泥沼にはまり、答えが遠のいていく気がした。いや、それは錯覚だ。
すでに答えは決まっていた。
けれど、踏み出す勇気がなかった。決断までの時間を先延ばしにしているだけ。無意味な悪あがき。もう一つ、背中を押す何かが欲しかった。
そんなクロイスの心中を知ってか知らずか、男はため息を吐いて巾着袋に手を伸ばす。
「残念ですねえ。それでは他を当たって――」
男の指が触れる寸前で、クロイスは巾着袋を引ったくるように掠め取った。
「おやおや、気が変わったんですか?」
「ああ、やるよ。やってやる。絶対に妹を学校に行かせるんだ」
「その意気です! いやあ、頼もしいですねえ」
満足げに頷くと、男は説明を始めた。
明日の日の出とともに迎えに来る馬車に乗って、向かうは街の中心にそびえる城。そこへは世界中から集められた勇者候補がおり、誰が本物の勇者かを決める戦いを行うそうだ。
参加者は全部で一〇〇人。現在までに九九人が集められたが、残りの一人がどうしても見つからないのだという。
そこで運営側は偽りの勇者候補を用意することにした。それがクロイスというわけだ。
不正がバレれば、このイベントの信頼性が著しく下がる。だからこそ、絶対に口外しない協力者が必要なのだという。
「けど、僕は強くない」
「ああ、大丈夫ですよ。安心してください。何も、戦ってくれなんて言いませんとも。そんなことをしたら、あなたが死んでしまいますからね。カカカッ。開会式にいてくれればいいのです。開始直前に我々が回収しますから、それまでは勇者候補として振る舞ってくださいねぇ」
それでは、と男は暗闇に溶けるように去って行った。
クロイスは手にした袋の重みに、喜びと不安の入り交じった複雑な表情を浮かべた。
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