第一話 俺の秘密はあってないようなもの
「昌平、ちょっと。ネクタイ」
「お、おぉ」
「これで、よしっと」
いつになっても着慣れないスーツ。その様を見て、手を出して来る緋菜。いつもと変わらない。俺達の形である。
「しかし、本当に見慣れないねぇ」
「うるせぇな。年に二回着るだけなんだから、しょうがねぇだろ」
「はいはい。可愛い、可愛い。似合ってますよ」
付き合い初めの頃はあれこれ悩んだが、一年も経つと、まぁ大体こんな感じ。年上ぶってカッコつけたり、尻に敷かれたり。二人で居る時だけはこうやって、どっちが上でもないような関係を続けている。
緋菜は、昔よりも柔らかい表情をするようになった。気持ちを隠すようなこともない。素直に、真っ直ぐに、俺に色んな感情をぶつけて来る。喧嘩になって、苛つくことだってあるけれど。結局俺は、緋菜を甘やかしているような気がして、いたりする。
そんな緋菜は今、ウェディングプランナーとして働き始めた。資格を取得した時の陽さんの話では、最短で取れたらしい。「凄いね、頑張ったね」とあまりに褒めるから、俺まで鼻高々で居たのは内緒である。その後直ぐに転職し、慣れない仕事に忙殺される彼女を支えるのが、俺の大事な役目になった。休みの日を合わせては、甘い物を作ってやったり。勉強をしたい、と言われれば、隣で静かに本を読んだ。そうやって、俺達は寄り添い合って生きている。それもこれも、一年前のあの日から始まったんだ。
あの日、二〇二〇年三月二十二日。結局俺は、緋菜の部屋へ行った。クリスマスに見た時とは何かが違う、スッキリとした部屋。それが彼女の覚悟を表しているようでもあった。言われるままテーブルの前に腰掛け、緊張していたのを今でも思い出す。二人でマカロンを食べて。くだらない話をして。そして――――
さっきまで話をしていたと思ったのに、目を開けるともう朝だった。左肩には緋菜が寄り添ったまま眠っている。右手で携帯を確認すれば、当然の如く『二〇二〇年三月二十三日』と表示された。ちゃんと帰るつもりでいたのに、結局俺は。小さく溜息を吐いて、つい身なりを確認する。俺も、緋菜も、服は着たまま。ベッドにも入らず、ただ寄り添って眠ってしまったようだった。寝顔も可愛らしく、何かをむにゃむにゃと喋る緋菜。そこに朝陽が射し込んで、その寝顔が俺にまたもたれ掛かる。ここに緋菜が居るということが、何度目かの安堵を俺にもたらせていた。
離れていた時間、緋菜はここで自分を変える努力をし、歯を食いしばっていたに違いない。心に秘めた物を溢れさせ、色々な物を削ぎ落したのだろう。俺はただ、そんな緋菜が愛しくて仕方ない。まだ眠っている彼女の髪に、そっと手を伸ばした。
「ん……あ、昌平?」
「うん、ごめん。起こしちゃった?」
「大丈夫。んんっと」
目覚めた緋菜は、寝ぼけ眼のまま両腕を大きく天へ伸ばす。彼女はいつの間にか着替えたのだろう。それすら覚えていない。クリスマスの時と同じラフな格好をした緋菜が立ち上がると、スラリとした脚が目に入る。やっぱり緋菜はスタイルが良い。あぁいや……顔も良いのだが。なんて変なことを思っては、一人で顔を赤らめた。
「よし、朝ごはん作るね」
「いっ、いや。緋菜。作れるのか。俺、やろうか」
「昌平……大丈夫。この日の為に練習したんだから」
この日の為。そう言われると、出した手は直ぐに引っ込んだ。俺がこうして泊まる時の為に、緋菜は。
「玉子焼き、綺麗に出来なくても笑わないでよ」
憑き物が取れたように、緋菜は大らかに笑った。顔を洗って、髪を簡単に纏め、躊躇いもなくスッピンを晒す。男らしい、というか。気風が良い、というか。何も考えていない、というか。微妙な感情が、あれよあれよと顔を出した。
苦笑いの俺に、緋菜はタオルを出してキッチンへ立つ。それを手にして俺が洗面所に行けば、キッチンからブツブツと声が聞こえるのだ。そっと覗けば、念仏のように唱えながら材料を並べているところ。心配になるが、手を出してはいけない。グッと堪えて、水を出した。
「あ、昌平。化粧水、とりあえず私の使って。そこにあるから」
キッチンから声が届く。おぉ、と返事をして、見慣れない化粧品のボトルに手を伸ばす。女の子は色んな物を付けるんだな。妙に感心しながら、一つ一つ確認し、ようやく化粧水を見つけ出した。髭がポツポツと伸びた自分の顔が、鏡に映る。それがまた、緩んだ情けない顔をしているのだ。キリッとさせているつもりだったのに、それも仕方ない。手の届くところに緋菜が居て、笑ってくれる。俺は今、幸せなんだな。結局、そう実感しているのである。
「あ、良い匂い」
顔を洗い終えると、ふんわりと出汁の良い匂いが鼻へと届いた。
「美味そうな匂いだな」
部屋へ戻りながら、キッチンを覗いた。緋菜は真剣な顔をして、野菜を切っている。指を切るなよ。そう子供のように心配しては、目尻を下げた。
