第三話 俺たちは理想と現実の狭間で(上)

 結局、緋菜から連絡の来ないまま水曜日が終わる。俺は早々に謝り、落ち着いたら言われたことを考えてみろ、と伝えたけれど。やはり緋菜には、それすら面白くなかったと言うことだろうか。

 陽さんからは、あの後直ぐに『色々とごめんね』とだけ連絡が着た。彼女たちの所には、緋菜は連絡をしたのだろうか。わざわざそんな連絡は来ないだろうから、皆がどう思っているのかも知らない。でも、アイツのことだ。きっと誰にも本音を言えずに、未だ一人で苛々しているのだろうと思う。それだから、アイツは成長出来ないのだ。素直に相手の意見を聞くことが、先ず出来ない。何故か、自分が正しいと思っている。更に悪循環にさせるのは、本人がそれを全く疑問に思っていないことである。

あのまま瑠衣先生に会わずに、上手くいっていたらどうなっただろう。昨日から、そんなことを考えていた。緋菜は変わらないだろうし、俺は『好きだ』という感情に誤魔化されて、アイツを甘やかしてしまっただろうか。そう思えばやはり、今回のことは緋菜にとっては良い機会だったはずだ。本人がそう思えるまでは、まだ時間がかかるのかも知れないが。


「はぁぁぁ」


 溜息を吐きたい俺の横から、上書きするような大きなそれが聞こえる。ワザとらしくしている様子もなく、ただ本当にそうしたいだけ。そしてまた、彼女は溜息を吐いた。


「瑠衣先生、何かありました?今日ずっと溜息吐いてません?」

「あぁ、そうだったかなぁ……そんなつもりはないんだけど」


 彼女は今日、落ち込んでいると言うか、ずっとこんな感じでいる。元気ないねぇ、なんて、ませた子に頭を撫でられていた程、それは明らかだった。先輩の先生が陰で「仕事はしっかりやりなさい」と言っていたのは見えたけれど、俺は見ているだけだった。自分だって、今そこまで余裕がある訳でもない。腹の中は未だ、モヤモヤし続けているのだから。


「で、何かあったんすか」

「あった、と言えば、あった。なかった、と言えば、なかった」

「何すか、それ」

「何なんだろうねぇ……ホント」


 いやいや、と言ったところで、何だか彼女には届いていない気がする。上の空と言うか、明らかな悩み事を抱えてはいるのだ。ただそれを言わないだけ。緋菜と同じようで、彼女の場合少し違うか。その自分の中に発生した疑問や事象を、先ずは噛み砕いているのだ。悶々と苛々していたりする訳ではない。

 職員室戻って、雑務を始めても、彼女の溜息は止まらない。他の先生たちもその度に、彼女へ目をやるが、本人は全くそれに気が付いていない。周りと目を合わせて、俺たちの方が苦笑いである。


「あらぁ、瑠衣先生。どうしたの」

「園長先生。すみません、何でもないんです」


 ふらりと現れた園長は、目ざとく彼女の溜息に気が付く。おばさんが聞いてあげましょうか。あら、お婆さんだったわ。そう話し掛けるも、彼女の表情は暗い。まぁ対応に困るのも理解は出来るので、皆、薄っすら苦笑いを浮かべている。

 今日は何か疲れたし、早く帰ろう。そう決めて晩飯の想像をするが、いつもの店には今は行きにくい。どこか近くの飲み屋を探すか。フラッと歩きながら探しても良いな。そう思った俺と目が合ったのは、園長だ。彼女は何だか嬉しそうに、俺に近付いて来る。


「そうよ、昌平先生」

「えぇと……何でしょう」

「瑠衣先生のお話、聞いてあげたらどうかしら」

「お話……ですか」


 嫌な予感はしていた。近付いて来た時の顔は、まさに、あの時のお節介と同じ顔だったのである。園長にとっては、そのお節介の延長線なのだろう。瑠衣先生の恋路を応援している気でいる。俺が困惑していても、きっと見えていない。瑠衣先生は陰で手をバツにしているし、同情の眼差しが周りから注がれている。


「やっぱりね、誰かに話を聞いて貰うのが一番だと思うのよね。明日って早番だったかしら?」

「あぁ、いえ。遅番ですね」

「じゃあ決まりねぇ。ふふふ、宜しくお願いします」


 悪気がある訳でもなく、彼女は寧ろ良いことをしたと思っている。柔らかなパワハラとしか思えないが、俺は引き攣った顔で「分かりました」と答えていた。


「瑠衣先生、ちゃんと吐き出して。明日は仕事に持ち込まないように。ちょっと気が緩んだ時に、何かあっては大変なことですよ」

「はい。おっしゃる通りです。すみませんでした」


 園長が言っていることは、尤もだった。俺たちが一瞬でもぼんやりしている間に、子供たちは思いもよらぬ動きをするだろう。他人の子を預かっている訳だ。そういう気の緩みは、許されない。


