第三話 例え秘密を失くしても、私の罪は消えない
「言ったでしょ……私と結婚してくださいって」
電車を降り、目的地はもう目の前。そんなところで、彼――成瀬文人は私にそう問うた。初めから、ハッキリとそう聞けばいいのに。彼はいつも、こうやってモジモジしてしまう。あぁ、そうか。この件に関しては、母親から相当笑われたのだ。それ故に、二人しかいなくとも、言葉にするのが躊躇われたのだろう。
「言いましたね。確かに」
「そうだけどさ……どうしてあのタイミングで言ったのかって。僕、ずっと気になってて」
「ずっと?それを今聞く?」
この一年、その疑問を温め続けていたと言うのか。聞こうと思えば、こんな時じゃなくとも、タイミングなど幾らでもあった。私の反応が面白くなかった文人くんは、ムスッと膨れている。こういう仕草はあまりしなくなったが、きっと癖なのだ。意識していないと、素で出てしまうのだろう。それはとても可愛らしいが、そう素直に言えばどうせ怒るに違いない。
彼の言うあの時とは、花見の翌朝のことだ。緋菜ちゃん達を見送った後、私たちはなし崩し的にセックスをした。してしまった、というのが正しい表現なのかも知れない。そしてその翌朝、私は確かに、彼にそう言った。正確には、「結婚しませんか、私達」だったと思ったが。文人くんは剥れながらも、その答えを待っているようだった。一年も経って今、何故と聞かれても……
「今更、あの時の気持ちなんて思い出せないよ」
「えぇぇ。だって、結構凄いこと言ったんだよ?分かってる?」
「分かってますよ」
澄ました顔をして誤魔化す。でもきっと、彼は食い下がると思う。
「本気だった?茶化したの?僕のこと」
「ふざけてたように見えたの?」
「見えなかったけど、さぁ」
「じゃあ、いいじゃない。きっと、好きだったのよ。あの時も」
剥れてた頬が、あからさまに緩む。彼の可愛いところは、こういう素直さである。
あの時のことを、私は忘れた訳では無い。霞んできた記憶を、今、口にしたくなかっただけだ。まだ傷だらけだった私。征嗣さんの記憶が、体にしっかりと刻まれていた時である。それを受け入れられたことが、私は本当に嬉しかった。ただ純粋に嬉しかったんだ――――
「大丈夫だよ。いつかは消えるから」
「うん……」
そう言って彼は、私の髪を撫でる。征嗣さんがしたように。そして、それよりもずっと優しく。今の醜い私の体を、彼は拒否しなかった。それがどれほどに嬉しいのか、きっと成瀬くんには伝わらないだろう。数回、小さく呼吸をして、征嗣さんと違う匂いを感じている。
心の中には、色々な感情があった。成瀬くんと恋が出来たら、と希望は勿論ある。でも冷静になった彼は、本当は私を薄汚い女だと思っている可能性だってある。その不安が次第に大きくなり始めていた。征嗣さんの跡を、いつかは消えるから、と言ってくれる成瀬くん。もしも、そんな彼と新しい時間を構築出来るのならば、少女のようなもどかしい恋などしていられない。一人置き去りにされる恐怖との背中合わせ。諦めて求めないのか。それとも、手を伸ばすのか。
「結婚……」
「え?何?」
「結婚、しませんか……私達」
思わず出た言葉に、彼は目を丸くする。そりゃそうだ。いくら何でも、現実的ではない。きっと彼は言うだろう。焦らなくていいんだ、と。征嗣さんを強制的に消し去りたい。その思いが全くない訳ではない。勢いだけで言っているのか、と聞かれれば強く否定も出来ないだろう。私の罪は消えていない。アンバランスな心情が表に出て来てしまった。嘘、嘘、忘れて。そう言えばなかったことに出来るだろうか。
「あ、えっと……」
「……う」
「よ、宜しくお願いします」
「え?」
頭を掻きながら、彼はそうはにかんだ。それからあまりに驚いている私を見て、「え?嘘だった?冗談?」と慌て始める。それが可笑しくて、ホッとして、私は笑った。目尻に涙を溜めながら、笑った。
二〇二〇年三月二十三日、朝。私の無計画のプロポーズは、まさかの成功を収めた。それはロマンティックでも何でもない、私の部屋で。パンツだけを穿いて、寝ぐせだらけの成瀬くんと。お味噌汁の出汁の匂いに包まれて。
