第8話

 練習風景を見せて欲しいと言ったのは平木だった。“EndLandの音楽が完成するのはライブの中”だからそこで聴いてほしかったと藤巻は渋ったが、平木の希望ならと最後には聞き入れた。川島から送られてきたメールには日時と場所が書かれており、通しで演奏するのは最後の30分位になると思うと添え書きがあった。大体その時間に合わせて到着すると、メールの通り、丁度通し練習が始まるところだった。

 「……結城、だから入りもっとガンガン出ていいって」

 何度目かの演奏を終えた直後、ギターを抱えた御子柴はぐるんと身を翻して体全体で振り返り、スタジオの一番奥でドラムを鳴らす結城を向いた。その言葉に結城は少し唇を尖らせて応じる。

 「したら歌い出しんとことバランス取れないじゃん。みこちゃんがちょっと抑えてよ」

 「……いや…バランスはとりあえず考えなくていいんじゃない?みこさんくらい結城も鳴らしちゃった方がいいって。歌い出しと多少落差ついちゃうかもしんないけど、その方がぐっとくる」

 二人の小競り合いに口を出したのは岡で、クールなサックスプレーヤーは淡々と言った。

 「……歌い出しが弱いのが問題?オレまだ出るけど?」

 それに応じたのは、スタジオの隅でペットボトルに口をつけていた藤巻で、こくりと喉を鳴らしてすぐにマイクの前に戻って続ける。

 「オレも岡と同意見。攻めていいよ。オレが合わせる……あと岡もさ、Cメロのソロもっと張って。メロディー優しく、音は強く」

 藤巻の言葉に岡は分かりましたと頷き、一瞬場が静まったタイミングで、最年長の松島が他に確認は?と声をかける。

 「……他ないなら時間的に次でラストね。明日音撮りだからきっちり確認してこう」

 松島が声をかけると場が締まる。どちらかと言えばゆるりとしたタイプに見えるが、バンド内での立ち位置は、まだ短い時間しか様子を見ていない平木にも分かるほどに明らかだった。といって、引っ張っていくタイプではない。生産的な言い合いは止めないし、皆で話して決めたことを尊重する。あまり口を開かないのは、自分の言葉がメンバーに与えるインパクトを分かっているからで、口をつぐむことでメンバーへの信頼を体現している。そして確かに、他のメンバーもその信頼に応えている。いいチームだと、そう思う。

 浜崎が練習をボイコットし初めてから1ヶ月が経っていた。12月29日に予定している初のワンマンまで後ひとつきと少し。ヴォーカリスト不在のHi-vox.と打ち合わせをしたのが数日前。平木の部屋にメンバーが集まり、キッチン横のダイニングテーブルに着く。打ち合わせで使うことも想定したダイニングテーブルは6人賭けで、二人の時には広すぎるのだが、成人済みの男4人で座ればまあ、相応だった。花田が予定しているセットリストを差し出して説明を始めるのはいつも通り……いつも通りに、振る舞おうとしているのが分かった。焦り、怒り、不安。花田だけではない。古澤は心ここにあらずで、いつもお調子者の井岡も、あの日は嫌に難しい顔をしていた。あいつらだけじゃない。多分、自分も、似たようなものだった。

 ー……ライブ、やれるんですかね……?

 上滑りする事務的な会話をなんとかそれらしく終えた後で、他に何があるわけでもないのに席を立たない4人の中で、声を上げたのは古澤だった。

 ーマツリ、いつ戻るんですかね……

 あれから、連絡はない。どこに居るのかも分からない。大学へは井岡が時おり探しに行っているようだが、約束せずに出会える可能性は低いし、そもそも、大学に行っているのかも分からない。セットリストの楽曲自体は既存曲で歌ったことのない新曲はない。歌詞は頭に入っているはずで、だから、最悪ぶっつけでもやれないことはない。ただそれにしても、浜崎が来なければ始まらない。

 ー……中止にするなら早く決めた方がマシ、か

 思わず、言った。戻ってこないかもしれない。そう思っているから、出た言葉だった。声にした瞬間、可能性が真実味を帯びた気がして、すぐに後悔した。戻ってこないかもしれない。浜崎は、もう二度と、自分のところには戻らないかもしれない。

 はっとしたように顔を上げたのは井岡だった。

 ー中止って、

 ー中止はない

 しかし、何か言いかけた井岡に被せて確固とした口ぶりで告げたのは花田で、決して感情的ではない静かなその声を聞いて井岡は一瞬目を見開き、隣にいる花田を見、その横顔を眺めた後で再びうつむき、口をつぐんだ。井岡を黙らせた花田の凪いだ視線は確かに、某かの決意を孕んで強く、平木を見返していた。