「じゃあ、瑠衣先生。適当にどっか行きますか」

「あぁ……えぇと」


 俺の誘いに、園長はニコニコしていた。戸惑っているのは、瑠衣先生の方である。他の先生の目もある。嬉々とした表情を出す訳にもいかないのだろう。別に、実際に行かなくていいのだ。ただ、ここを出るまでは、そう演じてしまった方が面倒でない。それだけである。いつもなら、彼女の方がそういうことに気が付くのだが、今日はどうもそういう様子ではなかった。


「俺、終わったんで。適当に待ってますから。終わったら教えてください」

「あ、あぁ。うん」

「じゃあ、そういうことで。昌平先生よろしくね」


 園長が部屋を出ると、瑠衣先生は俺を拝み倒した。ごめん、と。


「あ、いや。別にいいっすよ。とりあえず、園長がいるうちは、あぁ言っておいた方が良いでしょ」

「まぁね。でも、ごめん」

「一応、待ってますね。園長、意外と見てるから」

「あぁ……そうね。分かった」


 瑠衣先生は、また一段と大きな溜息を吐いた。他の先生から、流石ね、と褒められたが、別に嬉しいものでもない。園長はとても優しいお婆ちゃんで、皆に慕われている。だから誰も、今のことを本気のパワハラだとは思っていないのだろう。温かな視線に気が付くと、皆、小さく頷いて見せた。

 それから、ぼちぼちと皆が帰り出す。俺はそれを見送りながら、これから飯を食う場所を探していた。緋菜からの連絡はない。そればかりを気にしていたら、きっと苛々してしまうから。今は自分の空腹を満たすことだけを考えていた。


「昌平先生、ごめん。終わった」

「じゃあ、帰りますか。とりあえず、駅辺りまで行けば大丈夫でしょ」

「そうね。本当にごめんなさい」

「いえいえ。園長ですから。可愛いから、憎めないんですよねぇ」

「あぁ、分かる」


 いつもの雑談をすれば、彼女は同じように笑った。深い悩みがあるのだと思うが、少しは落ち着いたのかも知れない。悩み事が昇華出来た訳ではないのだろう。時々キュッと唇を噛む。言って来ない限りは、触れずにおいた方が良いのだろうか。それとも、飯くらい誘うべきか。


「昌平先生は、あの彼女と上手くいってる?綺麗な子だったわよねぇ」

「あぁ、それは。まぁその……ってとこですね」

「え?やっぱり喧嘩したのね」

「あぁ、いや。あれとはまた別の話で」


 苦笑いで誤魔化そうとしたが、彼女の興味を引いてしまったようだった。爛々とした瞳が、こちらを窺っている。あまりに好奇心剥きだしで見ているから、つい「自分はどうなんですか。何かあったんでしょ」と冷たく問うた。そもそも、こうして帰らねばならないのは、彼女が原因な訳である。


「あぁ。まぁね。そうなんだけれど。何だろうな、男の人ってさ……女の人に幻想を抱きがちよね」

「幻想?」

「そう、幻想。自分で、きっとこうだって決めてかかると言うか。何て言うか。男の人って、そういう人多くない?」

「いやぁ、どうだろう」


 幻想。そう言われても、俺はどうだったか。彼女にそんなことを思たことがあったか。何だか思い浮かばない。


「あぁ、もう。何なんだろう」

「やっぱ何かあったんですね」

「うぅん……ありましたよ。大したことじゃないけれど、本当に一瞬の一言だったけれど、大分傷付いたことがね」


 ようやく、彼女が溜息と共に苛付きを見せた。今まで職場だからと堪えていたのだろう。思い出したから、余計に腹が立ったのかも知れないが。


「昌平先生。本当に飲みに行かない?ご飯、予定ないでしょ」

「いや、勝手に決めて。まぁ、ないですけど」

「お願い。ちょっと付き合って。明日、遅番なんでしょ」


 そうですけど、と答える俺には、もう断る権利はなさそうだった。彼女は、そこにあった赤提灯の暖簾を潜り始めている。まぁ飯を食わないといけないし。彼女の溜息が減るのなら、仕事にも良いことだし。そうやって、何とか自分に折り合いを付ける。短く息を吐いて、俺は彼女の後を追った。入ったことのない店。何か美味いつまみでもあれば良いけれど。

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