「本当?良かった。陽さんにね、教わったんだ。簡単なやり方って。もう少し出来るようになったら、昆布がどうのって言ってた」
「あぁ合わせ出汁ってことかな」
「そうなの?あとは三山家の特製玉子焼きと、おにぎりね」
「おぉ。ちゃんとした朝ごはんだな」
「でしょ。これも全部、陽さんの計画通りね」
緋菜はそう笑ったが、俺にはその意味は分からない。でも、それで良いんだと思った。そうやって、陽さんに甘えて、色々吸収する。緋菜にとってはそれは、自分を成長させる良質な方法だったろう。目標にするような人物が近くにいることは、とても良いことだ。
懸命に料理をする彼女に、目を細める。そもそもこういうことが苦手な緋菜は、きっと時間は掛かるだろう。見ていたい気もするが、そうすれば心配でつい手を出してしまいそうになる。グッと堪えて、可愛らしいうしろ姿を見ていることにした。また同じところへ腰を下ろし、ベッドにもたれ掛かり部屋を見渡す。棚には、資格の本が並んでいる。そういう小さな彼女の努力を見つけては、心がぽわッと温かくなっていた。
「あちっ」
「おい、大丈夫か」
「あ、ごめん。大丈夫」
慌てて駆け寄ると、緋菜が指を擦っている。フライパンの縁触っちゃった、と恥ずかしそうに言うのだ。俺は後ろから緋菜を覆い、擦っていた指に手を添えて水道に晒す。細指が少し赤らんだが、さほど大きな火傷ではない。良かった、と胸を撫で下ろせば、緋菜は何だか赤らんだ顔で俺を見ていた。
「あ、有難う」
おずおずとそう言った緋菜。それをじっと見つめる。薄くピンク色に染まる頬と赤くなった耳。俺はそこにそっと触れて、唇を寄せた。
「気を付けて。慌てなくて良いからな」
素知らぬ顔をして。余裕のある顔をして。俺は緋菜に背を向けた。バクバクと心臓が煩い。格好を付けて、平気な振りをした訳じゃない。そうでもしないと、落ち着けなかっただけだった。
緋菜にキスをした。緋菜にキスをした。緋菜にキスをした。パニックになって頭の中で繰り返される。自分の中が熱い。落ち着こうとした俺は、静かにゆっくり息を吐いた。付き合っているんだから、そのうち通り過ぎること。それは分かっている。けれど何で今、このタイミングでしたんだ。もう少しロマンティックなことを、緋菜は望んでいたかも知れないのに。
「あ、あの……少し不細工だけど。出来た、よ」
「おっ、おぉ」
二人して、赤い顔をしている。コトンと小さな音を立てて、朝食がテーブルに並べられた。緋菜は緊張気味に、ゆっくりと隣へ腰を下ろす。
「あ、有難う」
「いえ……どうぞ」
妙にたどたどしく、俺達は目も合わせられなかった。いただきます、と迷わず味噌汁に手を伸ばした俺。鰹出汁の味噌汁が、空腹の胃に落ちていく。それで安堵するのだから、俺はやっぱり日本人なんだな、なんてアホみたいなことを思っていた。まぁ単に誤魔化しているのである。自分の煩い心の音から。
「緋菜。美味しいよ」
「本当?……あぁ良かったぁ」
パァッと顔を明るくしてこっちを見るから、つい頭を撫でた。楓と同じように思った訳じゃない。不器用な緋菜が、ここまでやれるようになった努力を思ったまでだ。へへッとはにかんだ緋菜に、また唇を重ねる。今度は、少し落ち着いて。
「なぁ緋菜。今日どこか行こうか」
「……え?良いの?」
「良いのって何だよ。良いに決まってんじゃん。折角、休みが合ってるんだし。行きたいところあるなら、行こう。ここで勉強したいなら、それでもいい。俺、一回帰って本とか持って来るから」
余裕ぶって、平気な顔を維持している。バクバクと心臓が煩いのは、何とか堪えた。話を逸らした俺に、緋菜はまた目をキラキラさせる。
「ねぇ?デート、ってこと?」
「え、あ……そういう事、ですね」
思わず変な言い回しになって、緋菜に笑われた。でもこうやって、妹のような友人から恋人になっていくんだろう。そして緋菜の中の俺もまた、同じように変化していくに違いない。時を重ねて、色んな物を乗り越えて、俺たちの関係性を作り上げるんだ。呑気におにぎりを食べ始めた緋菜を、抱き寄せる。
「え?何?」
少し怪訝な顔をした彼女。ロマンティックなことを考えていたのは、俺だけだったかも知れない。
――――そして、二〇二一年三月二十八日。俺達はかなり気取った服を着て、痴話喧嘩をしながら歩いている。
「昌平、良い?ちゃんと言える?」
「何だよ。お前、俺を子供だと思うなよ」
「思う訳ないでしょ。立派な大人です。でも緊張してるじゃない」
「仕方ないだろ。だってさ……」
「だって、じゃないの。あぁもう。これだから昌平は」
呆れる緋菜。これもいつも通りだ。でも、今日は緊張したって仕方ない。大事な、大事な日なのだから。
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