第二話 俺の迷い(下)
オーブンの中で、スポンジが膨らんでいくのをじっと見ていた。少しずつ甘い匂いが、狭苦しい部屋に漂い始める。可愛らしく成長するスポンジを見ながら、また意図せず溜息が出た。ここを出る時は、いつもの緋菜がいる自信があったのに。それに反して、緋菜は笑っていた。想像していた以上に、楽しそうにしていた。たったそれだけの事実が、今、俺を苦しめている。俺はどこかで、緋菜に必要とされていたかったのだと思う。楓が
ピーピーッと焼き上がりの合図が鳴り、俺を現実に引き戻す。シャンとしなさい。そう言われているようで、つい苦笑いを浮かべた。ケーキクーラーの上に逆さにして、また溜息が零れるのである。
「さて……」
気持ちを切り替えよう、とフィリングを作る作業に取り掛かる。生憎、俺の部屋には、飾り付けに適した果物なんてなかった。冷凍庫に眠っていたベリーミックスを引っ張り出し、砂糖掛けして置いたそれを火にかけた。ゴムベラでコーンスターチを混ぜながら、頭の中はグルグル、グルグル。とろみが付けば冷水で冷やし、次はクリームをホイップして、ホイップして、ホイップして……。また一段と大きな溜息を吐いた。
「あぁっ……んだよ」
むしゃくしゃして、ボウルをドンと叩きつけた。
緋菜には、俺たちが必要なかった。その事実が、いつまでも頭の中で周回している。勿論、アイツの世界の全てを知っている訳じゃない。そもそも、俺たちをそこまで必要としていなかっただけかも知れない。でも、それはそれで腹が立った。あんなに陽さんにも迷惑を掛けたくせに。傷付けたくせに。新しい男が出来たら、サッサとその関係を断ち切るのか、と。
「……くそ」
思いがけず、涙が零れた。多分これは、後悔だ。悔しくて何度も、「くそっ」と小さく呟いている。もっと早く会いに行っていれば。ちゃんと向き合って話せたら。出来もしなかったことを後悔しているのだ。緋菜が臍を曲げるだろうから。そう思って強引なことはしなかった。でもそれは、緋菜に嫌われるのが怖かっただけだ。クリスマスの時のようにすれば、良かっただけなのに。
呆然としてキッチンに座り込む。また流れた涙を拭って、俺は携帯を手にした。見慣れた名を表示して、一言だけ送信する。『あれ、本気で言ってますか』と。
「フフッ、上書きすんのかよ」
自分の口を吐いた言葉に、少し驚いた。もう俺に残されたのは、緋菜を忘れることだけ。だからと言って、それを瑠衣先生に求めるのは違う。緋菜のことを勝手に好きで居たって、別にいいはずだ。でもそれをしようとしていないのは、アイツが俺たちに、もう会う気すらないと知ってしまったからである。
焼けたスポンジに目をやって、重たい腰を上げる。半分にして、ホイップクリームとベリーのフィリングを挟む。そこからはもう無心に、綺麗な焼き色の上へクリームを塗り付けた。唇を噛んで、鼻を啜って。緋菜のことなんて忘れるのは簡単だ。そう自分に信じ込ませようとするのに、アイツの笑顔が忘れられそうにない。くそ、くそ、くそ。何度も何度も呟いていた。
どれくらい時間が経ったろう。出来上がったケーキをボォッと見つめて、俺はキッチンに立ち尽くしていた。もうクリームを飾り付けるところもないそれを、ボウルを抱えて見ていたのである。
「あ……しまった。一人じゃ食いきらねぇな」
ゆうに四人分はある、立派にデコレートされたケーキ。無計画さがここに出る。口金を使い分けて、何だかゴージャスな物が出来上がっていたのだ。片笑みが浮かぶほど馬鹿らしい完成品に、急に冷静さを取り戻した。
「成瀬くん、暇かなぁ」
呟いて手にした携帯。そこには彼女――瑠衣先生からメッセージの返事が着ていた。ゴクリ、と唾を飲み込んで、俺はそれを開く。今は緋菜のことで頭が一杯で、何も考えられそうにない。どうか嘘だと言ってくれ、と思いながら。
『ホント、急に何だって話だよね。ごめんなさい。話せば長いんだけれど……』
『あの気持ちは本当です』
文字が恥ずかしそうにソワソワしている。あぁ本気だったんだ。そう思うが、気持ちはどこか平坦だった。喜ぶ話なのに、何だか嬉しくない。緋菜の今を知って完全に落ち込んでいるし、瑠衣先生は何時までも俺の先輩である。どうしたら良いんだろう、と静かなパニックになっているのだ。
瑠衣先生と付き合う、なんて、今は到底考えられない。でもそれは、仕事場での彼女くらいしか知らないからだ。緋菜はもう戻って来ない。ずっとここで待っていても仕方ないじゃないか。
『有難うございます』
『少し考えさせて下さい』
無表情のままそう返事をすれば、また溜息が零れた。本当にこれで良いのか。瑠衣先生と付き合う?俺の気持ちはそれで良いのか?考えれば考えるだけ、悔しかった。答えなど直ぐに出る訳ないのに。
「もしもし、成瀬くん?あのさ……悪いんだけど、今から行っても良い?あ、うん。お家に。急にごめん。あぁそうだ、知らないや。どうするかな。あぁうん。多分三十分くらいで行けると思う。ゴメン、ありがとね」
用件を言わないまま、矢継ぎ早に約束を取り付ける俺に、彼は少し訝しんだようだった。でもこのまま一人で居たら、勢いだけで返事をしてしまいそうになる。それは怖かった。一度、誰かと話をして、ちゃんとした冷静を取り戻したかったのだ。
作り上げたケーキを、真っ白なケーキボックスに放り込む。上着を着て、片手にそれを持って、玄関を直ぐに開けた。午前中に飛び出した時のような、勢いはない。
成瀬くんと待ち合わせたのは、不忍池の入り口辺り。正月にそこで彼と別れて緋菜と歩いた道を、一人逆方向に進んだ。あぁこうやって、やり直せたらいいのに。ひと月前まで戻れたら、俺は直ぐに緋菜の元へ行くだろう。こうして、大きなケーキを持って。それを切らずに、二人で食べるんだ。クリスマスの夜のように。
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