第2話 妹のために金が必要なんだ

 決意や意思だけで、人はそう簡単に強くなれるものではない。


 翌日の仕事終わり、同僚の青年たちに金を返せと迫った。


 彼らは薄ら笑いを浮かべながら互いに視線を交わし、クロイスを連れて人気のない通りへ入っていく。待っていたのは一方的な暴力だった。やり返す拳は空を切り、代わりに腹部へ膝蹴りを貰う。三人を相手に、たった一人では為す術もない。


 しかし、たとえ敵わなくても食い下がることはできる。そこからは我慢比べだった。クロイスは一人の足にしがみつき、金を返せと繰り返す。


「ったく、しつけえんだよ!」


 何度蹴られても、絶対に放さなかった。


「頼むから返してくれ。それは妹の誕生日プレゼントを買ってやるための金なんだ」


 それを聞いた途端、青年の攻撃が止まった。


「何歳だ?」


「え?」


「てめえの妹は何歳かって聞いてんだよ!」


 怒鳴り声を上げる青年。クロイスはこんなチンピラにも人の心があったのだと希望を抱いた。


「じゅ、十二歳だよ」


 けれど、チンピラはどこまでいってもチンピラだった。互いに視線を合わせて下卑た笑みを浮かべる彼らに、クロイスは背筋が凍った。


「よし、わかった。金は返してやる。その代わり、妹を紹介してくれよ。俺らが遊んでやるからさ」


 しゃがみ込んだ青年は、首を振るクロイスの肩に手を回して、声を潜めて言う。


「安心しろって。乱暴にしたりしねえ。ちゃんと隅から隅まで可愛がってやるからよ。何ならお前も見物して――」


 そこが我慢の限界だった。爆発した怒りに任せ、クロイスは青年の顔面に拳を叩き込んだ。呻き声を上げて転がる青年に馬乗りになって、感情のままに殴り続ける。


 最初こそ圧倒していたものの、すぐに青年の仲間に組み伏せられた。起き上がった青年は鼻から流れる血を拭って、青筋の浮かんだ顔を歪ませた。


「ぶっ殺す!」


 そこからは容赦のない暴力が始まった。クロイスの意識が飛んでも、お構いなしだった。それは男の気が済むまで続いた。


 クロイスの目が覚めたのは、日が沈み、しばらく経ってからだった。全身に走る痛みに顔をしかめ、うまく力の入らない足でなんとか立ち上がる。


壁に身体を預けて、倒れそうになる身体を支えた。左右の腕が動かないことに気づく。右足も感覚が鈍く、ちゃんと動いているのか怪しかった。


「アイ、……ス……」


 青痣で半開きの目で前を見据え、クロイスは少しずつ歩みを進めた。


 周りの家の様子から、もう夕飯の時間はとっくに過ぎていることがわかった。今頃、アイリスが家で心配しているだろう。玄関の前で、義親の注意を聞きもしないで待ち続けているに違いない。


 だから、早く帰らなければならない。


 意思に反して、身体はどんどん動かなくなっていった。左足の踏ん張りも効かなくなって、ついに地面に倒れ伏した。こんな自分を情けなく思った。妹の前で格好をつけたくせに、このざまだ。


 自分の中から何かが失われていくのが分かった。意識が遠のいていく。今、目を瞑れば二度と目を覚ますことはないだろう。


 気がかりなのは、アイリスのことだった。


 両親が魔物に殺され、今の家に引き取られた。自分たちも決して裕福とは言えないのにも関わらず、見ず知らずの自分たちを置いてくれる義親たちには頭が上がらない。


 少しでも彼らの負担を減らそうと、クロイスは働きに出た。せめて妹だけは真っ当な暮らしをできるようにしようと、生活を切り詰めて貯金をした。


 そのせいで、アイリスには我慢をさせてばかりだった。



 街を歩くとき、服屋の方をチラチラと見ているのを知っていた。


 綺麗な女性が通る度に、目を輝かせていたのを知っていた。


 オシャレをしたいのに、我慢しているのを知っていた。


 家計を圧迫しないように小食の振りをして、いつもお腹を空かせていたのを知っていた。


 全部、気づかない振りをしてきた。



 それもこれも、いつか、アイリスが幸せになるための努力だった。


 けれど、もう終わりだ。


 自然と涙がこぼれた。


 浮かんだのはアイリスの笑顔だった。あれはいつだったか。初めて貰った給料で、氷菓を買ってやった。食べてよいものかと難しい顔をしていたが、誘惑に負けて遠慮がちに口へ運んだ。瞬間、弾けるような笑顔を浮かべ、美味しさを全身で表現するように飛び跳ねていた。


 また食べさせてやりたかった。アイリスには笑顔がとても似合う。悲しんでいる顔なんて見たくない。もしここで自分が死ねば、アイリスは涙が涸れるまで泣き続けるのだろう。


 それは嫌だった。諦めかけていた心に灯が灯る。まだ死ぬわけにはいかない。


 けれど、意思だけではどうにもならなかった。身体は徐々に死んでいく。


 耳元で靴音がした。耳が遠くなっていたらしく、接近に気づけなかった。首が動かないので、確認のしようがない。あいつらがトドメを刺しにきたのだろうか。


「おやおや、これはいけませんねえ」

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