第1章

第1話 泥に塗れて

 降り注ぐ雨。泥濘んだ地面に身体を叩きつけられ、少年は苦痛に顔を歪ませた。夜闇に溶ける黒髪と健康的に焼けた肌は見る影もなく、汚い泥が塗りたくられていた。


「ったく、手間かけさせんじゃねえよ」


 青年たちは金貨を抜き取った布袋を放り捨てた。


「待ってくれ、それは――」

「うっせえんだよカスが!」


 足元にしがみつく少年。青年は彼の顔面を蹴り押して、引き剥がした。仰向けに倒れる少年に唾を吐き捨てて、青年たちは立ち去って行く。


 残された少年は泥の中を這うように移動し、拾い上げた布袋の中身を確認する。一ヶ月の給料である金貨一〇枚のうち、三枚がなくなっていた。


 少年――クロイス・ラックスは拳を泥に叩きつけ、悪態を吐いた。悔しさから溢れ出る涙は雨とともに流れ落ちていく。


 クロイスは毎月金貨七枚を家に入れていた。残りのほとんどは、妹を学校に行かせるための資金として貯めているのだ。ただでさえ自分の手元に残る金は少ないというのに、今月は家に入れる分しか残っていない。


 とりわけ、今月は金が必要だった。最悪だ。自らの運の悪さを呪った。前月までいた気の弱い少年が仕事を辞めたせいで、カツアゲの対象がクロイスに替わったのだ。


 これから毎月のようにカツアゲされると思うと憂鬱だった。学校に通わせることができなければ、妹も自分と同じように下等な仕事につかなければならない。それだけは何としてでも避けたかった。


 妹にだけは、まっとうな人生を歩んで欲しい。


 ゆらゆらと立ち上がり、クロイスは帰路につく。街の端にある木造の二階建てが彼の家だ。決して綺麗とは言えない外観。周囲の家も似たようなものだった。


 ここは街の中間層の中でも最下にいる人々が多く住む区画だった。生活していくことはできるが、決して贅沢はできない。


 泥は雨によってすっかり濯ぎ落とされていた。扉を開くと、それに反応したようにトコトコと忙しない足音が近づいてくる。


 二つ結びのボサボサな黒髪を揺らした女の子が駆けてきた。


「お帰りなさい!」


「……ただいま、アイリス」


 天真爛漫な笑顔を見せてくる妹の頭を撫でて、クロイスは力ない笑みを浮かべた。


 アイリスはクロイスが手ぶらであることを見て一瞬顔を強ばらせたものの、すぐに笑みを取り戻して胴に抱きついた。


「お兄ちゃん、元気ない?」


「いや、何でもないよ。それでね、アイリス。……実は」


「ほら、ご飯できてるから、早く身体を拭いてきてね」


 クロイスの言葉を遮って、アイリスは彼の背中を押していく。


「アイリス……ごめんね」


「私は大丈夫だよ! お兄ちゃんがいてくれるだけで、幸せだもん! 他は何もいらないよ!」


 えへへ、と照れくさそうに笑みを浮かべて、再びクロイスの腹部に顔を埋めるアイリス。


 クロイスは耐えきれなくなり、その場に膝をついた。小さな身体を強く抱き締めて、こぼれ落ちそうな弱気を必死に堪える。


「いいこ、いいこ」


 いつもクロイスが彼女にするように、アイリスは兄の頭をゆっくりと撫でた。


 今日はアイリスの誕生日だったのだ。家を出る前にプレゼントを買ってくると約束していた。だから、奪われるわけにはいかなかったのに。


「アイリスはいい子だね」


「だって、お兄ちゃんの妹だもん!」


 その笑顔を見て胸が締め付けられた。


「明日は期待しててくれ」


「お兄ちゃん……」


 アイリスが何か言いたげにしているのも気づかない振りをして、クロイスは覚悟を決めた。

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