第三話 俺たちは理想と現実の狭間で(下)

「保育士だから、もっと優しくて穏やかな人かと思ったよ。だってさ」

「へ?そう言われたの?」

「そう。私、それが何だか許せなくて、引っ掛かっちゃって。モヤモヤして仕方なかったのよ。仕事に持ち込むつもりはなかったんだけれど」


 瑠衣先生はそう言うと、またググっとビールを流し込んだ。ここに入って一時間弱。もう何杯目かのジョッキは、また空になりそうだった。

 あの例の彼が言った一言が、彼女はずっと引っ掛かっている。喧嘩をした訳ではなさそうだから、恐らく何気なく放たれたのだろう。その一言が地味にダメージを与え続けることを、俺も良く知っている。保育士だから、優しくて絶対に怒らないと思った。俺も、そう言われたことがあったのである。彼らは、何の悪気もなく、ただ思ったことを笑い話のように話しただけかも知れない。けれどそれは、彼らの中の幻想――イメージに過ぎないのだ。それを押し付けられ、現実を知った途端にそう言われる。俺たちにとって、プラスになることはない。


「保育士は、清く正しく美しく。言葉遣いも丁寧で、間違ったことをしない。そんな訳ないじゃない。子供を見ている時は、手本になる様にするけれど。あくまでそれは、仕事でしょう?」

「そうなんですよね」

「私はあなたの母親じゃない」


 彼女の苛立ちは、きっと漠然としているのだと思った。そう言った彼に対しての苛立ち。幻想のような女になれない苛立ち。どれもが正解なのだ。

 他の仕事だったらどうかなんて、考えたことはないけれど。俺は少なくとも、緋菜が仏具屋だからって大人しいと思ったことはないし、陽さんが就職課だからって世話好きだと思ったことはない。まぁそれは、仕事を知る前に、彼女たちを知っていたからにすぎないが。けれど多少なりは、職種のイメージというものがあって、何となく結び付ける頭はある。ただ、俺たちの業種はそれが先行しがちなのだ。保育士だから子供好き。そんなイメージから、友人が集まった時に、その面倒を任されてしまう。そんな話も聞く。勝手に良い人だ、と決め付けられている職業なのである。


「今回は上手くいくって思ってたのよ」


 瑠衣先生は落ち込んでいる。怒りと失望と、女心。頭の中は、パンク寸前なのかも知れない。俺も少しだけ、心苦しかった。

 彼女が『今回は』と言ったのは、前にも同じようなことがあったからである。保育士全員が、同じように言われて異論を持つ訳ではないだろう。本当に優しくて怒らない人もいる。彼女はきっと、その幻想とのギャップに悩んでいるのだ。面倒見の良いさっぱりしたタイプの彼女は、彼のそれとは違う。ただ怒り狂っただけの前回と違うのは、彼女の中で本気の恋である証拠。そう思ったからである。


「簡単に忘れてやるって話でも……ないですもんね」


 分かった気になるのも憚られた俺に、そうよ、と瑠衣先生は低い声で言った。飲み過ぎでは、と一瞬心配したが、俺は気が付く。これは涙を堪えているのだ。それを知ってしまうと、何も言うことが出来なくなる。吐き出せただけ、気は楽になったのだろうが、そうしたことで感情のストッパーが外れてしまうこともある。今はその鬩ぎ合いだろう。


「瑠衣先生って、明日早番じゃないですよね?」

「んん……休みよ」

「そっか。俺、明日遅番なんで、ゆっくり飲みましょっか。ギリギリまでは付き合うんで。家に帰っても、一人で考え込んじゃうでしょ?」


 カウンターにもたれ掛かった彼女は、うん、と不貞腐れたように頷く。ユラユラとジョッキを動かして、その表面をボォッと見ている。俺は正面を見直して、ふぅ、と小さく息を吐いた。すると急にハッとしたように身を立てた彼女が、「それじゃ駄目だ。彼女は?」と慌て始める。酔っぱらっても、こちらの配慮は出来るらしい。


「あぁ、心配いらないっす。上手くいかなかったんで」

「えぇっ……そうなの?あんなに綺麗な子、滅多に出会えないわよ?」

「そういう、問題じゃないかな」

「私、やっぱり余計なことした?」

「あぁそれは関係ないです。大丈夫。アイツと俺の問題なんで」


 滅多に出会えない綺麗な子、か。確かに緋菜は、そう形容されてもおかしくない。同性でもそう思うのだ。男としては、なかなかお近づきになれない相手なのだろう。でももう、そんなことはどうでもいいのだ。綺麗な奴だから好きになった訳じゃない。俺はアイツと居るのが楽しくて、ホッとして、ただ一緒に居たかった。それだけだったんだ。


「そっか。上手く噛み合わない時もあるよね。少し経ったら、仲直りするといいよ。きっとね、一時の感情が強いだろうからね」

「そうでもないですよ。嫌な所が見えちゃったというか」

「あぁ、なるほどね。昌平先生は優しいし、頼もしい。でも、ちょっと周りが見えてない所があるからね。良い所ばかり目について、舞い上がってたんでしょ」

「痛い所、突かないでくださいよ」


 俺の話題に変わると、彼女はようやくケラケラ笑った。そう、そういう顔で良い。瑠衣先生はそうやって、ガハハって大きな口を開けて、笑っている方が良い。ホッとした俺は、彼女をじっと見ている。多分、俺も笑いながら。


「瑠衣先生は、そうやって笑ってる方が良いと思う」

「な、何よ。急に」

「いや、別に。そう言うのが、瑠衣先生だなって話。優しい、怒らないなんて幻想で、瑠衣先生は瑠衣先生の良さがあるでしょ。本当は、そこを見て欲しかったんだろうなって思って」

「昌平、先生……」


 違いました?と笑い掛けたら、彼女は一気に目に涙を溜めていた。真っ直ぐに俺を見たまま、涙がどんどん溜まっていく。そのうちにそれが、ポロリと頬を伝った。


「ヤダ。ごめん。泣くつもりなんてなかったのに。ダメねぇ」


 強がりなのか何なのか。彼女はバッグからハンカチを取り出すと、それを直ぐに拭って、笑顔で誤魔化した。その様子を黙って見ていた俺は、スッと彼女の向こう側の肩に手を伸ばす。無理しなくていい、と呟いて、俺は真正面を向く。俺を下の方から見つめた彼女は、堪え切れなくなった涙をその陰で流した。


 ただの同僚として、自分の思ったことを伝えただけだ。でも少しずつ、胸がドキドキし始めている。慣れないことをしているせいなのか、何なのか。俺たちは、世間の理想と『私』という現実の狭間で、藻掻き苦しみ足掻いている。それを、その痛みを分かち合っているだけだ。自分に何度も、そう言い聞かせた。少しだけ彼女を抱く手に力を込めながら。

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