第一話 彼女の変化と私の戸惑い
「バレンタインか……」
コーヒーを片手にして私は、ソファに腰掛けながらそう呟いていた。ピンク色のハートの風船が、カフェのガラス窓の外で風に揺れている。去年は征嗣さんが前日に来ると言うから、小さなケーキを焼いたっけ。今年は、今のところ何の連絡もない。絶対に来る訳ではないのに、念の為に、とチョコレートを買い込んである自分が居たりする。
今日は、二月十四日。金曜日に休みを合わせて、緋菜ちゃんと待ち合わせをしているところだ。
緋菜ちゃんときちんと向き合ったのは、ひと月前のこと。彼女は成長しようと、藻掻き始めたところだった。それからの彼女の変化は著しい。新しいことを知る度に、それをどんどん吸収するのだ。それは近くで見ていて、とても幸せなことだった。何かがしたいのに、何をして良いのか分からない。色々な業種、資格なんかを知って夢見ては、瞬時に諦める。緋菜ちゃんは、そんなことを繰り返していた。微力ながら私は、それをサポートしている。私が幸せだと思えるのは、きっと、彼女が友人として必要としてくれるからだ。今日みたいに休みを合わせてみたり、仕事の後に時間を作ったり。私たちは、そのことだけを考えた。互いにそれが、楽しかったのだと思う。
それなのに、私の本心は揺らいだままだった。仕事とプライベートで忙しくすることで、征嗣さんへの不安は消えるだろうと思っていたのに。それは全くの誤算だった。こうしているうちに、気持ちを戻さなければいけないのに。征嗣さんとの別離を、決めた時に戻らねばならないのに。私はそれが出来ずにいる。
「連絡は、ないか」
確認した携帯には、特に連絡もない。私は今、成瀬くんからではなく、征嗣さんからの連絡を待っている。好きだからではない。ただ心配なだけ。別れたい気持ちは変わらないのだ。私は、可愛らしいリュックを背負ったあの子の笑顔を、戒めのように何度も思い出していた。
「陽さん、ごめん。待った?」
「ううん。今、一口飲んだところよ」
「ホント。良かった」
私たちは、今まで通りだった。ぎくしゃくしたのは、あの時だけ。以後は何ならば、今まで以上に仲良くなったと思っている。きっと彼らは驚くだろうなぁ、なんて思っているが、それについては未だ、緋菜ちゃんはゴーサインを出さない。
「バレンタインだったね。今日」
「ね。まぁ私は特に予定もないけど。緋菜ちゃんは良いの?」
「うぅん、本当は会いたいけど……でも、ちゃんとした私を見て欲しいから。いいの。そう決めたんだもん、頑張るよ」
「そっか。うん。頑張ろうね」
これが一番驚くことだが、彼女は徐々に素直に気持ちを吐露するようになった。昌平くんのことが、本当に好きなのだ。その軸だけは、ブレていない。これまでの自分の至らなさに気付き、変わりたい。そして、それを彼に見て欲しい。緋菜ちゃんの真っ直ぐな、そして素直な思いである。
「ねぇ。陽さんは、成瀬くんにあげなくていいの?大丈夫?」
「いや、いいでしょ。彼は彼で、誰かからいただいてますよ。私があげなくたって大丈夫。皆で会ったなら、まぁあげるだろうけれど」
「何か、ごめんね」
「どうして。別に私は、成瀬くんのことが好きな訳じゃないんだから。気にしなくていいのに」
「そ、っか。へへへ」
緋菜ちゃんは、私と成瀬くんが会うことを嫌がってはいない。自分とのことを話さないで欲しい。そう言われているだけだ。彼と距離を取っているのは、他ならぬ私である。
あれから、彼と会ってはいない。ランチはどうか、などと連絡をくれたけれど、私は首を縦に振ることが出来なかった。緋菜ちゃんのこともある。私はそれを上手く演じることは出来ない。そう言い訳をしているのだ、自分自身に。成瀬くんには申し訳ないと思っている。征嗣さんと別れる為に、あれこれ支えてくれているのに。私は、あんな顔をする彼を突き放すことが、今は出来ない。
「そうだ。ねぇねぇ、今度ヨガとか行ってみようよ」
「ヨガ?えぇ私、体固いのよねぇ」
「大丈夫だって。勢いで何とかなるよ」
「うぅん……せめてもうちょっと暖かくなってからがいいかな。ほら、気分的に」
