第四話 僕が伸ばした手

 今日最後のミーティングを終えて、自席で資料の整理をしている時だった。机の上に放ってあった携帯が震え、小川陽、と表示する。呑気に、どうしたの?なんて聞いた僕に、彼女は余所余所しく話し掛けた。成瀬さん、と。あぁきっとわざと言っているんだ。そう察した僕は場所を変え、言葉を選びながら対応をした。隣に教授がいつのかも知れない。そう思ったからだ。

 土曜日の十一時。東京駅での待ち合わせ。僕らがさっき決めたのは、そこまで。詳しい話は追って、そう言った僕を彼女は拒んだ。つまりは、そう言うことだ。教授と陽さんの十年以上に及ぶ関係性と、僕との二月。どちらとの関係が色濃いかなど、誰に聞かずとも明白である。僕とそう仰々しく話をしながら、教授と手を握っているのではないか。そんな不安がない訳ではない。今は、僕の中で微かに震えた小さな手を、信じるしかないのだ。

 先ずは、美味しいランチを探そう。それから、その後に散策できるところも見繕っておこう。帰宅の波に揺れる疲れた顔をしたサラリーマンたち。僕もそこに漏れなく含まれながら、携帯の画面を立ち上げた。


「あ、そうだ」


 つい声に出して、前に立っていた男に不審がられる。しまった、とわざわざ表情に出して、僕は小さく頭を下げた。そして直ぐにアプリを切り替える。教授に報告を入れておいた方が良い。そう思ったからだ。



『小山田征嗣様


 お疲れ様です。いつもお世話になっております。

 先日、ご相談させていただいた件ですが、先程お返事頂けました。お誘いしてから時間が空いてしまったので、少し諦めもあったのですが、今週末に会うことが出来そうです。色々とご迷惑をおかけして、申し訳ありませんでした。あとは、僕の頑張り次第かと思っています。上手くいくと良いんですが。

 取り急ぎ、ご報告までに。お忙しい所、失礼致しました。


成瀬文人』



 こんなところで大丈夫だろう。土曜日に会う、という情報を失くすかどうか悩むところだが、これくらいは大丈夫だろうと判断した。あまり盛り上がり過ぎて、陽さんに実害が出てからでは遅い。控えめに、ただ恋下手な男がはしゃいでいる程度にしておきたかったのである。

 送信マークをタップすると、電車は最寄り駅に入る所だった。今夜は何を食べよう。料理の出来ない僕は、選択肢が狭い。週末のことも考えたいから、テイクアウトにしよう。そう決めれば、店を頭の中に並べるだけ。でも、僕の足は予定外の所へ向かった。改札を通る時は、頭の中はデパ地下で惣菜を買おうと決めていたのに。結局は駅前のコンビニに流れ込んだのだ。そして買ったのは、代わり映えしない、サラダと唐揚げの弁当。人間、結局は慣れた物が落ち着くものだ。なんて、言い訳をしながら会計を済ませる。ただ、気分は高揚していた。これからデートプランを練るんだ、とウキウキしているのだ。誰に言う訳でもないが、何故か僕は少し得意気だった。


「ただいま」


 誰もいない部屋に向かって、高々と独り言つ。今日は水曜日。陽さんと会うのは、明々後日。明日も、明後日も仕事なのに、もう既に浮かれているのだから苦笑しかない。手を洗って、温まっている弁当を開く。何となく付けるテレビには、名前も分からない若い女の子がニコニコと映し出されていた。

 画面に映る彼女は、『今大人気の若手女優』らしい。最近こう言うのに興味がなくなってしまったな、と思いながら、サラダを頬張り、ボォッと見つめた。彼女は目を大きく開き、驚いた顔を見せる。それから、口元を隠して微笑んだ。何だか必死に、可愛いをアピールしているように見えてしまった。こういう若い子を純粋に応援出来なくなってきたのか。けれど、若いうちに周りがチヤホヤし過ぎるのも良くないのにな。何だか親父臭いことを思っていた。若くて可愛いはある意味武器なのだろうが、そこ中身が伴わなければ彼女は消えていくだろう。


「あっ、そうか……そういうことか」


 一昨日、陽さんが緋菜ちゃんへ言った言葉を思い出した。若さと外見だけに、自分の良さを見出しては危険だ。確か、そう言っていた。きっと、今僕が思ったようなことを指摘していたのだ。確かに緋菜ちゃんは美人で、男たちも放っておくことはなかっただろう。そうか、そう言うことか。あの時僕は、苛立ちを抑えるのに必死で、聞こえていた言葉を上手に理解していなかったのだ。テレビに映る彼女は女優と言うのだから、演技力や何かがあるのだろう。そういう意味では、僕の知る限り、字が上手いしかない。陽さんの言うように、緋菜ちゃんには何かが不足している。

