第7話
防音ガラス越しのドラムセットを眺めていて不意に、声をかけられる。
「……あらら?トーヤくん?」
珍しいお客さんだと彼女は笑い、見学って言って入ったの?と続いた言葉にうなづきながら、平木はバツが悪くて苦笑した。
「……森さんが居るって知ってたら、名乗ったんだけど」
「嘘。そもそも寄らなかったでしょ……今日何かあったの?」
「ちょっと打ち合わせで近くに来たから」
「黒澤さん?トーヤくん、最近は事務所結構来てるんでしょ?」
ここで見かけるのは久々だけどねと肩を竦めた森が何を思っているのかは、いっそ冷たく感じるほどに捌けた態度からは何も読み取れず、平木は曖昧に頷くに留めた。事務所からごく近い場所にあるレコーディングスタジオに足を向けたのは、BONDSの活動休止以来初めてだった。知ったスタッフに会うのはなんとなく気まずくて、入口から見える受付にいる人物が知らない相手である事、手の空いているスタッフは他にいない事などを確認した上で、廊下から見るだけでいいからと見学を頼んでおいてタイミング悪く出会ってしまった相手が彼女であった事等々の要因が重なり、平木は相手の目を見返すことができなかったのだが、そんなことにはお構いなく、森はすぐにAスタジオと書かれた扉に手をかけた。
「入る?今から準備するけど、邪魔しないなら居ていいよ」
「……いや…」
「入んなよ」
訊いておいて相手の返事を聞く気のない森はそう言うと、ポケットから鍵を取り出して扉を開け、するりと中に入って行った。その変わらぬ強引さに、今度は懐古を込めて少し笑い、トゲのある一言の後に滑らかに誘いかける森の中には多分、嫌味も怒りもなかったのだと思った。ならば、このトゲを生み出したのは俺の後ろ暗さだと平木は考え、BONDSのデビューCDジャケット、初ライブの後ステージ上で撮った記念写真、哀しみに溢れた浜崎の顔などが古びたフィルムの一コマのような不鮮明さで目の前をチラつき、それらを振り払うために数度瞬いた。その間に森が開けた扉はほとんど閉じかけており、一瞬迷ったものの結局、あと残り数センチになった扉の隙間に指先を突っ込み、意識的に少し乱暴に、軽い扉を引き開けた。
「ちょっとそこで待ってて」
足を踏み入れた瞬間、平木は思わずその場に立ち尽くした。機器やコードが雑然と並んだその風景は、平木がこのスタジオを使っていた頃とほとんど変わらず、小物の隙間に入り込んで取りきれない埃やカビの微かな匂い、部屋の後方のソファを示した森の一言すらあの頃と同じで、平木は一瞬、タイムスリップでもしたかのような心地で呆然とし、その後ろで、扉がぱたりと音をたてて閉まった。不足は、元々機械関係が好きだったテツがエンジニアの森の後をついて歩いていない事だとか、ソファで熱心にメールチェックをするマルの姿が見えない事、それから、歌うべき曲が平木の手にないことくらいのもので、それ以外はあまりにも昔のまま、そこにあった。
何とも言えない浮ついた気持ちで数歩歩みを進め、足の低いソファに腰を下ろす。ふわりと僅かな反発の後、ずっと身体が沈み込む。事務所のソファと違い、ここのソファは心地よい柔らかさで、体重を乗せると身体に合わせて形を変え、数年ぶりに戻った平木を抱きとめるように包み込んだ。ソファに身を沈めたまま顔を上げると、真正面は全面がガラス張りで、廊下から見たときには横顔を向けていたドラムセットが今はこちらに顔を向けて鎮座しており、ガラス越しに目が合った気がした。その手前では、森がマイクの調整のために動き回っており、平木はそれを見るともなしに眺めていた。小柄な体がてきぱきと動き、一つ二つとマイクを設置してゆく。
ー……年は食ってるけど、経験的には全然なんだよね
