第二話 私の未来を(下)

「はい、どうぞ」


 案の定やって来た征嗣さんの前に、コーヒーカップと皿に載せたティラミスを並べる。彼は驚いた顔をして、私を見た。そして直ぐにそれを疑いに変えると、俺の分か、と問うて来る。本当は誰かが来るのか、とでも言いたいのか。


「そうよ。きっと来ると思って、買って来たの」

「何で」

「だって、さっき心配そうな顔をしてたから。でも本当に来てくれて良かった。そう思ったのに来てもらえなかったら、寂しいもの」


 へへ、と笑顔を取り繕った。

 いつものように難しい顔で来た征嗣さんを迎えた時、今日は素直に対応をしようと決めたのだ。彼が結婚をしてから、こんな風に話すことなど忘れてしまっていた。いつだって小難しい話をして、体を重ねる時間を取るのがやっと。そう言葉にすれば、本当に虚しい関係である。


「心配そう、か」

「そう見えたんだけれど……違った?」

「いや、まぁそうかも知れないな」


 別に今更、可愛らしいと思って欲しい訳ではない。これは別離と言うゴールの為のやり取りだ。そう何度も自分に言い聞かせていないと、笑顔がスッと消えそうになる。気は抜けないのだ。彼は人一倍、そういう微々たる変化に敏感な男である。


「でも、ごめんなさい。あんなところで急に聞いて。ウジウジ考えてたら、結構時間が経ってしまって。そういうのって早く返事をした方が良いんでしょう?そう気が付いたら、焦っちゃって」

「まぁ、いいさ。正月に誘われたと言っていたな」

「うん。確か……三日だったかな。本当は、直ぐに断れば良かったんだろうけど。ほら、この間言ったじゃない?今年はお友達を作りたいって。だから、悩んじゃったの。もしかしたら、いい機会なんじゃないかって」


 ふぅん、と興味のない返事が聞こえる。素直に対応したって、結局はこうだ。面白くないのだろう。カップに口を付けてコーヒーを飲んだ彼は、無表情に空を見ている。コーヒーの香りに鼻をヒクヒクさせて、心を落ち着けているようにも見えた。今日淹れたのは、最後のグアテマラ。あと二杯くらいでこれもなくなるだろうか。


「それで、結局どうした。電話したんだろう?」

「うん。あの後直ぐにね、かけてみた。家に帰って改めてって程でもないし、ササッとね。済ませました」

「そうか。それで?」

「今週末、会ってみることにしたの」


 へぇ、と言う彼は、表情を失くしていた。自分で促したことなのに、どこか困惑しているように見える。本当は、私の意志で断ってくれると、思っていたのかも知れない。そう思うと、ギュッと心を摘ままれた感じがした。征嗣さんの中の葛藤が苦しい。彼は今、頭の中で今後の勘定をしているのだ。自分たちが仕掛けたことなのに、胸が酷く痛んだ。


「良いお友達になれるかなぁ」

「友達なぁ。大丈夫じゃない?陽は、その成瀬とそうなりたいんだろう?」

「あ、うぅん、いや。彼とって言う訳じゃないよ。交友関係を広げたいなと思ってたところに、たまたま誘って貰えて。折角だから、っていう気持ちが強いかな。男の子だから征嗣さん嫌がるかと思ったけれど、背中を押してくれて有難うね」

「あぁ。アイツ、いや成瀬くんなら、何かあっても俺も連絡出来るからな」


 何かあっても、とはなんだ。所々に引っ掛かりを感じるが、今日はいちいち反論はしない。ティラミスを頬張って、濃厚なマスカルポーネの味を堪能する。無邪気に「美味しい」と呟いた私を、征嗣さんは不機嫌そうに睨みつけた。


「何だか上機嫌だな。そんなに嬉しいのか。成瀬に会えるのが」

「へ?何言ってんの。久しぶりに新しいお友達が出来るのよ?ワクワクしない?もしかしたら、凄く面白い本とか知ってるかもしれないし。視野が広がるかも知れないでしょう」

「まぁ……な」


 面白くない、と顔に貼り付いている。けれど素直に嬉しがる私を前にして、彼はそう言えないのだ。征嗣さんもティラミスに手を伸ばし、小さな溜息を吐く。私はまた良心が痛んだ。

 本当は、分かっていた。こんなことをすれば、彼が苦しむということを。陥れたい訳ではない。不幸にしてやりたい訳ではない。そういうのは綺麗事に過ぎない。私から仕掛ければ、征嗣さんが苦しまずにこの関係を終わらせることは、ほぼ不可能だ。もし彼が、私を想ってくれているのなら、尚更。


「陽。楽しいと、良いな」

「え、あっうん。そうだね」


 征嗣さんから、思わぬ言葉を掛けられる。新しい世界に足を踏み出そうとする私に、彼はそっと寄り添った。またティラミスを口に運べば、自然と頬が緩む。さっきよりも纏わり付くようなチーズの味が、何度も口の中で泳いだ。それを飲み込んで直ぐ、征嗣さんの手が私の頭に伸びる。優しく撫でたが、彼は何も言わなかった。

 自然と合わさる視線。不器用な指が絡まる。静かに、それから激しく、私たちは唇を重ねた。私の口腔に残った濃厚さが、征嗣さんの唾液に溶けていく。彼は視線を外さずに、何かを確認するように私を見つめている。今夜はきっと、優しく私を抱くのだろう。

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