第4話 幸福な時間

 帰宅すると案の定、アイリスが待っていた。毛布にくるまり、規則的な寝息を立てている状態で。待ちくたびれて寝てしまったようだ。


 義親に礼を言ってから、アイリスを抱き上げて階段を上る。羽のように軽い彼女の身体。けれど、それともおさらばだ。明日うまくやれば、美味しいものを好きなだけ食べさせてやれる。


 二人の部屋は屋根裏にあった。普通に暮らすには狭いけれど、寝るだけであれば十分だ。薄っぺらい布団の上にアイリスを横たえると、彼女は声を漏らした。


「起こしちゃったか?」


「んん…………ふぁえ? なんでここに……玄関でお兄ちゃんを…………」


 寝ぼけ眼でクロイスを見上げるアイリスは、目を見開いてガバッと飛び起きた。


「私、寝ちゃったの!?」


 頭を抱えて悶える妹に、頬が緩むのを堪えきれない。控え目に言って可愛い。


 どうにか落ち着かせて座らせる。なおも「私は悪い子だ……」と呟くアイリスに、クロイスは木箱を手渡した。


「なに?」


「いいから、開けてごらん」


 それが一日遅れのプレゼントだと気づいたのか、アイリスは唇を噛みしめ、笑みを漏らすまいと必死に戦っている。


 開けるまでは気づいていない振りをしたいのだろう。実は期待していたことを隠したいのかもしれない。いくら表情を取り繕っても、光り輝く瞳がすべてを物語っている。目は口ほどにものを言うとはこのことか。


 箱を開いた彼女は、はっと息をのんだ。取り出した櫛を胸に抱いて、ぎゅっと目を瞑る。


「これ、ずっと欲しかったの」


「気に入って貰えてよかった」


 欲しがっていたことは知っていた。食料を買いに行く途中にある雑貨屋。その前を通る度にアイリスがこの櫛を見ていたから。


 控え目な装飾だが、作りがしっかりしている。お年頃な女の子だから、髪がボサボサでは嫌なのだろう。


 クロイスの胸元に額を埋めて、消えるような声で言う。


「あのね、欲張りな子だって思われるかもしれないけど、ね。お願いがあるの……」


 上目遣いで見上げてくるアイリス。瞳は少しばかりの不安に揺れ、櫛を抱く手に力がこもる。


「お兄ちゃんにね、髪をね、といて欲しいの」


 いったいどれほど大きなお願い事をされるのだろうかと身構えていたクロイスは、肩透かしを食らった気分だった。


「そんなことなら、いつだってやってあげるよ。ほら、貸して」


「うん!」


 今にもスキップしそうなほど弾んだ声で、アイリスは背を向ける。始めは櫛が思うように通らなかったが、回数を重ねていくうちに力を入れなくても梳けるようになった。ボサボサだった髪が少しまとまりを取り戻す。


 こうしていると、母のことを思い出す。艶のある黒の長髪は高級な絹糸のようで、母は毎日手入れを欠かさなかった。その様子を見るのが好きで、隙があれば見に行っていた。


 最初は恥ずかしがられて部屋から追い出されてしまったが、何度もチャレンジしているうちに諦めたのか、何も言われなくなった。


 だから、櫛の使い方はよく知っていた。きっとアイリスも毎日手入れをすれば、母のように美しい髪になる。


 成長したら美人になることは間違いないから、結婚相手は引く手あまた。もしかしたら、どこかの貴族に求婚されるかもしれない。


 仕事を引き受けてよかったと、心の底から思った。


 ひとしきり髪を整えてから、もう一つ木箱を渡した。


「これはまだ開けちゃ駄目だよ」


「どうして?」


「アイリスが本当に困ったときに開けて。きっと、助けてくれるから」


 不思議そうに箱を見つめていたアイリスだが、すぐに笑顔を浮かべて元気よく頷いた。


「約束だよ」


「うん! やくそく!」


 互いの額を合わせて、目を閉じる。これは二人のおやすみの儀式だ。母親がいつもやってくれた、よく眠るためのおまじない。


 いつもより少し長くしていたせいか、くすくすと笑い声が聞こえた。


「大丈夫だよ? 私が隣にいるんだから」


 怖くて眠れないとでも思われたのか、アイリスは誇らしげに薄い胸を叩く。まるで姉のような言い方に、今度はクロイスが噴き出した。


「ありがとう、アイリス」


「あ、今、バカにしたでしょ?」


 頬を膨らませてそっぽを向くアイリス。


 今、この瞬間を幸せだと思った。


 だからこそ、明日は絶対に成功させよう。


 その決意の先に待つものを、クロイスはまだ知らない。

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