森は平木よりも3つ年上だが、アシスタントエンジニアとしてここに入ったのはBONDSデビューの半年前で、年が近かったことやそのキャラクターの気楽さもあり、割とよく話す相手だった。大学卒業後、一度一般企業に就職したが、音楽業界で働きたいという夢を諦めきれずに仕事をやめ、専門を出てエンジニアになったと聞いた。だから、平木が初めて会ったときはまだ新人で、他のスタッフにあれこれ確認しながらマイク設置を終えた後はひたすら、先輩エンジニアの仕事を見続けていた。普段は飄々としている森が、仕事の時に見せる真剣な眼差しが平木は好きだった。全部盗みとってやるという真剣さと、夢を掴むための努力ならなんでも楽しいと笑う快活さ。その森も今やレコーディングエンジニアとなり、ここ数年は、ミキシング担当としてクレジットされているのを見かけるようになった。時折耳にする森のミックスは、いい音をしている。視線の先で、マイクの設置を終えた森が身体を起こし、平木と目が合うとにっと笑った。
BONDSのレコーディングを手伝ってくれていた頃よりも手早く設置される機器、纏う空気に混じる余裕と自信の中に8年の歳月が滲み、平木はそうかと思う。森は、確かに前に進んできたのだ。平木が惑い、逃げ、迷う間。森は、一歩ずつ、着実に、前に進んでいた。音を通さないガラスの向こうから、あとちょっと、と口の形だけで伝えた森は今度は平木に背を向け、ドラムセットの方に向かって行った。
彼女の後ろ姿からついと視線を外し、首を回して入口扉向かいに目を転じると、奥には小窓のついた部屋があり、その窓から覗くコンデンサーマイク、防音材が貼られた壁の一部、それらを一つずつ辿る間、平木の中で靄のようにぼやけた思いが一つ、ゆらりと立ち上がった。
向き合わなければ、応えてはくれない。夢も希望も、人も、きっと。逃げてばかりだった。ずっと。今日まで。浜崎と出会ったあの日から、平木は逃げ続けていた。浜崎から、仲間から、ファンから、懐の深い会社から、音楽から、そして、自分から。ありとあらゆるものから逃げていた。追いかけられて、いつか追い抜かれる恐怖に耐えきれず、平木は逃げ続けてきた。初めてバンドを組んだ時、あの時はいつも、前に向かって走り続けていた。もっと、もっととギアを上げて、なりたいものになるための努力ならばどんなものでも楽しかった。追いかけたい背中があった。向き合いたい人たちがいた。それだけを目掛けて走り続けて、多分、平木は一度夢を叶えたのだ。 トーヤとして歌っていた2年間。あれは、自分が夢見た姿ではなかったか。それは本当に奇跡のような出来事で、願えども願えども叶わぬ夢もある中で平木は、平木たちは、夢が叶うという幸運を得た。想像もつかないほどの幸運、想像もつかないほどの確率だったと、そう思う。数多の中から見つけてもらえた奇跡。なぜ、と思う。なぜあの時、素直に喜べなかったのか。嬉しくなかったわけではない。ただ、本来あるべき喜びが不在だったのだと、今、気づいた。
うすぼんやりとした靄が徐々に形を成し、その輪郭が定まった時、“それ”は思いがけない力で平木の胸を打った。
冬の日、石油ストーブの上に置いたやかんのような突沸だった。考えてみれば、突沸の直前まで溜め込んだ熱エネルギーをおくびにも出さないひねくれ加減と、時間差で爆発的なエネルギーを吹き出す様もぴったりな例えで、噴き上がる蒸気に蓋がキンキン鳴り出すように、平木の内に喜びが弾けた。その鮮烈さは夏の日の青空のようで、尋常であれば直視できないほどの眩さを目を見開いて受け止めながら、俺は歌っていたのだ、あの時確かに、夢にまで見た場所で歌っていたのだと平木は思い、早鐘のように打つ心臓が血液と共にその喜びを全身に送り出し、臓腑という臓腑、髪の一本一本、爪の先に至るまでその喜びが満ちた時、平木の胸にはただ一つの思いが湧き起こり、沸騰した脳で冷静を装う自分を笑いながら浮かべたのは、今や宣言通り二児の父となった男の“また好きになる”という予言の言葉だった。
