第二話 俺の迷い(上)

「あぁ……もう朝か」


 ベッドにも入らず、ただウトウトしていた俺は、窓の外の明るさにハッとして時計に目をやった。午前九時三十分。今日は休みだ。この時間までボォッとしていたって、特に問題はない。ないのだが。頭は直ぐにフル回転させなければならないような気がしていた。

 昨夜の出来事は夢ではなかったか。現実に在った話なのか。俺は、変に覚めた目を擦って、に手を伸ばした。


『好きです』


 小さなカードには、朝になってもそう書かれていた。昨日だって何のことなのか分からず、何度も読み返したが、書かれていることが変わる訳でもない。良く見慣れた、瑠衣先生の少し角ばった文字。俺はそれを、今日も不思議な気持ちで見ていた。彼女は、本気でこんなことを言っているのだろうか。頭の中のパニックはそのままに、薬缶を火にかけ、冷たい水で顔を洗った。全く想定していなかったことが起こると、人間は直ぐに昇華は出来ないらしい。恐ろしいくらい冷静に動いているが、頭の中はパニックだった。


「何かあったのかな……」


 鏡に映る自分が呟く。彼氏にキレて、胸倉をつかんで別れた。瑠衣先生は、昨日そう言って怒っていた。でもだからと言って、後輩である俺に、あんなことを簡単に言うような人ではない。何かがあった、という風に考えるのが妥当だろう。落ち着かず、狭い部屋を右往左往している。湯が沸けば、インスタントコーヒーに注いで座って見るものの、今日は何だか味が良く分からない。テーブルの上に置かれたカードに目をやっては、溜息を吐いた。見紛うことのないその文字。ぼんやりと瑠衣先生の顔が思い浮かぶ。

 俺は一体どうすれば良いのか。何言ってるんですか、と笑って済ませる?いや、酔っ払いの戯言ではないんだ。俺はこうして、文字として書かれた物を受け取ってしまったのだ。じゃあ、どうしたい?一度は好きかも知れない、と思った相手。しかも本命の緋菜は、全く連絡が付かない。瑠衣先生を異性として見られるのなら、この気持ちを受け入れるのも有りなのか。


 そしてフッと、昨夜の会話が蘇る。会いに行っちゃえば?と、瑠衣先生は言った。もしかしたら、どっかの男が言い寄ってるかも知れない。そう俺を嗾けた。そんなことはない、と思いたいのは山々だが、悲しいかな、それを否定出来ないでいる。俺たち以外に構ってくれる奴が出来たから、緋菜はメッセージも寄越さないのかも知れないのだ。


「あぁ、くそっ」


 俺はカップをドンと置き、上着を手に取って、勢いよく玄関を開けた。行く先は、良く分からない。だけれども、行かないといけないんだ。緋菜の顔を見に。アイツが怒っている顔をしていたら、俺は待つ。いつになったとしても、ちゃんと話をしたい。誰も差し伸べられないだろう手を、俺は緋菜に差し出したいのだ。でも、アイツが楽しそうにしていたら。それは俺が、俺たちが必要なくなったということ。緋菜のことだ。上辺の笑みなど簡単に分かる。だから俺は、それを見に行こうと家を飛び出したのだ。九割は苛ついたままだろうと確信しながら。

 

 瑠衣先生の気持ちが本音だとしても、有り得ないという気持ちが勝る。それはやはり、彼女を女性として意識しきれないということだろう。就職したての俺を、丁寧に指導してくれた先輩。どちらかと言えば、姉のような存在である。緋菜みたいに、くだらない話をして笑っているような、二人の楽しい未来の想像は出来ない。今はまだ。

 俺は無意識のうちに、瑠衣先生と緋菜を比べている。結局、緋菜が好きなのだ。それなら断ればいい話。でも、その前に見ておきたかった。今の緋菜を。確信が欲しかったのだ。アイツはきっと俺たちを待っているのだ、と。


「どっちだ……」


 家を飛び出て程なくすると、仏具屋が沢山ある通りへ出た。勢いだけで出て来たが、俺は緋菜の職場を知らない。仏具屋、ということくらいの情報しかないのだ。キョロキョロ見たって、そんなに簡単にアイツが見つかる訳じゃない。ここは勘を頼るしかないだろう。緋菜のことだから、家からは遠くないはず。俺はその通りを、緋菜の家の方へ向かって歩き始めた。


「ここも違うか……」


 一先ず通りの店を、チラチラと覗いて歩いた。大概がガラス張りで、店内はおおよそ確認が出来る。数軒目で不審者のように見られたが、それどころではない。通報さえされなければ、人目など気にしていられなかった。緋菜、緋菜。逸る気持ちが溢れ、落ち着かない。あんなに連絡が付かなくても、ここまで焦らなかったのに。緋菜はきっと、ムスッとした顔をしているはず。俺はそう信じて止まなかった。そしていつの間にか、ただ会いたい気持ちだけになり始めている。