 ー中止はないです

 ー……当日マツリが来なかったらどうすんだよ

 ー絶対来ます。無責任に投げ出すやつじゃない

 ー……絶対、なんてないだろ

 ー……絶対です

 どきりとする。意地を張っているのではない。本当に、心から。花田は浜崎を信じている。根拠なんてない。ただ、信じている。

 ー……でも当日だけじゃさ。最近やってない曲もあるし、合わせときたいじゃん

 古澤の言葉に、平木ははっとする。古澤もそうだ。信じている。ライブ当日に浜崎が来ることに疑いはない。バランサーの古澤が心配しているのはライブの出来であって、浜崎がいなくなるかもしれないということではない。

 ー……連れて来ますよ。おれあいつと付き合い長いし。すぐは無理かもしんないけど、ちゃんと合わせる時間とれるように

 うつ向いたまま井岡が言い、平木はそうかと思う。浜崎が戻らないかもしれないと、そう考えているのは、自分だけか。

 ー……なんで、中止は考えなくて大丈夫です。けど、最悪本番ヘマやったらすいません。合わせられてないのは事実なので

 もちろん、演奏は完璧に仕上げますけどねと花田は立ち上がりながら言い、その動きに誘われるように、両脇に座った二人もそれぞれに席を立った。

 花田のクールな表情、古澤の不安げな顔、唇を噛み締めた井岡の堪えるように震える肩。それぞれに思いはある。あるだろうが誰も、諦めていない。

 ー……失敗の責任とんのは俺の仕事だよ

 いいチームだと、そう思った。それから、そのチームの一員ではない自分が少し、悲しいと思った。

 じゃあと出て行きかけた花田を玄関で呼び止める。古澤と井岡はすでに扉を出た後で、家の中には靴を履いた花田と裸足の平木しかいなかった。

 ー……マツリが出てこないの…俺のせいかもしれない

 だから、ごめん。呼び止めておいて、歯切れの悪い言い方をしている。なんとなく居心地が悪くて、平木は玄関口に置いてある自分の靴に視線を落とした。花田は、何も言わない。

 ー……あいつが来なくなる前日に、ちょっと言い合いになって

 言い合い。言い合いというほど、言い合えてもいない。浜崎は苦しげにキスをして、平木は、汚れた優越のために浜崎を利用したことに気がついた。それで、それっきりだ。何も、話せてはいない。

 ー……そういうことなら、むしろ良かったんじゃないですか?

 僅かな沈黙の後、花田から発せられた思いもしない言葉に、平木は弾かれたように顔を上げた。良かった?何が?

 ーどうせマツリが何か言ったんですよね?タイミングがどうとか抜きにすれば、俺はいい傾向だと思いますけど。あいつ、今までトーヤさんに逆らったことなかったでしょ?

 ちょっと首をかしげて花田は言い、俺にはすごい噛みついてくんですけどねと笑った。

 ー……トーヤさんがどう見てたかは分かんないですけど、俺から見たらマツリは結構無理してたと思うんで。そういうのって、どっかで一回出しといた方がいいんですよ。膿?じゃないけど

 だからと、花田は口許の笑みを引っ込めて続けた。

 ートーヤさんも、出しちゃった方がいいですよ。溜め込んでるもん全部……俺が聞けんなら聞いてあげたいけど、でも、俺じゃない方がいいかもしんないです……

 平木の視線の先で、今度は花田がついと視線を落とし、靴の爪先を無意味にとんと地面についた。そうして、うつ向いたままうーんとしばらく唸り、次に顔を上げた時には、“中止はない”と言った時と同じ目がこちらに向いていた。

 ー……トーヤさんのことは世界で一番尊敬してるけど、マツリは、あいつは仲間だから。今話したら多分、マツリの肩持っちゃうと思うので

 だから、その話は別の人に聞いてもらって下さい。

 真面目な表情を照れたように崩した花田は最後にそう言い、じゃあまたと告げて玄関扉から出ていった。

 仲間。仲間か。

 「……それで?トーヤさん」

 がんっと大きな音がして、びくりと肩が跳ねるた。天井から差すライトの明かりを遮る身体。やめろという声の主は多分、松島だった。パイプ椅子に掛けた平木が反射的に視線を上げると、驚くほどの至近距離で藤巻がこちらを見下ろしており、片頬で笑うその表情は微かな憤りを滲ませていた。

 「オレらの演奏どうでした?」

 音の正体は藤巻が壁に叩きつけた拳で、膝がぶつかるほどの距離で立つ男が醸す威圧感に、平木はこくりと喉を鳴らした。

 「……ケイさん、ちょっと」

 慌てて近づいてきた岡が、背後から藤巻の腕を引いたが、藤巻は平木から一切視線を外さないまま、その手を払った。

 「……何がそんな気になってんのか知んないすけど、目の前でやってて無視されんのは結構堪えるんすよね」

 オレら、無視できる程度の音楽やってるつもりないんすけどね。

 凄味を利かせた低音が降ってくる。真っ直ぐに向けられる、怒りの感情。無視をするな、こちらを見ろという、直接的な要求。当然の怒りだと、そう思った。当然で、そして同時に、酷く新鮮だった。