気がつくと、平木の身体はヴォーカルスタジオの前にあり、小窓の中の小さな部屋をじっと覗き込んでいた。2畳ほどの小さな空間。パイプ椅子、ギター、コンデンサーマイク。テイク毎にコントロールルームからマイクを通して飛んでくる声。窓の向こうでふざけて踊る二人の姿。この部屋の、内から見える風景。楽器録音用のメインスタジオからコントロールルームに戻った森は、その平木に視線を留めて、やはりさばさばとした口調で告げた。
「……そこは、歌う場所だよ」
知っていると、そう思った。知っている。歌う者だけが入れる場所だ。歌う意思のある者だけが、入ることができる場所だ。かつて、平木はその権利を持っていた。この内にいて、小さな窓から外を見る権利。けれど、今はない。今の平木には、この部屋に入る権利はない。変わっていない、はずがない。テツがいない、マルがいない、曲がない。それはつまり、何もないのと同じことだ。今の平木には、何もない。
全身に満ちていた喜びが、急速に色を変える。色を変えただけで、勢いに衰えはない。桃色の喜びが、紅に染まる。紅の感情は心臓に根を張り、痛みにも似た感覚を持って体内の隅々に枝を伸ばし、赤い蕾をつけ、その花はすぐに色々を内包して膨れ上がり次々と花開き、体内で爛漫に咲き誇る花の圧に耐え切れず平木は口を開いた。
「……歌いたい」
口をついて出た言葉は、赤い小さな花びらだった。色々が交じり合って咲いた花の、そのひとひら。歌いたいと、思った。心の底から、身体の全てが、歌いたいと叫んでいた。夢を、叶えたい。もう一度、夢を、追いかけてみたい。逃げずに、向き合ってみたい。夢と、希望と、人と。本気で、向き合ってみたい。
重たい防音扉に、そっと手のひらを当てる。ひやりと冷たい扉に、拒まれていると、そう思った。今は、拒まれている。今は、まだ。
「……トーヤくんはさ、そうじゃないと」
歌わないとダメだよと、森が言った。扉に手を当てたまま森に視線を遣ると、小さいはずの彼女の姿が今は酷く、大きく見えた。
待ってくれている人がいるのに、歌わないのはダメだよ。
「……テツくんとマルくんとはさ、今も時々会うんだよね」
古い知り合いが主催するブラスバンドチームに、ヘルプで時々参加してもらうのだと森は続けた。ギターとドラム。へえと思う。ここ数年は年賀状のやり取りだけになっていた二人の近況を平木は知らず、森を通して二人を見る、この構造の違和感に対する驚嘆が一つ。趣味で続ける。それを実践している戦友に対する感嘆が一つ。そうしてまた、音楽を奏でる彼らのことすら知らない自分は、あの二人からも明確に逃げていたのだという実感が一つ。
森は部屋の中を軽い足取りで進み、コントロールルームの特等席、レコーディングエンジニアの為に置かれた黒いオフィスチェアに腰かけた。その椅子に座る森を平木は初めて見、堂に入ったその姿に、あの頃と変わったものをまた一つ数え足した。
本当は、分かっていた。同じに見えるものも、実際には刻々と変化している。変わらずあり続けるためには、変化し続けなければならない。変化し続ける世界の中では、変化のないものは消えるより他ない。だから。消えない彼らは、変わり続けている。
「……二人ともね、恥ずかしいくらいトーヤくんの話ばっかりするよ。あの時トーヤが、ってね。酔っぱらうといつも」
