第二話 僕は秘密を守り抜いた
「忘れ物ない?」
「うん、大丈夫」
駅のホームで、陽さんは今日も僕を子供扱いする。これはいつも同じこと。彼女が教授と別れて一年経っても、僕らの付き合い方は何も変わらない。こんな扱いをされたことも、もう慣れたもんだ。暫くブスッと剥れたりしていたが、それも無意味だと悟った。彼女の中で、僕は弟みたいなもの。その関係性は変わらなかった。
「それにしても、昌平くん大丈夫かなぁ」
「えぇ。大丈夫じゃないかなぁ。私は、大丈夫だと思ってるけど」
「うぅん、でもさ。大事な所で噛みそうじゃない?」
彼を心配しているのは、僕だけのようだった。確かに、と陽さんは笑ったけれど、あれは心配している顔ではない。僕にだって、そのくらいは分かるようになった。我慢をしている顔だとか、誤魔化している顔だとか。そんなものは前から知っていたけれど。細かな表情の違いに気付けるくらいには、僕らは並んで歩けていた。
あの日、二〇二〇年三月二十二日。僕がとんでもないことをしてから、もう一年が経った。今直ぐ気持ちを伝えることはしない。そう決めて、更に宣言までした後で。僕は、彼女を押し倒した。陽さんの痛みを目の当たりにして、僕は自分を見失っていた。その傷一つ一つにキスをして、止まらなくなってしまったのである。以後のことは、実は良く覚えていない。苛立ちと悲しみとで、僕の中が一杯になってしまった。セックスをしようだなんて、あの部屋に入る時は思ってもいなかったのに。結局僕は、理性を保てなかったのだ。
そして反するように、翌朝のことはよく覚えている。陽さんの作る朝ご飯の匂いで目覚めた幸福感。それから、改めて思い出して動揺したっけ。色々話をして、僕はあのフワフワの髪に触れた。そうしてあの時、彼女は言ったんだ。どうしてそんなことを言うのか分からなかったし、何なら今でも分かっていない。それなのに、僕は――――
二〇二〇年三月二十三日、朝。僕は、良い匂いを嗅ぎながら、明るい部屋で目を覚ました。起き上がる前に、現在地を確認する。見覚えのある天井、壁。あぁこの小上がりは。むくッと起き上がって、小さく「あぁっ」と零した。
理由は簡単である。しっかり穿いているのがパンツだけだったこと。そして、薄っすらと思い出される記憶を繋ぎ合わせれば、昨夜の出来事など容易に引っ張り出せた。
「あ、おはよう」
「おは、ようございます……」
陽さんは、いつも通りの表情でキッチンに立っている。まるで何もなかったかのように。僕が一人で裸踊りでもして寝てしまった。そう言われても信じてしまう位、彼女は普通だった。
「シャワー浴びる?私、もう済ませたから」
「あ、じゃ……じゃあ」
「ちょっと待って。タオルとか用意するね」
何かを刻んでいた手を止めて、彼女は部屋から消える。一人残された僕は、もう一度、自分の格好をマジマジと見下ろした。下着は付けている。シャワーを借りても着替えはない。一先ず同じものを着て、一度帰ろう。陽さんの誕生日プレゼントを考えなくっちゃ。昨晩帰ってやろうと思っていたのに。計画は何一つ立てられていない。どうしようか。好きな人の部屋で、パンツ一枚の僕。それなのに、冷静にあれこれ考えようとする。それが酷く滑稽であることに気付くと、大きく首を垂れた。
「どうしたの、項垂れて」
「あぁ、いや。……あのっ」
「ん?」
「その……」
何を言ったら良いのか。平気な顔をしていれば良いのか。どうしよう。正解が見つからなくて、つい目を泳がせている。
「成瀬くん。謝ったりはしないでよ」
「え?」
「今、冷静になって。しまった、って思ってるんでしょ」
「そ、そういう訳では……ないです」
酷く慌てる僕に、彼女は微かな笑みを作る。それが、どことなく悲しそうだった。原因は、こんな顔をしている僕にあるに違いないことくらい分かる。