 考えてみれば、浜崎は一度も怒ったことがない。逆らうどころか、意見をしたことすらない。平木の言うことに唯々諾々と従うばかりで、何がしたいのか、よく分からなかった。それがあの日、浜崎は珍しく、何か言いたげな顔をして平木を見ていた。何か言いたげだったのに、結局、何も言わなかった。いや、多分。言えなかった。平木が、言わせなかった。だから、堪えるように眉根を寄せて、言葉にしないまま唇を食んだ。

 もっと、怒ればいいのに。唐突に思う。我慢ばかりしていないで、俺にも、噛みついてくればいいのに。言ってくれなきゃ伝わらない。何も分からない。意思のない人形のような。浜崎が、今目の前にいるこの男くらい分かりやすければ。もう少し、ちゃんと向き合えたかもしれない。聞いてみたいと思う。あの日、飲み込んだ言葉は何だったのか。今まで、圧し殺していた思いは何だったのか。

 「……マツリが、練習、出てこないんだ」

 「……は?」

 なぜ藤巻に言おうと思ったのか、それはよく分からない。ただ、気づいたときには言葉にしていて、平木は自嘲気味に笑んだ。

 不安、だったのだ。多分。仲間になれない自分が。浜崎はきっと、あいつらのところへは帰ってくるんだろう。信じてくれる、向き合ってくれる、仲間のところへなら、きっと。浜崎が花田に噛みつくのは、浜崎が花田と向き合っているからだ。それが出来るのは、花田が浜崎に向き合ってきたからだ。

 呆けた藤巻を見上げる。こいつらも同じだと、そう思う。きちんと向き合う。向き合うには力がいる。相手が苦しんでいるとき、背中を支えるための力。心がすれ違ったとき、繋ぎ止めるための力。思いがずれたとき、お互い納得できる解決法を探すための力。どんなことがあっても譲れないものを守り続けるための、力。

 「……どうしたら、戻ってきてくれるか考えてた」

 あの声で、もう一度。歌って欲しい。好きなのだ。羨望とか嫉妬とか、プライドとか負け犬根性とか、長い時間をかけて拗らせたそういうものを全部まっさらにして。曇りのない目を開けばそこには、ただ美しいばかりの音があり、浜崎茉莉の生み出すその音に、平木は何度でも魅せられるのだ。

 「……ごめん。今考えることじゃないよな」

 覆いかぶさる身体に笑いかけ、その胸をとんと軽く小突くと藤巻は数歩後ずさり、平木は立ち上がって、他のメンバーにも邪魔してごめんと声をかけた。

 「アルバム記念ツアー、来年だよな。次は頭から全部聴かせて」

 この前のライブ、本当に凄く良かったからと呆然と突っ立ったままの藤巻に声をかけると突然、藤巻は両手で顔を覆い、はぁーと大きなため息をついてその場にしゃがみこんだ。

 「……一個、訊いていいすか」

 すっかりしゃがみこんだ後、藤巻は顔から手を外し、もう一度大きく息をついてからきゅっと顔を上向けて平木を見た。

 「……トーヤさんって、マツリの何を買ってんですか」

 「……声。いい声だろ、あいつ」

 「声……まぁ悪くはない、ですけど。そんな言うほど?」

 「……多分、理想、なんだよな」

 それはとても個人的な感覚で、もしかしたら、他の誰にも理解されないのかもしれないけれど。

 「……憧れなんだ」

 憧れと、そう言ってみてしっくりきた。これは多分、憧れだ。浜崎に、憧れている。あの声に、焦がれている。唯一無二の音を生み出すあの肉体を手にいれたい。求めている。浜崎が自分を求めるのと同じくらい。自分も、浜崎を欲している。手放したくない。手放さないために何が出来るか、考えている。

 藤巻はぽかんとした表情で、憧れ、と平木の言葉を反復し、直後、体の力が抜けたようにがくりと肩を落とした。そうして、ごくごく小さな声でだから嫌いなんだと呟き、次にはすっくと立ち上がった。目線が合い、芯のある藤巻の声が、トーヤさんと平木を呼んだ。

 「……この前、オレが言ったこと覚えてます?」

 真っ直ぐに背筋を伸ばしてこちらを見遣る藤巻の中にはもう、先程までの怒りの影はなく、ただ、ぞくぞくするような力に満ちた視線がこちらを向いていた。

 「オレは、あなたを超えます」

 戦う者の目。見覚えのあるその目が、今日は5対、射るような強さで、こちらを向いていた。オレらで、あなたを超える。トーヤさんの作ったこの曲を、EndLandが喰ってみせる。

 何もかもを飲み込もうとするこの熱を、平木は知っていた。一番になる。全てを超えて、一番になる。

 もう、恐怖はなかった。闘士を湛えたギラついた目を、その時平木は喜びを持って見返し、心の底からの実感を持って、楽しみだと、そう答えた。

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