面白いから周りが囃すせいもあるんだけどねと森は言い、彼方を見る目でふっと笑った。
「二人とも、トーヤくんのことが大好きなんだなって、見てて分かるから可愛くて」
その後一瞬、森は口をつぐみ、次に口を開いたとき、その目はもう笑っていなかった。
「……だからね、トーヤくんは歌わなきゃダメだよ……あの二人は優しいから言わないけど、私は優しくないから言うね」
そう言って、森はすっくと椅子から立ち上がり、しゃんと背を伸ばした。
「甘えてんなよ。たくさんの人がかじりついてでも欲しいと思う栄光を自分で棄てておいて、そのくせ諦めることもできてない。辞めるなら辞めきれ。本気の人たちが上る舞台でふらふらするな。目障りだ。下手に能力あるから甘やかされちゃって、それに甘んじているずるい人間だ。いまのトーヤくん、マジで格好悪いよ」
私は、しがみついてでも、責められても詰られても、今の立場を棄てたりしない。
絶対に、と森は言った。その言葉の強さに、平木は身震いした。身震いして俯き、そうして、口許を歪ませて微かに笑んだ。格好悪いと、悪魔の声が模倣した。
「私は、君みたいな人間は大嫌いだ」
吐き捨てるような語調に気圧され、ふらりと一歩後ずさる。大嫌いだ。誰も、そう言ってくれる人は居なかった。誰も、自分を責めてくれなかった。詰ってくれなかった。許されて、慰められて、甘やかされて。お前のままでいいと、そう言って、守られてきた。変わる必要はないと、そう言われてきた。
甘え。その通りだ。甘えていただけだ。ずっと。歌わなくても生きていけるように仕事が与えられて、歌わなくても忘れずにいてくれる人たちがいて。歌わなくても、歌えなくても、ここに居て良いと、思わせてくれていた。真綿のような優しさ。平木はただ、その綿の中で目をつぶって、耳を塞いで、自分の心臓の音に耳を傾けていれば良かった。それが、甘えでなくて何だ。
「……歌いたい、じゃ温いよ。他の誰が許しても、私は許さない」
平木に向かってそれだけ言うと、森は入り口に向かって足早に進み、扉を開けてじゃあねと告げた。
「……トーヤくんは出禁。曲が出来たら連絡ちょうだい」
私が録ったげる。自信満々のその表情が眩しいと、そう思った。
冬の匂いがする。鼻から吸い込んだ空気を口から吐き出すと、白い蒸気が濃く立ち上った。日曜日の午前6時。特別早い時間とは言えないが、週末の朝の住宅街に人影はなく、静まり返った薄暗がりに立っているとまるで、世界に一人取り残されたような感覚になる。ナイキのランニングシューズのつま先をアスファルトにとんとんと打ち付けながら、上下に着込んだウィンドブレーカー越しに染み入る冷気に、浜崎はぶるりと大きく身を震わせた。朝のランニングはサッカーをやっていた頃からの習慣で、実家を出た後もずっと続いていた。持久力とか、肺活量とか。歌うのにも役に立つから、というのは後付けで、多分、浜崎は単に、走るのが好きなのだ。冬の朝の刺すように冷たい空気や、夏の朝の熱気で濁る前の清々しい空気。そういう外気を、吸い込んで吐き出す。リズミカルに足を進める。頭が空っぽになる。その瞬間が好きだった。寒さのせいで知らず丸まっていた背中を意識的に伸ばし、肩回りをぐるりと回してストレッチを始める。少し位置を変えて、肩甲骨を大きく動かす。手首と足首。股関節のダイナミックストレッチ。手先や足先は冷えきったままだが、身体の中心が徐々に温まってくる。5分ほどのストレッチを終えて、浜崎はもう一度、白い息を吐き出した。完全に暖める必要はない。走り出しの最初の10分はウォーミングアップだ。アームバンドに入れた携帯でランニング用のアプリを立ち上げタイマーを開始し、たんっと地を蹴って緩やかに走り出す。
ー……まだ戻る気ないの?