 そう言えば、緋菜ちゃんはどうしているだろう。あの日のうちに彼女へ謝罪をしたが、何も連絡はない。陽さんのお母さんの話も、昌平くんから聞いているはずだ。僕に連絡がないだけだろうか。昌平くんには返しただろうか。それを飛び越えて、陽さんに連絡がいったなら、それはそれで良いのだけれど。


「ご馳走様でした」


 満たされた腹を撫で、プラスティックの弁当箱を見つめる。思わず、溜息が出た。温かい飯が食えるだけ幸せだけれど、心の侘しさは埋まらない。離婚をしてから、こんなことばかりだ。紗貴が居てくれること――おかえり、と迎えてくれて、温かい飯を笑いながら一緒に食べることが、どれだけ幸せなことだったのか。僕は全く気付こうともしなかった。今でもこうしてを実感すると、結局あの頃を後悔して項垂れるだけだ。

 腹の底では未だ、これから幸せになるんだ、とは思えていない。陽さんと、と淡い期待はあるけれど、結局は怖いのだ。誰かをまた傷付けてしまうことも。誰かをまた失うことも。


「さて、検索、検索ッと」


 浸り始めた自分を、わざと朗らかな声で誤魔化した。こうしていないと、時折怖くなるのだ。紗貴にしてやれなかったことが多過ぎて、後悔の波が止まらない。そうして今の自分が、一気に押しつぶされそうになってしまう。僕は、決して強くはない。弱い人間なのだ。

 頭を振って、パソコンを立ち上げると、『東京 デート』と検索する。けれど結果にしっくりこなくて、『大人』と補助ワードを付け足した。高校生のようなデートを望んでいるのではないんだ。そうやって当日をイメージしてみては、何とか心の不穏を消していく。


「へぇ、こんなのもあるんだ」


 暫くデートなどしていないから、直ぐ新しい施設などに目を奪われる。けれど結局は、庭園や美術館辺りが妥当か。陽さんは、アクティブな物は好まないだろうから。上映中の映画を確認し、散策が出来そうな場所も探した。そして最大の問題は、食事だった。あくまで、今回は初めて二人で食事をする、という設定である。お好み焼きも一緒にと話したが、この設定では少し変な気がした。


「意外と難しいな……ん、あ」


 一つサイトを見ては思い悩んだ僕は、何となく手を伸ばす。陽さんから連絡は来ないのに、携帯を立ち上げた。そうして飛び込んで来た受信のポップアップ。着ていたのは、勿論陽さんではない。教授からのメールだった。


『成瀬文人様


 わざわざ連絡有難う。一先ず、良かったですね。何だか嬉しくて、電車の中で顔が綻んでしまったよ。当日のこと、今から悩んでいるんじゃないかな。あまり考え過ぎず、いつもの君で会ったらいいと思うよ。

 また何かあれば、相談くださいね。今夜はゼミの新年会なんだ。美味い酒が飲めそうだよ。


小山田征嗣』



 何が美味い酒だよ、と零しながら、僕は手荒に携帯を放った。

 メールが届いたのは、僕が送って直ぐのことのようだった。書かれていることが事実ならば、彼は今陽さんの所には居ない。今頃ゼミ生たちと、楽しく酒を酌み交わしているのだろう。あの外面の良さを思い出すと、僕はつい虫唾が走った。


「美術館の企画と、本屋も調べておこう」


 むしゃくしゃした感情を掻き消すように、僕は大きな声を発していた。今は未だ、彼は僕よりも彼女の傍に居られる人である。それに気付かされてしまうと、自分の中に嫉妬心が芽生えてしまう。

 今まで、こんな風に思ったことがあったろうか。男なのに、だとかそんな性差などない。これは、どれだけ深く相手を想っているのかという感情の一部だ。今まで誰かを羨むことはあっても、こんなにも誰かを妬むことはなかった。そう思うこともないだろうと、どこかで思っていた。恋は人を変えるのだろうか。いや、今まで知らなかった自分に気付いただけだろうか。


 僕は、この年になって『新しい自分』を知っている時なのかも知れない。出したことのない方へ手を伸ばし、触れ、感じている。紗貴の時や、今までとは違う物を、わざわざ得る為に。

 そうして当然なのだ。これまでと全く同じ恋なんて、ある訳がない。僕の伸ばした手は、いつか何かを掴むだろう。今は未だ、何も掴めなかったとしても。

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