 でも何軒見て回っても、緋菜らしい女は見つからない。大きい店から、小さな仏具屋まで。俺は隈なく覗いて歩いた。それでも、緋菜が見つからない。週末は必ず仕事があるから、どこかには居るはずなんだ。店頭にいないかも知れないのに、何故か自信があった。きっと会える。それだけを信じた。


「反対方向だったか」


 浅草ではなく、上野方面へ進んでも、仏具屋はまだあったはずだ。進路を決めた交差点まで戻るが、焦って、冷静になれそうにない。足早にそこを過ぎると、直ぐに大きな仏具屋があった。ショーウィンドウの中に何だか見たことのない、金ピカのグッズが並べられている。それを物珍しそうに見ながら、チラチラッと中を覗き見る。見える店員は、おじさん、お婆ちゃん、それから青年。緋菜らしい女は、ここにもいなかった。


「次。次だ」


 仏具屋と書かれた看板が目に入れば、全て覗いた。アイツがどんなところで働いているのか、全く見当も付かない。とにかく片っ端から覗いて、探していた。そして、古く立派な仏具屋を過ぎた時、俺の耳に聞き馴染みのある声が届く。


「有難うございました。お気を付けて」


 さっき覗いた時は見えなかったが、この声は緋菜だ。俺は陰に隠れて、ゆっくりと振り返った。見間違えるはずがない。そこに居たのは、ひと月ぶりに見る緋菜だった。


「緋菜……」


 そこに緋菜が居る。元気にしていそうなことが分かっただけで、俺は嬉しかった。今直ぐに目の前に立って、抱き締めてやりたいくらいの気持ちでいる。元気だったか、と頭をグルグルに撫でてやりたい。そう思う位に、自分が高揚しているのを感じている。

 緋菜は客であろう老夫婦と談笑し、笑顔で手を振った。どうせその後は、スッと真顔になるんだろう?そうだろう?と俺は、当然の如く彼女がするであろう反応を期待している。けれど、緋菜は彼らが去っても穏やかなままだ。少し伸びをして、深呼吸をしているではないか。何だか清々しい顔をしたと思えば、頭をブンブンと振っている。一つも真顔にはならず、苛ついた顔でもない。後輩らしい女の子に話し掛け、笑顔で店内に入って行くのだ。俺は、それが一番信じられなかった。例え仕事だとしても、緋菜はそうは出来ないと思っていた。何でも直ぐに顔に出るし、何ならいつでも気に食わない顔をして生きている。それが俺の知っている緋菜だったからだ。


「三山さん、とても良いお顔をするようになったわね」

「そうだね。あれが彼女の素顔なんじゃないかな」

「そうね。何か良いことがあったんじゃないかしらね。ふふふ」


 俺の前をゆっくり通り過ぎていく老夫婦から、緋菜の話題が聞こえた。何か良いことがあった?緋菜に?確かに今見た緋菜は、苛ついた顔など一つもしなかった。それは……そういう、こと?

 サァッと血の気が引いた俺は、気付けばもう家へ引き返し始めていた。さっきよりも大股で、ぐんぐん進んでいる。九割、いやそれ以上は、どうせ苛ついているだろうと思っていた。あんな顔をして過ごしているなんて、一割も思っていなかったと思う。穏やかに手を振って、同僚と笑顔で話す?しかもそれは、緋菜よりも明らかに若い女の子。それが尚更信じられず、幻なのかとすら思う程だ。でもあれは、間違いなく緋菜だった。


「何だよ……」


 俺の苛立ちは、既に始まっている。緋菜が元気だったことへの安堵はあるが、それを打ち消してしまう程の苛立ちだった。さっきの老夫婦が穏やかに言った声が、俺を殴りつけているのだ。良いことがあったから、俺たちなんて居なくたって平気。良いことがあったから、成瀬くんからの連絡も無視。良いことがあったから、良いことがあったから……。

 今見た緋菜が、全てではないはずだ。いやそもそも、俺の知っている緋菜が全てではない。元々そういう奴だっただけなのかも知れない。落ち着け、落ち着け。冷静に考え直そうとしても、怒りや悲しみ、それから悔しさが、次々と顔を出していた。

 コンビニに流れ込み、乱暴にバターと生クリームを手に取る。その勢いに店員が目を丸くしたが、そこに愛想を振りまく余裕などない。袋に入れられたそれを握って、俺はまたぐんぐん歩いた。ただ真っ直ぐ、俺の狭い部屋へ向かって。

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