昨夜、井岡はさらりと聞いてきた。平木は夕食のカップ麺を啜っていて、井岡は担いできたベースの入ったソフトケースを床に下ろしたところだった。テレビではお笑いタレントが温泉地を紹介するバラエティーが流れており、井岡が問うたそのタイミングで丁度彼のネタが決まり、一拍置いた浜崎の代わりに、テレビからはバカ笑いが響いた。
ー……居候、邪魔なら別んとこ探す
ずるい答えだと、自分でも思った。
ー別に、そうは言ってないだろ
浜崎の答えに、井岡は呆れたように肩をすくめ、ため息混じりにそう言った。
ーおれは良いんだけどさ。平木さん心配してるみたいよ。マサルくんはなんも言わないけどめちゃめちゃイライラ溜め込んでてドラム荒れまくりだし、シュウくんはマツリいなくてもちゃんとしようって必死だしさ。今日なんかシュウくん、お前の大学見に行こうかなとか言ってっから、おれが行きますよって言ってきたけど……まああれは、そのうち行っちゃうだろうなぁ、とかね
あっちはあっちで大変そうだなと、思っちゃったの。板挟み、と井岡はおどけた調子で言い、脱いだコートをハンガーに掛けて、帰りがけに寄ってきたらしいコンビニの袋をがさがさ言わせながら、浜崎の隣に腰を下ろした。流行りに流されやすい井岡は、浜崎と共に上京してきて独り暮らしを始める際突然“ミニマリストになる”と宣言し、軽薄そうな降るまいにそぐわない持ち前の几帳面さでマイルールを守り続け、今も、その部屋は殺風景で飾り気がない。6畳一間の長方形の部屋。端にはベッドが寄せてあり、その逆サイドに、テレビ台とテレビ、ベッドとテレビの間に、脚の低いテーブル一つ。服は数枚を着まわしで、部屋の隅に置かれた小さなハンガーラックに全て釣り下がっている。あとは、部屋から玄関までを繋ぐ廊下兼キッチンに、冷蔵庫と電子レンジ。生活必需品以外で井岡の部屋にあることを許されているのは、テレビ横のギタースタンドと、ベースだけだった。
ー……おれは、良いんだよ。ほんとにね
がさりとビニール袋を漁る音の後で、飲む?と井岡が差し出してきたのはビールのロング缶で、ライブの打ち上げ以外で井岡が飲むのを見たことがなかった平木は、ちょっと面食らってそれを受け取った。受け取っておいて呆然としている浜崎の隣で、井岡はさっさと自分のビールのタブを開け、乾杯も何もなくすぐに口をつけると、息継ぎ無しに4度、ごくごくと喉を鳴らしてようやく息をついた。
ー……高校の時さ、マツリがバンドの中でおれだけ声かけてくれたの、嬉しかったんだ……もともと、軽音やってりゃモテるかなってそんだけの為に始めたことで、こんな続ける予定なかったんだけどさ。マツリとやんの楽しかったから、続けられるなら続けたいなって。だから、おれあん時は結構軽い気持ちでやるって言ったんだけど。そうしたらお前、最悪潰し効くように大学は行けって言うし、でも都内じゃなきゃダメだって言うから志望校変えて。それで親が納得するとこ探したら、結局元んとこよりレベル上がっちゃったりして、なんだよ面倒だなって。断れば良かったなぁって思ったりもしたの。正直。
言葉の切れ目に、温泉まんじゅうを紹介するナレーションが挟まる。別に、見ているわけでもないのだろうが、井岡はテレビ画面の温泉まんじゅうをじっと見つめながら、もう一度、缶に口をつけた。喉元が、こくりと上下し、止まる。もう口の中には何もないはずで、しかし、引き結ばれた唇は動き出す気配を見せず、浜崎は井岡の横顔から視線を引きはがし、食べかけのラーメンを脇に押しやって、缶ビールのタブを上げた。指先で立ち上げたタブはこじ開けようとする力に抵抗を示したが、その抵抗も一瞬で、直後にはぷしゅっと小さく音を立ててその口を開いた。ふたの開いた勢いでかたりと缶が振れ、少しだけ零れた中身が浜崎の手を濡らした。つんとしたホップの香り。ぬれた手はそのまま、黙ったまま温泉まんじゅうを見つめ続ける井岡の隣で、浜崎は一口、ビールを啜った。子供のころ、大人たちが美味そうにビールをあおるのを見ては、早くあれを飲んでみたいと思ったものだった。父や母やあれほど美味そうに飲んでいるあの飲み物は、一体どんな味がするんだろう。そこには、知りえないからこその神秘があり、脚色があり、輝きがあった。けれど、実際口にしてみると、泡立つ黄金の液体は、幼い浜崎が期待したほど美味いものではなく、ああこんなものかという実感は浜崎を一つ大人にした。ほろ苦い、大人の味。井岡を東京に誘った時、浜崎はまだ、このほろ苦さを知らなかった。