頬が引き攣らないように気を付けて、誤魔化していた。薄着になる季節が来ることが怖い私が、ヨガになど行ける訳がないのだ。痛みが引いた後も、目に見える跡は忌ま忌ましく私の体に残っている。無意識に擦る服の下は、黄色くなり始めた痣が無数に存在していた。
「そっかぁ。確かに。あ、じゃあ春になったら行ってみようね」
「そ、そうだね」
春になったら行けるのか。春など、もうそこに来ているようなものではないか。少しだけ悔しさが顔を出す。私だって、友人とそう言うことをしてみたいのに。知られてはいけない、知られたくない現実が、私を掴んで離さなかった。
暖かくなる頃には、何かが変わるだろうか。別れられたとしても、自分の罪が消えるとは思っていない。「あぁ俺、結婚するわ」と軽く言ったあの人。それを突き放せず、何年も時を重ねてしまった。言い訳など、もう通用しないのだ。気付けばもう、今年で三十六歳。あの頃共に彼に教わっていた友人たちは、立派な母親になっている。そういう年なのだ。
「じゃ、読書でもしましょうか」
「そうだね。もう少しで読み終わりそうなんだ」
何となく微笑み合うと、私たちは静かに本を開いた。ここからは少しだけ、それぞれの空想の時間である。
彼女が変わりたいと言った時、先ずは達成感の得られる物を探した。ウェブだけの簡単な検定。それから、料理もした。そして私が彼女に手渡したのは、一冊の本。サン=テグジュペリの星の王子様、である。サラッと読んでしまえば、何てことのない本だ。余り読書をしない彼女は、それをとにかく丁寧に読んだ。一文を読み、世界を想像する。時々その一言に、自分を照らし合わせながら。
二度、それを読破した時、緋菜ちゃんは自ら図書館というものに足を運んだ。だけれどそこは、本の海のような場所で、彼女は戸惑ってしまったらしい。司書に声を掛け、読みやすい本を出して貰った、と喜んでいた。それから緋菜ちゃんとは、こうして初めに少しだけ本を読むようになったのである。
緋菜ちゃんの本は、色彩のことらしい。日本の伝統色、と表紙に書いてある。彼女の名は、緋色の緋。朱色のような綺麗な色だ。そういう所に興味を持ったのか。星の王子様から飛躍した訳ではないだろうが、新しいことを知るのは良いことである。
そして私が読んでいるのは、卒業論文時に読み漁った研究の最新のものだ。本当はあの頃なんて、思い出さない方が良いのに。征嗣さんが京都へ行ってから、私もまたあそこにいた自分を思い出していた。まだ若く、何も知らなかった私を。
「……さん、陽さん。大丈夫?今日ページ進まないね。難しいの、それ?」
「あっ、あっぁ。ごめん、ごめん。懐かしくて買ってみたんだけれど、やっぱり直ぐには戻らないわね。いちいち単語に引っ掛かっちゃう」
無理矢理笑みを作って、コーヒーに手を伸ばす。今日のお勧めは、エチオピアのモカ。それなのにわざわざ、私はグアテマラを頼んだ。そういう気分だったのだ、と思いたいが、実際はどうだったろう。
十年以上、征嗣さんと一緒に居る。だからこういう風に、彼が教えてくれた物が沢山あるのだ。当然、その全てを憎む必要はない。でも今は、本当はそういう物からも離れていた方が良いのかも知れない。私の中の征嗣さんが、小さく小さくなるまでは。今も戸惑いは消えない。彼への心配が、日に日に大きくなる。そんな私はまだ存在しているのだ。スパッと関係を切ってしまえば、全部終わるだろう。その為に、成瀬くんにも手を貸して貰っていると言うのに。
「今日は進まなそうだね」
「えっ、あぁ。ごめん」
「そんなに考え込むなんて、珍しいね。仕事のこと?大丈夫?」
「大丈夫よ。年度末が近付いて来るからね。つい休みの日も、あれこれ計算しちゃって。ホント休まらないわ」
フフッと笑い合うと、緋菜ちゃんが少しホッとしたように見えた。相談も出来ないことを抱えて、誰かに会うのは良くない。つい聞いて欲しくなってしまう。また、ごめん、と笑って、今日はパタンと本を閉じた。
「ねぇ、陽さん」
「ん、どうしたぁ?」
「私さ、決めたよ。やってみたいこと、見つかった」
重苦しい顔をしていただろう私。それを真っ直ぐに見つめながら、彼女は言った。キラキラと希望を盛った瞳で。不安と戸惑いに溢れた、迷った瞳しかしていない私に。
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