第94話 驚愕

 土曜の夜八時過ぎ、自宅に市長から電話が入った。膨らんだ風船を針で突くように、唐突に切り出す。

「坪田さんも出るざ」

 無投票の安眠を打ち破るアラームが、威勢よく鳴り響いた。

「これまでいろいろありましたが、やはり立候補することに決めましたので、どうぞよろしくお願いします」

 そう言って、昨晩のパーティーで、彼女から直接頼まれたそうだ。

「他に言いようがないから、『がんばってください』とだけ言っておいたけど、信頼できる身近なところへは倉知さんのことを頼んであるから。市長選のほうも頼むのう」

「ありがとうございます。お互いがんばりましょう」

 冷静を装いながら、電話を切った。

 目の前の不安に鷲づかみされ、心臓が音を立てる。

 それまでの噂では、坪田さんは地区にも推薦を断られ、水の会の応援もなく、しばらくは夫婦二人だけで運動に歩いていたが、最近ではその姿も見かけないという噂だった。立候補を断念したことを、本人から聞いたという人もいたほどだ。出馬しないことは、周知の事実だったのだ。

 立候補すると聞かされ、愕然とした。

 心理戦として十分効果的と思えるほどに、神経に応えた。心のどこかで無投票当選を期待し、安心しきっていたのである。

 最初に「倉知さんと選挙戦するんや」と宣言した通りに運動してくれたほうが、こちらも選挙運動がしやすい。支持者も「今度こそ当選させてやろう」と真剣になってくれるだろう。今の状態では、誰もが他に候補者もいないから無投票当選するものと、当然のように考えてしまう。はっきりしない相手ほど、戦いづらいものはない。

 日曜には約束通り、再び西條さんを訪ねた。金曜の夜は市長と同様、坪田さんに呼び止められて、よろしく頼まれたという。「私は立候補をやめたなんて一度も言うてない」と、しばらく捕まって話を聞かされたそうだ。僕は同じ話を聞くのが二度目であることと、すでに選挙戦の覚悟を決めたあとだったので、昨日のような精神的な衝撃はなかった。

「駄目押しでもう一回、理事長に挨拶しとこうか」

 西條さんに促されて外へ出る。たくさんのお年寄りたちとともに座る理事長の隣で、谷村議員がビールを飲んでいた。

 西條さんの話では、夕涼み会のボランティアスタッフとして、坪田さんが手伝いに来ているらしい。それとなく見渡したが、夕闇に霞む大勢のお年寄りの姿が見えただけだった。

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