そのまましばらく、お互いに無言だった。ホップの苦みを舌先で遊ばせる浜崎は言うべき言葉を持たず、井岡の言葉をただ待った。けどさと声がしたとき、テレビ画面には某有名女優が真っ赤なリップで微笑む化粧品会社のCMが流れており、先ほどの話の続きにしては間の空きすぎた一言に、浜崎は耳を澄ませた。
ー……けどさ、今はやっぱ、来て良かったって思ってんだよね。マツリと来なかったらこんな楽しい経験できなかったと思うし。こういう世界……なんていうか、こういう、勝負の世界?に立つ経験って、普通に生きてたら、多分一生なかったって思うから。だから、
おれは今ここに居るだけでもう充分だって思ってる。
井岡の言葉を聞きながら、浜崎はビールをちびちびやり続ける。ぱちぱちと微細に弾ける刺激が、口内を擽る。
ー……だから、おれはいいの。もう別にね。例えば、お前がもう辞めるって言うなら、じゃあ俺も辞めるって言って、それでおしまい。……けどさ、マサルくんとシュウくんはどうなんだろうね
花田勝、古澤修、そして井岡と浜崎。それが、Hi-vox.のメンバーだ。
曲をやるには奏者がいなければ始まらないと、平木が最初に連れてきたのが花田だった。もともとフリーで、色々なミュージシャンのバックバンドで叩いていたのを、平木が呼んできた。キャリアとしては平木とどっこいで、浜崎たちよりも8つ年上の花田は最初、浜崎らと組むことに良い顔はしなかったが、平木の顔を立ててだろう、嫌そうな顔をしながらも浜崎の歌を聴きにやって来たのだ。その時点でHi-vox.のメンバーは二人で、足らない楽器分は平木が電子音源を作り、それに会わせて井岡が演奏し、浜崎は歌った。何が、花田の心を動かしたのか。それは分からない。ただ、聴き終えた後、花田は迷いながらも了承し、Hi-vox.で食っていける保証がない限り今まで通りバックバンドの依頼は受けること、ただしHi-vox.のライブは優先することで平木と話がついてメンバー入りした。花田には花田の世界観があり、信条があり、プライドがある。だから、ぶつかることはある。それでも最後には、そうして出来上がった音楽を、持てる技術の全てをかけて具現してくれる。
ギターはオーディションにしたいと言ったのは花田で、そこで選ばれたのが古澤だった。裾野を広くと要望した花田のアイデアでネット広告を打ち、応募者全員の演奏を見て、主に花田の押しで古澤に決まった。ギターは中学から。高校卒業後はネットの音楽投稿サイトで個人活動をしており、バイトで食いつなぎながら自作の曲をギターで弾き語りをしていたが泣かず飛ばずで行き詰まっていたところをHi-vox.に拾われた形だった。ギターも曲のセンスも悪くないのに人気が出なかったのは、一重に古澤のヴォーカルとしての魅力のなさが要因で、楽曲製作は平木が担うという作曲家としての自分を切り捨てねばならない悪条件の中でも応募してきたのは、何でもいいから音楽で生活したいという夢があったからだと、いつだったか、そう言っていた。それなのに、思うように売れないこの2年、古澤はなぜだかいつも人一倍楽しげで、一人じゃないことがこんなに心強いとは思わなかったと洩らしたのは、Hi-vox.として初めてステージに立った日の夜で、浜崎にとって当たり前だった“誰かと一緒に音楽をやること”が、この男にとっては特別だったのだと知った。
その二人が、突然、何の説明も無しに現場放棄している自分をどう思っているか、なんて。考えたくもないと無責任にそう思い、もやつく気分を飲み込むために、浜崎は漫ろビールを流し込んだ。思いきりよく缶を逆さまにし、喉を開いて数秒。空になった缶をテーブルに置くと、カンと高く、短い音が鳴った。そうしておいて、ちらりと井岡に視線をやると、思いがけず目が合ってどきりとする。