――――そして、今日。交際と言うか、婚約と言うか。そんな関係になって一年が経ち、私達はついに結婚をする。
「緊張して来た……」
「陽さんでも緊張するんだね」
「何それ」
キッと睨むと、へへッと文人くんが笑った。
今日は、友人や同僚を呼んだ細やかなパーティである。式なんてしなくていい、と言った私を諭したのは、文人くんではなく義母だった。綺麗な時にドレスを着ておきなさい。彼女の言葉は重かった。その言葉には義弟の妻も大きく頷いて、そんなものか、と納得した訳だ。そうなれば、話はもう早い。式場、というのは緋菜ちゃんのところ一択だったし、悩むことも少なかったのだ。それに、私達は呼びたい友人も少ない。本当にこじんまりとした、小さな小さな祝宴なのである。
「いよいよ、ですね」
貸切レストランの入り口の前で、私達は並んで深呼吸をした。その重たい扉に手を掛けて、顔を見合わせる。
「緊張してきた」
「あ、緊張するんだ。二回目でも」
「はぁ?何それ。しますよ、そりゃ」
私の意地悪に、彼がムスッとする。いつものように頬を膨らませて。
言わずもがな、彼は二度目の結婚である。だから、大きな披露宴というものを彼の家族も望まなかった。私には家族がなかったし、丁度良かったのだろうと思う。彼の親族にはお正月に丁寧に挨拶をして回り、着物の写真だけ、彼の両親と一緒に撮った。初めて出来た『おとうさん』という存在を妙に意識してしまって、そう呼ぶのに声が裏返った時なんか、義母は手を叩いて笑っていた。成瀬くんとはまた違う、温かな人達。それが、今の私の家族だ。
「あ、待って。あ……」
「何?」
「いや、お義母さんからだ。おめでとうって」
「え?」
文人くんも携帯を確認したが、彼の所には着ていなかった。またそれに剥れた彼は、直ぐに母親へ電話を入れる。そう言うのは息子に送るもんじゃないの、と。もうそれが可笑しくて、店の入り口の前で腹を抱えている私。今から綺麗にお化粧をして、ウェディングドレスを着るだなんて信じられない。
「え?えぇ……分かった。陽さん、はい」
「え?」
不機嫌そうに、携帯を私に差し出した彼。より増して剥れているが、笑っても良いのか分からない。
「はい。陽です」
「あ、陽ちゃん。おめでとうね。それからね、有難う」
「え、えっと……」
「一度結婚に失敗した男よ?ソイツに何か原因が無いとも言えないじゃない。文人を選んでくれて、本当に有難うね」
穏やかな声で、義母はそう言った。
彼女はとても優しい人だ。田舎の人付き合いは分からないが、義母と同居しながら、男の子三人を育て上げた。逞しくなければ、やって来られなかったのだろうと推測している。文人くんは『ガサツな母』と形容するが、私はそうは思っていない。そうならざるを得なかっただけだ。付き合い始めて一番最初に、彼の実家へ挨拶に行った私達。それを誰よりも喜んでくれたのは、義母だった。小声で何度も、文人で良いの?と聞いて来たことを昨日のように思い出す。キッチンに立てば、お料理も教えてくれる。母とそうした時とはまた違う。緊張と楽しみがそこには在った。
「お義母さん。これからも宜しくお願いします」
「いえいえ。こちらこそね。さぁ、楽しんでらっしゃい」
明るい義母の声に背を押され、私は口角を上げた。文人くんへ代ろうと思った電話は既に切れ、また彼は頬を膨らませる。
ここのところ、こういう展開が実に多い。最たるものは、プロポーズを私がしたことだったか。女の子がハッキリそう言えるのはかっこいいわねぇ、と義母が言ったのが面白くなかった彼。あの日も酷く不貞腐れていた。だからさっきも、それを思い出して濁していたのだろうと思う。
「ねぇ、今の僕の家族だよね」
「え?ふふっ、そうね。あ、でも今は。私の家族でもあるんだけど」
「あぁ……そうだった」
その事実を改めて思うと、彼はすっかり機嫌を良くしたようだった。簡単な男だな、なんて思っちゃいけない。それだけ、私と家族になることを喜んでくれることに感謝しなければ。
私がプロポーズをしてから一年が経った先日。婚姻届を出し、正式に夫婦になった私達。小川陽、改め、成瀬陽。それが私の名前である。
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