第32話 蟷螂の斧

 土曜の朝、手を振っている夢を見て、目が覚めた。

 左手を頭の上にまっすぐ伸ばした状態だった。疲れが限界にまで達し、寝ていても体を休められなくなっていた。

 それでも、人の温かみに触れると、心は救われる。

 この日の午後、天神通りで、おばあさんの手を両手でしっかりと握ったとき、「ちびてぇ手して。かわいや」と涙を流しながら、僕の手をさすってくれたのだ。思わずつられて泣きそうになったが、ここで泣いていては次へ回れなくなると思い、奥歯を噛み締めてこらえた。

 選挙は、人間の貪欲さと純粋さを露骨な姿で見せてくれる。その人の本性が現れてしまうようだ。

 一週間の選挙運動がすべて終わった夜、明かりを消した事務所の二階で、全身が石像になったかのような重みを感じながら、横になっていた。先に父が寝息を立てていた。両足は鉄の棒のようだ。背の高いワゴン車の助手席から飛び降り、支持者のもとへ走っているうちに左膝を痛めていた。最後に運動員全員で町内を練り歩いたときは、左足を引きずり、終いには母の肩を借りるほどであった。

 誰かが階段を上ってきたが、暗闇に体を休めているのを見て、静かに下りていった。

「一石は投じたんやでな」

 横になったまま、ただ一言、父は自分自身にも言い含めるように呟いた。

 父は落選を予感していたのだろうか── 地域代表として立候補するこれまでのやり方に対し、蟷螂の斧かもしれないが、地盤を持たない全市的な草の根運動を最後まで貫いた。たとえ負けたとしても、それだけは誇っていい── そう告げているように思われた。

 しかし、僕自身は結果が出るまでは、負けを認める気はなかった。

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