「気にしないで、いいの。忘れて、とは言わない。忘れようとも思ってない。謝ったりだけは、しないで。下世話な感情じゃなくて、そこにあなたの気持ちがあったんだって、私は思いたい。だから、謝ったりしないで」
そう一気に言い切ると、陽さんはフゥッと細く息を吐いた。ゆっくりと目を閉じて。静かに睫毛が揺れる。恐らく何も纏っていない彼女の素肌。僕はそこへ手を伸ばした。
「それでも、僕は謝らなくちゃいけない。だって、まだ告白はしないって言ったばかりだったのに。舌の根も乾かないうちに、僕は陽さんに触れてしまった。それは謝らないといけない。ごめんなさい」
「でもそこに……そこに愛はあった、のよね」
陽さんが、震える瞳で僕を見る。だから僕は、そのままスッとキスをした。ちゃんとあるよ、と囁いて、また唇が重なる。陽さんは少しだけ、困った顔をした。あぁ夕べも、彼女はこんな顔をしていたな。衝動的だったとはいえ、彼女の気持ちを確認もせずに、僕は。
「陽さん。嫌、だった?」
そう聞く僕の声が弱々しい。嫌だった、と言われることが怖い。それでも、無理矢理に押し倒してしまった以上、僕は誠意を見せなければいけないから。その言葉に陽さんは、小さく首を振る。「怖かったけど、大丈夫」と絞り出すのだ。
それを聞いて、夕べの彼女を思い出していた。酷く傷付いた細い体。柔らかい部分に無数に付いた、あの男の跡。まだ生々しく残っていたそれを、彼女は見られたくないと思っていただろう。僕は、陽さんを抱き寄せた。
「大丈夫だよ。いつかは消えるから」
「うん……」
小さな肩を包み込んで、彼女の髪に触れる。フワフワで少し癖のある柔らかい髪。それがとっても陽さんにぴったりだと、僕は思っている。僕の中で、彼女はゆっくりと呼吸を整えていた。そして、何かを囁く。小さな声だったから、え?と聞き返した。そしてもう一度彼女が言った言葉に、僕は呆然としている。
――――それから一年。一応、付き合い始めた僕らは、静かに大人の恋愛を進行させていた。昌平くんたちにも内緒にして、静かに静かに愛を育んだ。彼らに、というよりも誰にも言わなかったのは、彼女がそう望んだからである。
陽さんは、堂々とすること、に慣れていなかった。手を繋いで歩くのは嬉しそうだったけれど、関係性をわざわざひけらかすようなことは、絶対にしたがらない。何時だって強く拒んでいた。彼女の中に、幸せになることへの戸惑いがあることは分かっていた。一年も経てば、少しは良くなったものの、時折その躊躇いは顔を出す。そういう時の対応も、今では手慣れたものだ。電車を降りて、キリッとした顔をして並んで歩く彼女。荷物は絶対に自分で持つタイプである。少しは甘えてくれてもいいのにな、と思っているものの、言ったことはない。ベタベタすることもなく、後腐れなく付き合っているような、そんな気すらしてしまう。
だからこそ、今、僕はあの真意を聞きたいと思っている。どうしてあんなことを言ったのか。駅を出て、目的地に着く前に。
「ねぇ、陽さん。一つ聞いても良い?」
「え?うん」
「何で、あの時。あんなこと言ったの?」
「……あの時?」
どうしても怖くて聞けなかったことだ。陽さんは、忘れてしまっただろうか。いや、忘れるはずはないんだけど。
「ほら、あの朝」
「あの朝……ってどの朝?」
ふざけている様子でもなく、本気でどの朝か考えている。言われたことを言ってしまえばいいのに。色んなことを思い出して、それが面白くない僕は、やっぱり子供だ。「ほら、一年前」とヒントを出して、何とか誘導しようとする。真面目な陽さんは、歩きながら首を傾げて、懸命にそれを手繰り寄せようとしていた。
「ごめん。どの朝のこと?」
うぅん、と唸りながら、陽さんはそう僕に降参する。言いたくないけど……理由は知りたい。あの扉を開ける前に。
「言ったでしょ……私と結婚してくださいって」
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