おれは別にいいと、そう言った井岡は、全く“別にいい”という目をしてはいなかった。
井岡海斗は高校の同級だ。3年間軽音部で一緒だった井岡に声をかけたのは、一緒にやっていて心地よかったからだった。井岡の作るリズムは、浜崎の目指すリズムに近い。井岡とやるときは、何も言わなくても欲しい音が来た。どんなに抽象的な要望にも井岡は応えてくれたし、それが心地よかった。だから、これから先も一緒にやりたいと思って誘ったのだ。一緒に来て欲しい。そう言って誘った。浜崎が、誘った。
それなのに、今は。今、こうしてこちらを見つめる井岡の目には、確かに。浜崎を誘う、色がある。
ー……お前は、どうなの
これでいいのか。こんなところで満足しているのか。どんな理由でごねているのかは知らない。けれど、こんなところまで連れてきておいて、お前は、こんなところで終わりにするつもりなのか。
携帯が短く震えた。走り出してから10分経過したことを知らせるアラーム。浜崎は、ふっと短く息を吐き出してペースを上げる。足の回転に合わせて呼吸のリズムを整える。息を吸う。取り入れた酸素が血液に乗って全身に回る。糖を原料としてエネルギーを産み出し、筋肉が運動する。息を吐く。エネルギー生成の際に生み出された二酸化炭素は血液に乗って肺に戻り、吐き出す息と共に体外に排出される。運動する筋肉が熱を持ち、その熱を逃がすために毛細血管が開く。痺れるような感覚と共に、指先の温度が上がり出す。
終わるつもりはない。終わるつもりはないと、それは間違いなく言える。終わりたいと思っている訳じゃない。ただ、分からなくなってしまった。欲しいものを得るための方法を、平木を焚きつけるための手段を、見失った。
言われるがままに、従順に。そうしていれば、いつかは。憎まれ続けても、折れずに。そうしていれば、いつかは。こちらを向いてもらえると、そう信じていた。信じようとしてきた。信じて、走ってきた。……けれどあの日。浜崎のためではない音楽を、毒ではない音楽を作る平木を見つけたあの日から、信じることが出来なくなった。浜崎が歌う理由。目指す場所。目的地を失って、だからもう、どこに向かって走ればいいか分からない。だから今は、歌えない。
息が上がる。がむしゃらに走ってはいけない。呼吸、ペース、フォーム。早く走るにはコツがいる。知らない訳ではない。毎日、毎日、毎日。一日も休まず毎日、走っている。走ってきた。呼吸もペースもフォームも、分かっている。分かっているのに、乱れていく。ここのところ毎日だ。毎日。呼吸が、ペースが、フォームが。バラバラになる。思う通りに動かない。足が重い、胸が痛い、喘息のように喉が鳴る。不快な汗が、全身から吹き出す。身体の中心は熱を持って火照るのに、肌の表面は凍りつくほど冷えきって、走っているのに背筋が震える。空気が、体に纏いつく。水中を走っているようだ。一歩が重い。進もうとする意志を砕く、強い抵抗感。ちらりとアプリのメーターに視線をやると、距離としては普段の半分ほどしか来ていなかった。呼吸に構う余裕はない。歯を食い縛り、必死で、足を蹴り出す。蹴り出したはずなのに、身体は全然前に進まない。全身が鉛のような重さで、腕を振ることすら苦痛になる。一歩、二歩。進んでいる気がしない。三歩、四歩。俺は今、何をしているんだろう。五歩。……六歩目はもう、前に出なかった。両ひざに手をついて体を支える。目眩がする。熱くて、寒い。気分が悪い。立っていることもままならず、道沿いのブロック塀に右肩を凭れさせる。ひゅうひゅう鳴る喉元を左手で押さえ、浜崎はゆっくりと膝を折った。こめかみを伝った汗が、ぽたりと落ちて地面を汚した。
人通りのない住宅街。薄墨色に白み始めた冬の空。唇を濡らす真っ白な蒸気。ぜいぜいと煩い呼吸音と、壊れたような勢いで打ちつける心音。
冷えきったアスファルトに膝をつく。流れ落ちる汗が一瞬で冷えてゆく。このままではまずいと、そう思うのに。
もうここから一歩たりとも、前に進める気がしなかった。
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